『ノーホエア・マン』アレクサンダル・ヘモン【3】

前章にはこう書かれていました。「私はウクライナに行っていないので、彼の人生のこの部分については、だれかほかの人間に語ってもらわなければならない」。ということで、第三章では「ほかの人間」によってヨーゼフ・プローネクのキエフでの日々が語られます。なんとなくわかってきたけど、この作品は章ごとに語り手が変わるんですね。


「3 父祖の地/キエフ、1991年8月」。
これまでの語り手は名前がはっきりしませんでしたが、この章の語り手は名前が出てきます。

ルームメイトになる男は枕をはたいており、上半身は裸で、身につけているのは碇模様のパンツだけだった。「僕、ヨーゼフ」と彼は言って、枕をはたいていたせいで暖かい片手を差し出した。「ヨーゼフ・プローネクっていうんだ」。ここで自己紹介をさせていただきたい。私はヴィクター・プラフチュク。ここに来たのは、表向きは自分のルーツについての理解を深めるためだが、本当は、真にすべきことがわかるまで、とりあえずやることが欲しかったからだ。ヨーゼフの姿を描写させてほしい。その猫背ぎみの肩を、角ばったあごを、アーモンド形で、黒く、どこまでも深い目を。

キエフでのサマースクールでの対面シーン。語り手の名前は「ヴィクター」、シカゴからやってきた大学生です。それはまあいいんですが、不意打ちのように挿入される「僕、ヨーゼフ」に、ちょっと驚きます。ああ、考えてみれば、これまでこの作品に会話の形でヨーゼフ・プローネクのセリフって出てきてなかったなあと気づく。だから、初めて肉声を聞いたような新鮮さがあるんですよ。小説で肉声ってのも変な話ですが。
語り手が変わると、文体も変わります。第一章では静かな哀しみを、第二章では突き放したユーモアを文体から感じました。この第三章の文体の特徴は、熱っぽさかな。「その猫背ぎみの肩を、角ばったあごを、アーモンド形で、黒く、どこまでも深い目を」って、ちょっと酔ったような感じがあるでしょ。語り手であるヴィクターは、大学でシェイクスピアの研究をしています。だから、この章のあちこちでシェイクスピアのフレーズを引用するんですよ。「いやはや末世だ、狂人が盲(めしい)の手を引くとは」とかなんとか。この手の気取りと詠嘆調も、熱っぽいんですよね。
ちなみに、研究テーマは「クイア・リア」、同性愛の立場から「リア王」を読み直すというものです。でも、英語圏にいないプローネクには「クイア」がホモセクシャルを意味しているということがピンときません。ヴィクターとヨーゼフの間には、言語の溝があるんですよ。このあと、ヴィクターが水を向けると、ヨーゼフも大学で文学を学んでいたことを語ります。

「大学で読んだんだ」彼は言った。「リタラチ、リタラチュ――本の勉強をしているんだよ」
文学(リタラチュア)という言葉に苦労している彼に、私は親しみを感じた。私にとっても発音しにくい言葉であり、わかるよというように暖かく笑って、彼を小麦の束のように抱きしめたかった。教職についたいまでも、「文学」という語を発音しなければならないときには奇妙な感覚が湧きあがる――乳房がくすぐったくなり、目に涙があふれる。

面白いですね。ヨーゼフの「リタラチュア」に対する距離は、言語の違いからきている。一方、ヴィクターの「リタラチュア」に対する距離は、「文学」という制度への距離のように思えます。「リア王」を読み直すって言うくらいですからね。ちなみに、プローネクの国の言葉で文学は「ロマン」といいます。そして「ロマン」とは、ヴィクターの戦死した兄の名前でもある。こういう意味ありげなねじれも面白いです。
「教職についたいまでも」ってところからもわかるように、この章はヴィクターによる回想として描かれている。これも、ポイントですね。当時に寄り添いながらも、現在からの目線がチラチラと入り込んでくる。この揺らぎが、読んでいると非常にスリリングです。回想に文学的な色づけをしているんじゃないかとか、そのときはそうは思ってなかったんじゃないかというような記述が出てくるんですよ。
では、サマースクールの仲間と列車でリヴォフという町に向かうシーン。

雌ジカはわれわれが話しているのに気づいたように顔を上げた。ヨーゼフはなにも言わず、ゆっくり手を挙げてシカに向かって振った。一頭がこちらをよく見ようとするかのように小さく一歩踏みだした――神に誓ってもいい、シカたちはわれわれが見ていることを本当に知っていて、手を振るのを本当に見たのだ。彼の行為は、自然な、あたりまえのしぐさのように、手のごく単純な動きにすぎないように見えた。ヴィヴィアンの視線を感じて、私は手を振る勇気が出せず、ばつが悪かった。列車はふたたび発車し、驚きは加速して、シカはわれわれに尻を向けて走り去った。ヨーゼフと私は、無言のまま、濡れて冷たいガラス窓に背中を押しつけて立っていた。その瞬間を思い出すたびに(湿った朝霧、すべてを包む冷たい湿気、ヨーゼフの体の歓びなど)、私はヨーゼフが有するものを手に入れられなかったことを、結局失ったことを、認めないわけにはいかない――それは世界に反応し、語りかける能力だ。やがてリヴォフに着き、われわれは一緒に列車を降りて、冷たく厳しい空気のなかに踏みだした。われわれは、まるで手をつないでいるように、同時に深く息を吸った。友よ、ここはいったいどういう国なのだろう。

非常に美しいシーンです。列車の窓から朝霧に包まれたウクライナの森と二頭のシカが見える。しかし、このシーンの美しさはそれだけじゃないですね。語り手のうっとりした気分が伝わってくるでしょ。でも何に? ヨーゼフ・プローネクに、です。彼のちょっとした仕草を何度も脳内で反芻し、とても美しいものとして描写している。これはもう恋の目線です。お熱をあげちゃってる、という感じ。そうです、ボーイズラブです。
ただし、この当時、ヴィクターが自分の気持ちにどこまで意識的だったかはよくわかりません。自分の恋愛感情に気づくシーンは、もう少しあとになります。でも、大人になったヴィクターが過去を回想して書いている段階では、ヨーゼフへの気持ちはわかってるわけです。だから、青年ヴィクターが当時気づいていなかったかもしれないことを、大人になったヴィクターの熱っぽい文体が明かしてしまうということが起こる。ここに揺らぎが生まれます。面白いなあ。実に面白い。
これは、「リア王」をクイア目線で読み替えるというのともつながっていますね。そのつもりで読むと、この章のいたるところに同性愛の匂いがふわーっと漂っている。「湿った朝霧、すべてを包む冷たい湿気、ヨーゼフの体の歓び」という触覚的な描写。そして、「われわれは、まるで手をつないでいるように、同時に深く息を吸った」。上手いなあ、素晴らしい表現だなあと思うと同時に、「手をつないでいたかった」という未来のヴィクターからの目線が入り込んでいることに気づきます。
ちょっと話は逸れますが、この章に出てくる比喩は非常に面白いです。食堂車の汚れたテーブルクロスを「地元のジャクソン・ポロックヴィッチのカンヴァスと見まごうばかり」と表現したり、泥のようなウクライナのコーヒーを「パンに塗れそうなコーヒー」と表現したり、いかにもWASPという感じの青年の家族写真を見て「同じ人物が姿を変えたかのように互いに似ており、性交ではなく分裂で生まれた家族のようだった」と表現したり…。「分裂で生まれた家族」には、ちょっと笑ってしまいました。ああ、いるいる、そーゆー親子。こんなのも上手いな。

私は横歩きで人だかりのうしろにまわり、事故の現場を静かに見ている見物人に混じるときのようにテレビをのぞいた。

他の人が見ているテレビを覗き込むシーン。なんとも不穏な比喩ですが、テレビに映っていたのはゴルバチョフの失脚のニュースでした。1991年8月。ソ連でクーデターが起き、バタバタっと事態は動きます。その騒ぎの中で、ヴィクターはヨーゼフへの思いを強くしていく。
そして、ふいにこんなシーンが挿入されます。

一羽の鳥が研究室の窓にぶつかり、私は驚く――心臓は狂乱の輪を描いて走りまわる。鳥は――昏睡状態のスズメは――窓枠にあおむけに横たわり、小さなかぎ爪は無のかたまりをつかんでいる。私はあのキスを魂の超低温室にしまい、未来のために保存する。未来の見通しは日に日にしぼみ、私はときどき、とりだして解凍しようかという誘惑にかられる。外で、待っている学生たちのやかましい音がする。

教職についた現在のヴィクター。彼は、未だにヨーゼフへの思いを冷凍保存しているのです。甘美な過去。しかし、それは回想という形で彼が書き換えた過去かもしれません。この語りの仕掛けに、ふう、ため息が出ます。
サマースクールを途中で終えクーデターで騒然とするキエフをあとにするところで、ヴィクターの回想は終わります。
ふう。


というところで、今日はここ(P134)まで。それにしても、章によってヨーゼフ・プローネク像が変わるので、彼がどんな人物なのかはよくわかりません。群盲象を撫でる、といった感じでしょうか。この各章の微妙な違いを味わいながら読むのもまた楽しいわけで。