『アウステルリッツ』W・G・ゼーバルト【2】


去年読んだ金井美恵子の『噂の娘』も改行がないまま文章が延々と続く小説でしたが、この『アウステルリッツ』もまた、改行がほとんどありません。最初は、読みづらいかなあなんて思うんですが、これが不思議なことに、文章を追うのがだんだん心地よくなってくるんですね。
ただ、『噂の娘』が夏の日々の噂のような軽やかさを感じさせるのに対し、この小説は、ヨーロッパの石造りの建物のように底冷えのする、鬱々としたトーンがあります。まあ、このあとどうなるのかは、読んでみないとわからないわけですが。
そんなわけで、続きにいきましょう。


アウステルリッツは、ロンドンの文化史研究所で講師をしているとか。語り手である「私」は、そんなアウステルリッツのもとをしばしば訪れるようになります。ざっとアウトラインだけ書いておくと、アウステルリッツの研究は、今や「建築物相互の類似性」をめぐる膨大なものになってしまっているようです。彼の自己分析によれば、それは「ネットワークという概念」に魅かれるという性質からきているらしい。その一例が、鉄道への興味であり、アウステルリッツは自らを「駅狂い」と呼びます。
その後、語り手はドイツに帰国し、またイギリスへ舞い戻ってくるんですが、アウステルリッツとは疎遠になってしまう。そして、彼と再会するのはなんと20年後の1996年のことでした。場所は、リヴァプールのバー。

ふと、すでに足元があやしくなった一団の陰に、ぽつんとひとり座っている人がいることに気がついた。その人こそ、とその刹那にはっと意識したのだったが、二十年このかた会えぬのを寂しく思ってきたアウステルリッツその人だったのである。風貌にいささかの変わりもなく、物腰も服装もそのままであって、あのリュックサックを肩に下げたところまでが昔日の彼であった。ただ、以前と同じく妙なぐあいに頭からふくれあがった金色の波打つ頭髪だけが色褪せていた。とはいえこれまで私より十歳は年長だろうとふんでいた彼は、私の健康状態が芳しくなかったためか、あるいは彼という人が一生涯少年じみた面差しをとどめるあの独身者のひとりであったからなのか、このときの私よりも十歳は若いように見えたのである。私はアウステルリッツの思いもかけぬ出現に虚をつかれて、かなりのあいだ呆然としていたように思う。いずれにせよ記憶にあるのは、彼のそばへ行くまでに、アウステルリッツルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインが似ているという想いに打たれ、両者の相貌にともにある驚愕が穿たれていることを、凝然と考えていたことだ。それには、なによりも彼のリュックサックがあずかっていたのだろう。

リュックサック! このシーンが印象深いのは、何と言っても20年間変わらずにいたリュックサックのおかげですね。時として、その人自身にも増して、持ち物が印象に残るということがあります。その人の顔よりも、先に物が目に浮かぶというような。そして、それがリュックサックというのが素晴らしい。建築物を見にあちこちに出掛けるこの人物にとって、リュックサックとはある意味相棒であり、移動する部屋であり、脳の一部であるのでしょう。
このあと、アウステルリッツのリュックサックの由来や、ヴィトゲンシュタインがいかにリュックサックを愛用していたかが語られます。そしてその側には、古びたリュックサックの写真が添えられている。この写真が、アウステルリッツのリュックなのか、ヴィトゲンシュタインのリュックなのか、それともまったく関係のないリュックなのか、そのあたりは、例によってキャプションがないのでわかりません。でも、いいんだな、この写真が。語り手が、バーでリュックサックに視線が吸い寄せられていった様子が、浮かんでくるんですよ。
さて、ヴィトゲンシュタインです。ヴィトゲンシュタインもまた、独身者でした。そのあたりも、アウステルリッツと似ている由縁かも。そして、「両者の相貌にともにある驚愕が穿たれている」という下りを読むと、どうしたって、冒頭に出てきた哲学者の目の写真を思い出さずにはいられません。夜行獣の目と並んでいた、あの写真です。言われてみれば、下段の写真はヴィトゲンシュタインのようにも見えてきますが、どうなんでしょう。
アウステルリッツは、「彼がついにここ数年に探りあてた彼自身の来歴に耳を傾けてくる人を見つけなければならない」と思ってたらしく、このあと滔々と自らの出自について語り始める。ということで、ここからは、ひたすらアウステルリッツの一人称による語りが続くことになります。

子供の時分からずっと、私は自分という人間がほんとうは何者か、知らなかったのです。今にして思えば、もちろん、アウステルリッツというこの名前だけで、そしてこの名前が十五の歳まで私には伏せられていたという事実だけで、本来ならばおのれの出自を探らずにはいられなかったところでした。けれども、私の思考力にまさる、あるいは思考力を統べている何物か、脳のどこかで周到に気を配っている何物かが、終始私の秘密をみずからに対して閉ざしつづけてきた、そして私がしかるべき推論をみちびきだして相応の調査をはじめるのを、総力をあげて阻んできた、それがなぜだったかもまた、この数年ではっきりしてきたのです。

出生の秘密、でしょうか。15歳までその名が伏せられていたというのは、気になりますね。トラウマのようなものがあったのでしょうか?
アウステルリッツが語るところによれば、彼はウェールズ地方の説教師夫婦の家にもらわれて育ったとか。イライアスというその説教師の語る話は、人間の罪業と神罰、いわゆる「旧約聖書の報復神話」といったものでした。いやだなあ、こういうの。宗教のこの手の強迫めいたところは、どうにも気分を憂鬱にさせます。そんな養父のもとで暮らしていたせいでしょうか、アウステルリッツは陰鬱な少年時代を送ります。
そんな彼の心にあるとき刻まれるのが、イライアスの生家のある、今はもうダムに水没したサヌジンという村のイメージです。

水没前のサヌジンはつとに名の知れた村で、夏の宵に煌々と照る満月のした、村の芝生広場で夜どおしサッカーが行われることで有名でした。それも近在の者まで含めた、老若とりまぜあらゆる歳の百名をくだらぬ男たちが寄りあうのです。サヌジンのサッカーの話は長いこと私の空想をとりこにしました。とアウステルリッツは語った。それはなによりも、イライアスがおのれの人生について幾ばくかを漏らしたのが、後にも先にもそのときかぎりだったからに相違ありません。(中略)義(ただ)しき者である彼だけがサヌジンの洪水をひとり生き残ったのだという気がしました、あとの人々はすべて、両親も、兄弟姉妹も、親戚も、隣人も、村民も、ひとり残らず深い水底に沈んでいる、まだ家にいたり、そこの通りを歩き回ったりしている、でも口を利くことは叶わず、両の眼を大きく瞠っているばかりだと、そんなふうに思えてくるのです。

確かに、この夏の夜の100人サッカー大会のイメージは、魅力的です。田舎の村のお祭りという感じでしょうか。その日はみんながハメを外す、賑やかな一日。鬱々としたトーンのなかで、このイメージはやけにキラキラしています。失われてしまった輝ける夏の夜…。
おそらくアウステルリッツの頭の中では、湖の底でもサッカーが行わてれいるに違いありません。水中にゆらゆらと揺れる光のなか開催される、無言の死者たちのサッカー。それは、恐ろしいというよりどこか懐かしい気すらしてきます。もちろん、実際は聖書の大洪水じゃあるまいし、死者なんかいないはずですが。
やがて、イライアスの妻が病に倒れるとともに、アウステルリッツは私立学校へと送られ、寮生活を始めます。そして、イライアスも入院してしまったある日、校長から「アウステルリッツ」という名前を告げられます。「どうやらそれが、きみの本名らしいのですね」。校長の話によれば、戦争が始まった頃に、まだ幼い彼をイライアス夫妻が引き取って今日まで育ててきたらしい。
自分がその家の子供ではないということは薄々勘づいていたとしても、いきなりの新しい名前に、彼は大いに戸惑います。せめて、「ジャック」みたいなありきたりな名前だったらよかったのに、よりによって「アウステルリッツ」ですからね。

どう綴るのか見当もつかず、なんとも珍奇な、秘密の暗号めかした名を、一字一字、三度も四度もたしかめたあとで、ようやく顔を上げて訊ねました。「すみません、先生、この名前はどういう意味なのでしょうか」するとペンリス=スミスは言ったのです。「じきわかると思いますがね、モラヴィア地方の小さな町がこの名前ですよ、有名な戦争のあった場所です」そうしてなるほど、翌学年には授業でモラヴィアの町アウステルリッツ(現チェコ領のスラスコフ)がこと細かに論じられたのでした。

確かに、いきなりわけのわからない名前が君の本名だと言われたら困ります。実感が湧かないというか、取っ掛かりすらつかめない。うーん、地名か…。それが彼の出生に何か関係があるんでしょうか。
ちなみに、有名な戦争とは、ナポレオン時代の「アウステルリッツの戦い」のこと。そして、彼に授業でこの戦争について教えてくれたのは、ヒラリーという歴史教師でした。椎間板ヘルニアを患っていたこの教師は、時に床に仰向けに寝そべりながら、活き活きとこのアウステルリッツの戦いの様子を語ってくれます。
寝転がって授業するというのもかなり可笑しいんですが、この教師、なかなかいいことを言うんですよ。ちょっと長いですが、引用しましょう。

一八〇五年十二月二日という日を、ヒラリーは何時間だろうが語りつづけることができました。しかしいかに語ろうと、それでもあまりに多くをはしょりすぎた、というのが彼の意見なのでした。なぜなら、よしんば考えもつかない一貫した手法によって語り得たとしても、とヒラリーは私たちにくり返し言うのです。はたしてその日一日のうちに何が起こったか、正確に、誰がどこでどのように果て、あるいはどのように命拾いしたか、たとえば宵闇が降りてきた時刻ひとつとっても、そのとき戦場がいかなるありさまだったか、負傷兵や瀕死の兵がいかばかり泣き叫び、いかばかり呻いていたか――それらをほんとうに描き出すためにははてしない時間が必要であるからである、と。つまるところ、われわれは自分たちの知り得ないことを、〈戦局は二転三転した〉といった笑止千万な一行なり、似たりよったりの毒にも薬にもならぬ表現なりにひとくくりにしてしまうしか、なすすべをもっていない。細部まで目を凝らしているつもりの者をふくめて、われわれはおしなべてとっくの昔に誰かが舞台に載せた大道具小道具を、何度も何度も使い回しにしているにすぎないのだ。われわれは現実を再現しようとする、だがそうしようと躍起になればなるほど、我々の眼にはすでにこれまで史劇の舞台でお目にかかった常套場面しか浮かんでこない。たとえば戦場に斃(たお)れた鼓手、今まさに敵兵を刺し貫かんとする歩兵、眼窩から飛び出した馬の眼の玉、混戦のさなか、一瞬の静寂の時に将官たちに囲まれて屹立する不死身の皇帝、といった…。われわれの歴史への無関心というのは、つまるところ出来あいの、頭の中に先に刷りこまれたイメージへの関心にほかならず、われわれはそれをためつすがめつしているだけである、じつは真実はまったく別のところ、誰も気づかないどこか別の片隅にあるというのに、というのがヒラリーの自説でした。

これは腑に落ちますね。お決まりのイメージで語られる歴史は、わかったような気にさせてくれるけけれど、実は本質を覆い隠している。それが、歴史への無関心につながっているんだと。ウィキペディアで「アウステルリッツの戦い」について調べてるような歴史に疎い僕は、ただただうなだれるばかりですが…。
でも、過去の歴史を正確に再現するなんてことは、不可能に決まっています。一日の出来事を語るのに、たとえ一日かけても「あまりに多くをはしょりすぎた」となるに決まっています。じゃあ、どのように歴史を語ればいいのでしょうか? うーん、これは難問です。


というところで、今日はここ(P72)まで。アウステルリッツのひとり語りは、まだしばらく続きそうです。