『ノーホエア・マン』アレクサンダル・ヘモン【2】

一章の最後の方に「彼にはどんな物語があるのだろう」というフレーズが出てきましたが、第二章ではヨーゼフ・プローネクの半生が語られます。そうそう、それが知りたかったのよ。では、つづきから。


「2 イエスタデイ/サラエヴォ、1967年9月10日―1992年1月24日」。
章タイトルの「1967年9月10日」は、ヨーゼフ・プローネクの生まれた日。出産時に頭が「母親の股で引っかかってしまった」というエピソードから、彼の人生は始まります。

ヨーゼフの乳児期は、平凡になにごともなく過ぎた。おっぱいを飲んで、眠って、うんちして、おむつを替えて、また眠って、おっぱいを飲んで、げっぷしてのくりかえしだった。初期の経験は溶岩のようにどろどろで、そこに危なっかしい岩が生じることもあった。ミリャッカ川の岸辺で午後の散歩をしていると、とげだらけの鎧(よろい)に包まれた栗がひざを直撃した。近所の犬が乳母車の日よけに顔をつっこんでヨーゼフの顔を舐めた。おむつ替えの最中に、電気ヒーターに向かって完璧な弧を描く小便を飛ばし、感電する寸前で放出を止め、尿が未完の夢のように蒸発した。両親が借りていた湿っぽい地下室のアパートに住みついていたネズミが、ゆりかごに入りこんでヨーゼフの腹に登った。ヨーゼフは腹に手をやって毛に覆われた暖かい体をつかみ、ネズミは生命と恐怖をみなぎらせてわなないた。

赤ん坊の、境目もはっきりしないようなとろとろとした幸福な時間。それを支えていたのは、やっぱり親なんだろうな。僕は子育ての経験はないんだけど、赤ん坊の周りには「すんでのところで」というような危機が当たり前のようにあるんでしょうね。というか、僕もそういう危なっかしい乳幼児期を経てきたんでしょう。覚えてないけど。電気ヒーターのエピソードがいいなあ。「尿が未完の夢のように蒸発した」って比喩が、可笑しくも美しい。こういうことが後々、笑い話となって語られるんですよ、きっと。あと、ネズミね。この作品、前章でも何度かネズミのエピソードが出てきてました。くり返し出てくるモチーフ、気になります。
少年期になると、プローネクは英語教室に通わせられます。歌うことが好きな彼は、そこで教わった歌を家に帰ってから大声で歌い両親の顰蹙をかう。

いったいどんなことを歌っているのか、両親はヨーゼフに問いただした。初めのうち、彼は本当の内容を絶対に明かそうとしなかったが、そのうちに適当にでっちあげるようになり、無知な親に対する自分の力を楽しむようになった。かくして「イエロー・サブマリン」は自由を求める風船の歌になり、「マイ・ボニー」は巨大な悪いトラックにひき殺された小さなリスが、神さまの力でよみがえっておばあちゃんの食料庫で暮らす歌になり、「だれかがだれかを恋してる」は、金持ちの老人から盗んで貧しい子どもたちに分け与える義賊の歌になった。社会正義の考えが気に入った両親は「いい歌だ」と言った。それでも警察の警部である父親は疑いを持ちつづけ、英語が話せて歌詞を解読できる同僚の力を借りようと考えたが、そもそも外国語を話せる同僚がひとりもいなかったため、計画は失敗に終わった。

面白いなあ。歌の内容を勝手にでっちあげちゃうというのは、両親に対する反抗だとしても、ちょっと気が利いてますね。この章では、こうしたユーモラスなエピソードがちょいちょい出てきます。前章を読んだ限りではもうちょっとシリアスな小説かと思ってたんですが、意外とくすぐりが入っている。例えば、前章でうっすらとした哀しさを感じさせた「英語がわかる/わからない」という言語の問題は、ここではジョークまじりのエピソードとして語られています。「社会正義の考えが気に入った」というのも可笑しいです。メロメロのラブソングなのに…。
彼はやがて音楽に夢中になっていきます。そのきっかけがこれ。

けれどもここで、やはりある小さな瞬間をクローズアップしておきたい。シュトロスマエロヴァを歩いていた彼は、楽器屋の前で立ち止まり、ビートルズの楽譜集に目を留めた。われわれも一緒に正面から店のウィンドウを見てみよう。彼の隣には、ねじれた震える手で杖を握っている老人がいるのを心に留めよう。大聖堂のほうを向いて、上り坂になった道の先にある階段を目に入れよう。大聖堂の鐘を聞こう。楽譜の表紙のリンゴが彼にウィンクしたと信じよう。すべてやり終えたところで、最後の仕上げにプローネクの未来を見てみよう。女の子に囲まれて、みな彼のギターのリズムに合わせて頭を振り、長い髪が揺れている――ごほうびに、強烈な啓示がもたらすここちよいうずきを感じよう。

サラエヴォでもビートルズにやられちゃった少年がいたということです。「啓示」ですからね。もう、ビビっときちゃったと。その瞬間をストップモーションのように描いているのが面白い。もしくは、映画的にパッパッと同じ瞬間に別々のカメラで捉えたカットが挿入される感じ。老人、階段、大聖堂の鐘、そうしたもの込みでこの一瞬が記憶に焼き付いてしまう。それくらい衝撃だったということでしょう。それを「われわれ」も一緒に体験してみようではないか、という語り口にも注目。「ごほうびに」というのが可笑しいですね。語り手の導き通りにプローネクと一体化してくれた読者への「ごほうび」、ということでしょ。というか、「われわれ」って言ってるあんたは誰だよ、と。
プローネクは友人のミルザと共にバンドを組みます。あーでもないこーでもないとバンド名に悩み、将来出すアルバムジャケットまで考えたりして、ああ青春だなあ。さらにジョージ役とリンゴ役のメンバーを加え4人編成で練習を開始。曲は、「シー・ラヴズ・ユー」「ガール」「ノーホエア・マン」「ヘルプ!」などなど。というところで、この小説のタイトルとなった曲が出てきました。「Nowhere Man」、邦題は「ひとりぼっちのあいつ」。おっと、この章のタイトル「イエスタデイ」もビートルズの曲名だ。
しかし、バンドは長くは続きません。ある日、プローネクが自作のラブソングを披露したところ、リンゴ役のドラマーが笑い出します。曰く「くだらない。だいたい、なんで英語なんだよ」。あ、それ言っちゃうんだ…。かくして、またしても言語の問題が浮上します。日本のロック史にも「日本語ロック論争」なんてものがありましたが、プローネクにも輸入音楽をどう解釈するかという問題が突きつけられるわけです。そんなこんなで結局、バンドは消滅してしまう。
このあともプローネクの青春時代が語られます。初体験を済ませ、ミルザと共にエレキギターを手に入れ、バンドを再開しようというところで恋人ができて、彼女と別れたショックで兵役につき、軍隊生活を終えたあとは、またミルザとバンドを再開する。
このあたりも、いちいち面白いです。何てことはないありがちな若者の青春時代が、巧みな文章のおかげでキラキラと輝き出す。いくつものモチーフが織り込まれ、過去と未来が響き合う。例えば、プローネクは、軍隊で知り合った男から「セヴダはボスニアのブルースだ」ということを教わります。「セヴダ」とは、「悲しみに満ちた人生と折あいがついているときに感じるここちよい魂の痛み」を表現したボスニアの音楽だそうです。これは、例の輸入音楽問題について考える一つのヒントになるんじゃないかな、なんて思ったりして。
もう一つ、このあたりから、語り手の姿がチラチラと前面に出てくるようになります。これまでも、「私は(中略)ここに記しておかなければならない」なんて記述があったんですが、ここへきてこの章がある語り手の視点から描かれていることがはっきりします。

すばらしい瞬間もあった。八〇年代のサラエヴォは、若い日々を過ごすには最高に美しい場所だった――なぜ知っているかといえば、私もそのころ若かったからだ。シナノキがこれを限りというように咲き誇っていたのを思い出す。その香りをいまも私は鼻孔に感じる。若い男はハンサムで、若い女は美しく、地元のスポーツチームはすばらしい成績を上げ、バンドは魅力的で、通りはペルシャ絨毯のようにやわらかく、冬季オリンピックが開かれて、われわれが世界の中心であるような感じがした。

「私もそのころ若かったからだ」って、この人もサラエヴォにいたわけね。でも、プローネクの誕生の瞬間からビートルズの譜面を見て受けた啓示まで語っちゃうこの人物は、いったい誰なんでしょう? 「けれどもここで、やはりある小さな瞬間をクローズアップしておきたい」「読者はこの主人公の人生がとりたてて非凡なものとは思わないかもしれない」「さて、わが友人たちの話に戻ろう」「私の翻訳力では、その不可解さを十分に伝えられないのが残念だ」という具合に、やけに出しゃばるこの語り手は、何者なんでしょう?
プローネクとミルザの新たなブルースバンドの演奏シーンには、こんな記述も出てきます。

そんなとき、人混みのすぐ上に彼を見つめる一対の目が、まるで罪深い彼の魂を見透かそうとするかのような目があることに、プローネクは気づいたことだろう。私はクークにもズーブにも行っているので、その目は私のものかもしれない。だが、私はどちらのクラブでもブルースバンドを聴いた覚えはない――酔っぱらいすぎて気づかなかっただけだろうか。

また、プローネクがキエフで行われるサマースクールに参加するという話題に関しては、こんな風に書いたりもします。

だが、それはまたべつの話だ。私はウクライナに行っていないので、彼の人生のこの部分については、だれかほかの人間に語ってもらわなければならない。彼はある女性に出会い、やがてシカゴで彼女を訪ね、その後、その地で永遠に不幸に暮らすことになる。その町で私は教室にいる彼に気づく。

神の視点というくらいプローネクの半生を俯瞰で眺めたり細部を描写したりするくせに、「聴いた覚えはない」とか「行っていない」とか、語り手の立ち位置がよくわからない。わからないけど、面白い。シカゴで「教室にいる彼に気づく」と言ってますが、前章の語り手と同一人物だとは思えないですね。だって、1章ではプローネクに対する記憶も曖昧だったでしょ。謎です。謎だけど、面白い。「彼は私に気づいていない。壁がその上で踊る影に気づかないように」。一方的にプローネクを見つめる人物。誰だ、あんた?
この章の最後に、プローネクは飛行機でアメリカへと旅立ちます。

飛行機は雲を通り抜け、プローネクにはなにも見えない。飛行機が黒い羊毛のような雲を抜けて星のない明るい空に出るころには、彼はもう昨日のできごとを思い出せない。窓から太陽が強く照りつけ、プローネクは日よけを下ろす。

「彼はもう昨日のできごとを思い出せない」。ビートルズの「イエスタデイ」の歌い出しはこうです。「Yesterday all my troubles seemed so far away」。このときプローネクはまだ、ボスニアで紛争が始まることを知りません。


というところで、今日はここ(P76)まで。思いのほか饒舌な文体、語りの仕掛けといった、僕好みの要素が出てきました。文章の凝りっぷりは、リチャード・パワーズに似てるかも。あとは、ユーモアですね。「完璧な弧を描く小便」といったフレーズの可笑しさとか。まだまだ全体像は見えませんが、読書の愉悦みたいなものを感じます。