『アウステルリッツ』W・G・ゼーバルト【5】


わ、前回の更新から、こんなに間が空いちゃったのか。なかなか、テンションを保つの難しくって、ついつい放置してしまいましたが、ようやく再開。
ざっとおさらいをしておくと、建築文化に造詣の深いアウステルリッツという人物が、自らの生い立ちや、これまで記憶の奥底に閉じ込めていた子供時代を探る旅について、「私」に向かって語り聞かせる。そのアウステルリッツについて「私」が様々な写真とともに記録したものが、この『アウステルリッツ』という小説である。というのが、おおまかなアウトライン。
では、その続き。チェコにたどり着いたところからいきます。


チェコの国立公文書保管所で、自らの名前だけを頼りに調べてもらったところ、生家はあっさりと見つかります。訪ねた家にいたのは、ヴェラという女性。彼女は、アウステルリッツの子守りをしてくれていた人物です。アウステルリッツの両親は、もうそこには住んでいません。
ヴェラは、少年時代のアウステルリッツの思い出を、こんな風に語ります。

とりわけよい季節には、日課の散歩から帰ってくると、まず窓辺のゼラニウムの鉢をどけなければならなかった、とヴェラは語りました。そうすれば私がお気に入りの場所から、ライラックの庭と、向かいの背の低い家を眺めることができたのです。その家はせむしの仕立屋モラヴェッツの仕事部屋になっていて、ヴェラがパンを切りお茶のお湯を沸かしているあいだ、私はモラヴェッツがいま何をしているか、上着の擦りきれた裾を直しているとか、ボタン箱をかき回しているとか、コートにキルトのライニングを縫いつけているとかを、逐一実況中継したというのでした。でもヴェラが言うには、とアウステルリッツは語った。私のいちばんの関心事は、モラヴェッツが針や糸や大きな鋏や他の仕事道具をみんな片づけて、フェルト張りの仕事机をきれいにし、そこへ新聞紙を二枚重ねに敷いた上に、先刻から楽しみにしていたにちがいない夕食を広げる瞬間を見逃さないことにあったのです。(中略)私の一風変わった観察の才について語りながら、ヴェラはついと立っていくと、内窓と外窓の両方を開け放ち、窓下に広がる隣家の庭を見せました。おりしもライラックがまっ白な花房をたわわにつけて咲きほこり、立ちこめてきた薄闇のなかで、春のさなかに降り積もった雪のようなけしきでした。壁に囲まれた庭から立ちのぼってくる甘やかな香り、家並みの空はるかに懸かる三日月、ふもとの街にとよもす教会の鐘、仕立屋の家の緑のバルコニーと黄色いファザード、ヴェラの言うにはもう疾(と)うに生きてはいないそのモラヴェッツは、あのころよくバルコニーに姿を現して、熱く熾った炭を詰めた重いアイロンを振り回していたものだった……そんな光景、あんな光景が、つぎつぎと連なって浮かび上がりました、とアウステルリッツは語った。私の内深くに埋もれしまわれていただけに、窓の外を眺めやるうちに甦ってきたそれらの心象は、なおのこと鮮烈に輝いていたのです。

ゼラニウムの鉢をどけ」るという、日常的な行為から語り起こされる記憶。日々のささやかな習慣から始まるというのが、すごくいい。少年アウステルリッツが眺めているのもまた、隣家の日常的な光景です。仕立屋の仕事、そして夕食。こうした暮らしが、それぞれの屋根の下にあったのでしょう。そんなことを感じさせます。
ところで、ひたすらアウステルリッツの語りが続くこの小説には、カギカッコが出てきません。ずらずらと地の文が続き、「とアウステルリッツは語った」というフレーズが挿入される。これ、以前読んだ『噂の娘』とも少し似ています。あの小説もまた、記憶をめぐるものでした。
この文体、決して読みづらいわけではありませんが、ややこしいことにアウステルリッツの語りの中で、別の人物のセリフが出てきたりして、そうなると「でもヴェラが言うには、とアウステルリッツは語った」と入れ子状になっていきます。
ヴェラはかつての窓の外の光景を語り聞かせ、そのあとで実際に窓を開け放ちます。記憶の窓が開かれ、一気に様々な光景がなだれ込む。そのとき入れ子の語りの境目が溶け合い、記憶と目の前の景色が混ざり合う。ヴェラの語ったことなのか、アウステルリッツが目にしたものなのか、よくわからなくなっていく。
このようにヴェラの思い出話とそれに喚起されたアウステルリッツの記憶が、混ざり合いながら語られていきます。その一つひとつが素晴らしく、このあたりはじっくりと読みたいところ。
そして話題は、やがてナチの侵攻という暗黒時代へと移っていきます。

一九三三年の初夏に、マクシミリアンはテプリツェであった労働者集会を終えて、少しばかりエルツ山脈のほうへ車を飛ばしてみた、そのときどこかのビアガーデンで出会った行楽客は、ドイツ側のある村でいろいろと買い物をしてきた人たちだった。そのひとつに新発売のキャンディでラズベリー色の砂糖菓子があったのだけれども、それは文字通りとろけるようにおいしいハーケンクロイツだった。このナチのキャンディを見た瞬間にマクシミリアンは悟ったと言うの、とヴェラは語りました。上は重工業から下はこんな悪趣味な菓子の製造にいたるまで、ドイツ人は生産全体を根本から改編してしまったのだ、それも命令されたからではない、国民のおのおのが、各自の持ち場で国家の再起に燃えているからなのだと。

翌朝、夜もまだ明けきらない時刻、激しい吹雪をついて、まるで地の底から湧き上がってでもきたかのように、ほんとうにドイツ軍がプラハに進駐してきた。戦車が橋を越えてナードロニー通りを進んでくると、街中を深い沈黙がおおった。人々は顔をそむけ、その時から行く先知らぬ夢遊病者になったみたいにのろのろと歩くようになった。なかでもとまどったのは、一夜にして車が右側走行に変わったことだったのよ、とヴェラは言うのでした、とアウステルリッツは語った。右側を走りすぎていく車を眼にするたびに、わたしは心臓がぎゅっと縮まるような気になった。これからずっと、この左右が逆転した(ファルシュ)世界で生きていかなくてはならないんだって、そう思えてしかたがなくて。もちろん、とヴェラは続けました。新政権のもとで暮らすのは、わたしなんかよりアガータのほうがどれだけ辛かったかわからない。

またしても、「マクシミリアンは悟ったと言うの、とヴェラは語りました」とか、「とヴェラは言うのでした、とアウステルリッツは語った」とか、語りの入れ子。マクシミリアンとアガータは、それぞれアウステルリッツの父と母の名前です。アウステルリッツの語りに出てくる、ヴェラの語りに出てくる、アウステルリッツの両親の語り…。そしてそれらをこの小説の語り手である「私」が、手記としてまとめている。
ナチの脅威が徐々にプラハの街を覆っていく様子を、ヴェラは語ります。。ハーケンクロイツのキャンディ! 今の僕らの目から見たらおぞましいものですが、重要なのはそれが作られたのは「命令されたからではない」ということです。車が右側走行に変わるというのも、ショッキングです。支配というのは、こんな風に世界を変えてしまうんですね。
冒頭の夜行獣館のシーンに出てきた「ファルシュ」という言葉が、ここでもくり返されます。意味はよくわかりませんが、自分のいるべき場所ではない世界ということでしょうか。最初のシーンでの言葉を借りれば、「まやかしの世界」「さかしまの小宇宙」。

ウィルソン駅での別れの場面は、ぼんやりにじんだような光景しか浮かんでこないのよ、とヴェラは語って、しばらく思いに耽ったあと言いました、あなたは、身の回りの品を入れた小ぶりの革トランクをもっていたわ、それから食べ物が少し入ったリュックをひとつ。――食べ物が少し入ったリュックをひとつ(アン・プチ・サッカ・ド・アヴェク・ケルク・ヴィアティック)……あれから思い返すに、自分ののちの人生はヴェラのこの短い言葉ひとつに尽きていた、とアウステルリッツは語った。

アウステルリッツ少年がプラハから旅立つときの様子について語られた言葉、「食べ物が少し入ったリュックをひとつ」。それが自分の人生だというアウステルリッツの言葉は、胸に迫ります。自らのルーツを失いさまよう彼の肩には、それだけしかなかったのです。彼にとっては、世界のどの場所も「まやかしの世界」だということです。
ヴェラは、アウステルリッツに写真を見せながら語ります。「忘却の底から浮かび上がって来たこういう写真には、独特ななんとも知れぬ謎めいたものがあるわ」。そう、これは写真についての小説でもあるのでした。

写真の中で何かが動いているような気がするの、ひそかな絶望のため息が、聞こえてくるような気がするの。まるで写真そのものに記憶があって、わたしたちのことを思い出しているかのように、わたしたち生き残りと、もうこの世のひとでない彼らの、ありし日の姿を思い出しているかのように。そう思うわ。もう一枚の写真、ここに写っているのが、としばしのあとヴェラは続けました。あなたよ、ジャック。

「あなたよ、ジャック」と示される写真が、次ページに小さく挿入されています。この本の表紙に使われているのと同じ子供の写真。写真の裏には「ジャック・アウステルリッツ、薔薇の女王の小姓」と記されています。どうやら、何かの折りに仮装したときの写真のようです。
ここで、奇妙なことに気づきます。これほどまでに写真が登場するこの小説の中で、アウステルリッツその人の写真は、この1枚しか出てきていないんですよ。彼が見たものの写真は山ほど出てくるのに、自分の写真はほとんどない。
ルーツを失ったアウステルリッツは、世界に属しているという気分が持てずにいる。世界からはじかれてしまってるわけです。そして、カメラのレンズをのぞき込むという行為もまた、被写体となる世界の外側にいるということにつながります。
この古びた写真には、心を揺さぶられます。彼が世界に属していた頃の写真。しかし、この写真の少年は、どこか孤独なもの問いたげな眼差しをしています。ヴェラが言うように、写真が「わたしたちのことを思い出している」ように思えてくる。

あれから、この写真をいくたびも子細に眺めました。私の立っている、どこと想像もつかないがらんとした平たい草原、地平線の向こうのぼんやり翳っているような箇所、輪郭が不気味に明るい男児の縮れ毛、曲げているらしい、あるいはひょっとして折れたか副木を当てているのかもしれない腕に被さったマント、大きな真珠母の六つのボタン、アオサギの羽で飾った奇抜な帽子、ハイソックスの皺、細部の細部まで拡大鏡で検分してみましたが、なんの手がかりも得られませんでした。そしてそのたびに、私は、このお小姓のいぶるような眼に刺し貫かれる気がするのです。この子は自分の分け前を取り戻しにやってきていて、この夜明けのがらんとした野原で、私が彼の挑戦をうけて立ち、やがて彼を襲うことになる不幸を阻止してくれるのを待ち設けているのだと。

写真が僕らのことを思い出している。リチャード・パワーズの『舞踏会へ向かう三人の農夫』にもそんな話が出てきましたが、僕らが写真を見ているように、写真も僕らを見返している。写真の世界から見ればこちら側こそ「さかしまの小宇宙」です。
写真の中の少年は、大人になったアウステルリッツのことを待っている。でも、そちら側には行けないのです。何故なら、写真の世界から見れば我々は幽霊のようなものだから。


ということで、今日はここ(P178)まで。あと残すところ1/3くらいです。
アウステルリッツの、そしてヴェラの長い長い語りを読んでいると、これは「語り」についての小説なのかもしれないという気がしてきます。そして、それは「記憶」というものと深く結びついてる。