『愛と障害』アレクサンダル・ヘモン【5】


時間をかけて少しずつ読んでいったんですが、とても味わい深い短編集でした。連作って言ってもいいのかな。どうやら同一人物に見える語り手の人生が、ほぼ時系列に沿って一人称で語られていきます。構成が見事で、順番に読んでいくとどの作品も少しずつタッチが違う。「ああ、こういう作品集ね」と思ってると、それがさらりと裏切られる。例えば、青春小説集だと思って読んでいたら、予想に反してどんどん大人になってくとかね。一人称かと思っていたらいきなり三人称で始まったり、アメリカにいると思っていたらいつの間にかサラエヴォにいたり。ある作品だけ「わたし」という一人称になってたり、また別のある作品だけは細かな章題がついていたり。
「どうやら同一人物に見える」なんて回りくどい言い方をしているのは、このタッチの違いからもわかるように一人称の語りが微妙な揺らぎを含んでいるからです。例えば、語り手が書いたとされる「愛と障害」という作品が何度か登場します。「すべて」と「指揮者」では、「僕」が書いた詩として。「苦しみの高貴な真実」では、「僕」が雑誌に掲載した短編小説として。これは、語り手がずっと同じモチーフを抱いているということかもしれないし、パラレルワールドのように微妙に異なる世界の話かもしれない。
この作品集の語り手は、ヘモンと似たような境遇の人物です。サラエヴォで生まれ育ち、アメリカ滞在中にボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が勃発して故郷へ帰れなくなる。そのためアメリカで暮らし始め、作家としてデビューする。しかし、語られたことと実際に起こったことはイコールではありません。語りの中では、真実は常に揺らいでいる。真実を描くということをヘモンが素直に信じることができないのは、紛争時に自分は故郷に居合わせなかったという思いと結びついているのでしょうす。自分は見てもいないことを語ることができるのだろうか? ヘモンはそうした問いを突きつけます。だからこの語り手は、体験したこととしていないこと、さらにそれを語るということについて、常に立ち戻る。
終盤になるにつれて、このテーマが色濃くなってくるんですが、振り返ってみると最初から「語ること」について意識的な描き方がなされていることがわかるでしょう。荒唐無稽な武勇伝を語る人物が出てきたり、一人称なのに体験していないことをあたかも見てきたかのように語っていたり。その他にも様々な仕掛けが、さりげなくあちこちに施されています。日記や詩、小説の引用を挿入したり、インタビューや父親の手記といった枠を設けたり。これらが、これ見よがしな仕掛けのための仕掛けになっていないところが、ヘモンの巧みさです。すべてが「語ること」というテーマににつながっているんですよ。


僕がヘモン作品に惹かれるのは、その描写の力です。「ずっとこの場面を読んでいたい」と思わせるような吸引力がある。最初の三編「天国への階段」「すべて」「指揮者」に登場する夜をうろつくシーンはどれも魅力的だし、子供時代を振り返る「蜂 第一部」「アメリカン・コマンドー」のいきいきとした描写もいい。「シムーラの部屋」のごちゃごちゃとした室内描写や、「苦しみの高貴な真実」の辛辣なパーティの描写も面白い。
あとは、ユーモアかな。紛争や移民といった題材からシリアスな作品だと思われるかもしれませんが、シニカルな比喩が散りばめられていてニヤリとするような場面がたくさん出てきます。何より語り手のイタいキャラクターが可笑しいです。むっつりスケベで小心者で思い込みが激しくて見栄っ張りでタチの悪い酔い方をする。要するに、僕らの隣人ですよ。その主人公のこじらせた語り口から、じんわりと染み出してくる情感が素晴らしい。
もう一つ挙げれば、どの作品も始まりと終わりがすごくいいですね。導入部のさりげないツカミと、結末の鮮やかさ。どちらも、予想を軽く裏切るような書き方がされている。特に終わり方は、物語がきれいに閉じる前に、チョンと切ったような感じで、何ともいえない余韻が残ります。はっきりとした結論を出す前に終わる。そこから、うっすらと浮かび上がる人生の豊かな味わいを、何度も脳内で反芻したくなります。
いつものように、僕のベストを挙げておきましょう。
1「指揮者」
2「苦しみの高貴な真実」
3「アメリカン・コマンドー
4「すべて」
1と2は同傾向の作品ですが、どちらもすごくよかった。4は「シムーラの部屋」「蜂 第一部」と入れ替え可能かも。


ということで、『愛と障害』はこれでおしまい。亡くなられた岩本正恵さんの素晴らしい訳にも感謝を込めて。