『メイスン&ディクスン』トマス・ピンチョン【8】


第一部を読み終えたところで震災がありなんか続きを読む気がしなくなっちゃった、というところで止まっていた『メイスン&ディクスン』ですが、映画『インヒアレント・ヴァイス』公開に合わせてピンチョンの原作『LAヴァイス』を読んだら思いのほか楽しく、今なら『メイスン&ディクスン』の続きも読めそうな気がする、ということでなんと4年越しの再開です。あんまりぎっちりぎっちり書いていくとまた面倒になっちゃいかねないので、できるだけびゅんびゅん飛ばすように読んでいこうかなと思ってますが、さて。
第一部では、天文学士メイスンと測量士ディクスンが阿弗利加(アフリカ)の岬町(ケープタウン)を訪れ金星の日面通過観測をする、その道中が描かれていました。というか、それ以外の枝葉の部分が多過ぎて、日面観測は一挿話くらいの扱いなんですが。そして第二部では、いよいよ二人がアメリカ大陸に「メイソン・ディクソン線」と呼ばれる境界線を引く旅が始まります。
ちなみに、先に言っておきますが、柴田元幸さんの訳文は擬古文になっていて、カタカナ語のほとんどが漢字に置き換えられています。引用するときは()でふりがなを表記していますが、読みやすくするために引用時にあえてふりがなを省略したり付け加えたりしている部分があります。
では、第二部「亜米利加」に突入です。


「26」の章。

岸辺から彼等は聞く、乳搾(ちちしぼ)り女達が云争い牛鈴(カウベル)がじゃらじゃら鳴るのを、犬の声、老いた赤ん坊新しい赤ん坊の声を、――金槌が釘を打つ音、妻が夫を詰(なじ)る声、鍋蓋が鳴り、牛馬の鎖が鳴り、広がる森から銃声が轟いて木から木へ、更に水の彼方まで余韻が響く……。動物が一頭、岬まで出て来て、立ち、間隔の狭い両目で二人をじっと見、その目が束の間仄(ほの)かに光る。二人が通り過ぎる中、動物の顔もゆっくりと回る。亜米利加(アメリカ)。

メイスンとディクスンの乗った船がアメリカ大陸に到着する場面。日没間近、音のほうが先に彼らの耳に届くというのがいいですね。様々なざわめきが列挙され、そのあとで岬に立つ動物の影が見える。そして、彼らはついにこの地にやってきたと実感するわけです。「亜米利加」と。やってきたのは、「費府(フィラデルフィア)」。当時はロンドンに継ぐ第二位の英語圏都市だったとか。都市のざわめきを描写するときのピンチョンは、とても楽しそうですね。あっちでもこっちでも常に何かが起こっている。
ところで、メイスンとディクスンのこの物語は、チェリーコーク牧師という人物がルスパーク家の子供たちに語り聞かせている、という設定になっています。ところが、語りの途中で雑談へと脱線していくこともある。この脱線が、またいちいち面白いんだな。以下は、最近の音楽の流行についてのお喋りです。

「これぞ革命の兆しですとも、巷の流行り歌が聖歌となり、浮れ騒ぎの歌が国歌になるというのは、――プラトンが恐れた通りですよ、――黒人の音楽を聴いたことがおありでしょう、五度の音が半音下がり、保送音(ポルタメント)で歌う、――あれこそ革命の歌声です。この十年、亜米利加は殺戮に明け暮れていました。今こそ世界の真の転覆が起きるのです。」
「どうかしらねえ、」テネブレーが云う、「貴方、目新しい音楽に随分入れ込んでるみたいだけど、――」
「他に何に入れ込めと?」若きエセルマー、自信満々の反問。「正にそれこそ蒸気機関の律動(リズム)ではないかね、工場の喧騒、大洋の揺れ、夜の太鼓連打ではないか、実際、もしそれに名を与えんとするなら、――」
「波の音楽(サーフ・ミュージック)!」ドピューが叫ぶ。

ここで言及されている黒人音楽は、ブルースの起源でしょう。そして、訳注によると「大洋の揺れ=the Rock of the Oceans」と「太鼓連打=the Roll of the Drums」に「ロックンロール」が隠されているとか。面白いなあ。お喋りしているこのときはまだ1786年です。つまり、「革命の音楽」として遥か未来のロックンロールを予言しているともいえる。しかも、そこから波が砕けるように「波の音楽(サーフ・ミュージック)」が誕生する。わぁお!


「27」〜「29」の章。
メイスンとディクスンはフィラデルフィアで、ベンジャミン・フランクリンに出会います。凧をあげて雷が電気だということを発見した、あのフランクリンです。しかし、この人物、なんともうさん臭い。メイスンとディクスンにそれぞれをスパイするように持ちかけたかと思えば、「硝子口琴(グラス・アルモニカ)」の演奏会を開いたりする。グラス・アルモニカは、おそらくグラスハープのことでしょう。
さらに、メイスンとディクスン、ジョージ・ワシントンにも会いに行きます。このときはまだ大統領ではなく大佐ですが。フランクリンは気象に詳しく、ワシントンは測量に詳しいというのは、天文学者メイスンと測量士ディクスンに対応しているのかもしれません。
ワシントンは二人に、入り組んだ土地の利権や「米畜(インディアン)」の脅威などについて語ります。妙に陽気でフレンドリーなところが、なかなかに政治家臭い。ワシントン邸で「煙管(パイプ)を何本かと、乾燥したての麻」が振る舞われる場面がありますが、これは大麻でしょう。サーフミュージックの次はマリファナって、ピンチョンの根底に流れるヒッピーイズムがチラっと見える。
ワシントン邸での会話は、土地所有を示す鉛の板を地中に埋めるという話題から思わぬ方向へ脱線していきます。金属の板、もしくは「円盤(ディスク)」には「電気的な目的」があるのかもしれないと。

「ひょっとして、わし等の貧弱な知覚器官じゃ判らんだけかも、」ディクスンがやり返す。「天体だってそうだった訳じゃないですか、つい此間(こないだ)、望遠鏡が発明される迄は……? そういう板だって、幾つも集まれば、大地が一種の蓄電層(ライデン・パイル)を形成しても不思議はないのでは? 単純に電力を貯めるのではないにしても、小さな電流を蓄えて、それが見えない符号へと容易(たやす)く変換され、学者なら当然知っている手段を用いて解読される……。」
「諸々の円盤に情報が込められているとしたら、挑戦、挑発ではないかな。」ワシントンが断じる。

また出ました。ふいに登場する「先取りした未来」。ディスクに書き込まれた電気的な情報。それはここでは空想話ですが、僕らは日常的に使ってるでしょ。どうでもいいような無駄話の中に、ピンチョンはこの手のいたずらを仕込むんですよ。それは、ある意味、無駄話の叡智といえます。
電気といえば、ベンジャミン・フランクリンですが、メイスンがフランクリン博士のショーを目にする場面も面白いです。

盛大な拍手に迎えられて、角燈(ランタン)の光の中に、頭巾を被(かぶ)って大鎌を持つ、骸骨に扮した人物が現れる、――が、口を開いた途端、邪悪な印象は相当薄れてしまう。「ん……? 結構結構……。さぁてお客樣方、何人かお手伝い戴けますかな……今日は見るからに、費府の青年の華が集まっておられますな……。御覧下さい、非凡なものを求めて止まぬ皆様、此方(こちら)が我が新しい電池、――ニ十四の瓶がぱちぱち鳴って準備完了です。」こう云ってフランクリン博士は頭巾をさっと後ろに投上げ、今夜は奇妙な藍緑(アクアマリン)色を帯びた透鏡を露(あらわ)にし、己の目を人目に晒(さら)しつつも、どこか寒々とした満足をその表情で伝え、他人からの長い凝視を無言の裡(うち)に禁じている。(中略)かくして一打(ダース)か其処らの、呑気な欧羅巴人を一列に並べ、その最後尾の人物の両手に、電池の一方の端子に繋いだ銅線を握らせ、最前の人物の片手を自ら握って、フランクリンは大鎌の刃でもう一方の端子に触れる、――と同時に飲み屋の亭主(あるじ)が蠟燭の芯に水をかける、――出現した活人画は、身の毛も弥立(よだつ)つ青白い閃光に照らされ、その周りで雷の如く轟く液体がブツブツパチパチ泡を飛ばし、参加した者達はクスクス笑い、更には悲鳴すら上げて、其処ら中で嗅煙草(かぎたばこ)が飛散り、時折、地獄の如き煙の柱の只中、緑の炎の大波が立ち昇りもする。
電池は放電し、明りが再び灯され、――一同じきに、雷雨の到来に気付くだけの落着きを取戻すと共に、窓ががたがた鳴出し、木々は軋(きし)み、亭主はあたふた窓幕(カーテン)を閉めて回る。電気愛好者達の強力な対抗馬が現れた格好であるが、実のところ彼等の願いにしても、愛好する流体を、なるたけ生々しい形で見たいということに他ならない。

大鎌を持った骸骨って、学者というよりオカルトで味付けした興行師ですね。なんとも、山っけたっぷり。かくして、科学と大衆文化が融合し見世物となる。「非凡なものを求めて止まぬ皆様」という呼びかけは、大衆の欲望が刺激的な見世物にあるということを示しています。確かに、この手のいかがわしい見世物って、ちょっとそそられるものがありますね。
さらに面白いのは、外で雷が鳴り出すと、フランクリン博士も観客たちもそっちに気を取られてしまうこと。もちろん、雷といえばベンジャミン・フランクリンなわけで、「道化芝居はもうお終い」と言って、観客たちを連れて雷雨の中へきゃっきゃと出ていくことになります。こっちのほうが大規模な電気ショーだというわけです。


「30」〜「34」の章。

「じゃあみんなずっと、私の鬘を見てたのか? 帽子も? ディクスン、――確かか?」
「ええええ、それに基づいて、此奴はこういう奴だって決める訳です……?」
「……そうなのか。うーん、例えば、どんな?」
「うぅ、どうだっていいじゃないですか、――もう手遅れですよ……? みんなもう、汝のこと決めちまってますよ。」
「じゃあ何か別のものを被ることにしよう」
「そうしたらみんな云いますよ、――『来た来た、〈石橋を叩いて渡れ〉だ、――こりゃ魂消(たまげ)た、あの御仁が美少年(アドニス)みたいなお洒落なのを被るのか……? いやいや違う、〈世間が何て云うか〉にはちゃんと実験済みの格好なんだな。』」
「何と、――私の鬘は……冒険が足りんと云うのだな。」

洒落者のディクスンがメイスンのファッションについて腐す場面。四角四面なメイスンは、見た目で人格を判断されるということにショックを受けます。まあ、仕方がありませんね。何がダサいかわからないから、ダサいんですよ。そんなメイスンに付けられたあだ名が可笑しい。「石橋を叩いて渡れ」「世間が何て云うか」。いやだなあ。こんな風にだけは呼ばれたくないよ。
さて、フィラデルフィアの通りに観測台が建設され、いざ二人の作業が始まるかと思いきや、何だか不穏なニュースを耳にします。ランカスターに避難していたインディアンたちが、パクストン・ボーイズという自警団に虐殺されたと。これ、早速Wikiで調べてみたらポンティアック戦争に端を発しているようです。恐らく、その根っこには白人たちのインディアンに対する差別意識がある。

白人の蛮行なら、喜望岬で散々見てきた。だが今になっても、あの頃同様、さっぱり訳が判らない。自分たちは何かを理解し損ねているのだ。希望岬でも費府でも、白人こそ、彼等の最悪の悪夢に現れる野蛮人に対し、受けた挑発に凡そ釣合わぬ暴力を揮う悪鬼に成果てている。

メイスンもディクスンも政治性からはほど遠い人物です。にもかかわらず、行く先々でこのような差別の構造にぶち当たる。「受けた挑発に凡そ釣合わぬ暴力」という表現に、権力の不均衡への怒りが感じられます。または、チェリーコークが子供たちに語るこんな言葉。

「残念ながら、若者たちよ、」牧師は回想する、「今日儂等にとって掛値なしに神聖となっておる〈自由〉という言葉は、当時にあっては、人間の最も邪悪な権利も含んで使われたのだ、――王からの勧告だの布告線だのもなしに、傷付けたい人びとを傷付け、皆殺しにさえしてしまう権利を。この間の戦争も、正に、噫、こうした意味での自由を確保すべく戦われたものでもあるのだ。」

自由の国アメリカの「自由」のおぞましさ。白人たちは、インディアンに伝染病を流行らそうとして汚染された毛布を配布する、なんてことをやってたわけです。「人間の最も邪悪な権利も含んで」使われる「自由」とは、例えば、ヘイトスピーチを行なうのも言論の自由だ、というような形で、昨今の日本でも耳にしますね。
このあと、ディクスンが師から賜った永久時計のエピソードが語られます。これ、恐らく自動巻ってことだと思うんですけど、当時の人々にとっては魔術のようなもの。永遠に時を刻み続ける時計に、ディクソンの心はかき乱されます。それにしても、この小説、時計の話がちょいちょい出てきますね。
そして、二人はさらに観測地点を移動。その途中に、ランカスターの街に行ってみることにします。例のインディアンたちが虐殺された街です。

ブリタニアは、大英帝国の女神は、眠っているあいだに夢を見るのか? 亜米利加とはブリタニアの見る夢なのか?――その夢にあっては、大都市の覚醒に於ては許されぬこと全てが、これら植民地の落着かぬ微睡(まどろみ)の中で発露の場を与えられ、更に西、未だ地図に描かれず書留められもせず人類の大半によって見られてもおらぬ地にあって、未だ仮定でしかない希望、いずれ真となるかもしれぬ全てのものの捌(は)け口となっている、――この世の楽園、若さの泉、プレスター・ジョンの国土、基督(キリスト)の王国、常に日没の彼方にあるその地は、今は安泰でも、西の次の未開拓地が目にされ記録され、測定され縄で囲まれ、既知の地点の測量網(ネット・ワーク)に組込まれて、三角測量がじわじわ大陸の内奥へと進んでゆき、仮定分が平叙文に変り、多様性が政府の目的に適う単一性に還元されてしまえば……。一度(ひとたび)そうなってしまえば、聖なる領域はまた少しずつ侵犯され、辺境は一つ又一つと、我等の故郷たる、そして我等の絶望たる、死に染められた剥き出しの世界に取込まれていく。

土地が縄で囲まれ「ネット・ワーク」に組み込まれる、というのが面白いですね。縄から網へ。仮定分から平叙文へ。多様性から単一性へ。測量するという作業は、世界に秩序を与えるということです。それは、時として権力に利用される。希望に満ちた夢は「我等の絶望たる、死に染められた剥き出しの世界」へと変わる。政治とは関わりなく生きていても、「線を引く」という彼らの仕事は政治と密接に関わっているんですよ。
ランカスターの地でメイスンは、虐殺を行なった側がすっかりことは終わったものと信じて「負った負債が少しも目に入らずにいる」ことに憤り、「私が嗅ぎ取ったのは正にそれだったのだ、――忘却の水だよ」と語ります。負債に対して無自覚なアメリカというのは、21世紀になっても変わりませんね。でも、やった方は忘れてもやられた方は忘れない。だから、戦争はひとたび始まると終わらないわけです。
また、ディクスンは「自分で人殺しどもを捜し出してこっちがやられる前にあっちを精一杯沢山殺す、なんて浅ましい真似に走らずに済みますように」と心の中で祈ります。これまた、非常にアメリカ的な戦争の理屈です。外側の脅威を訴えて、だからやられる前にぶっ潰すと。それをやってる限り、外側への恐怖は去りません。イラク戦争から続くテロを考えてみるだけでも、アメリカが負った負債の重さがわかるでしょう。


「35」〜「37」の章。
ここいらで、このメイスンとディクスンの冒険譚が語られているルスパーク家での、脱線お喋りを。歴史と真実について、生意気そうな青年エセルマーが一席ぶちます。

「その通り。真実を主張する者は、真実に見捨てられるのです。歴史は常に、卑しい利害によって利用され、歪曲されます。権力者達の手の届く所に置かれるには、歴史は余りに無垢です、――彼等が歴史に触れた途端、その信憑性は一瞬にして、恰(あたか)も最初からなかったかのように消え去ります。歴史は寧ろ、寓話作者や贋作者(がんさくしゃ)や民謡(バラッド)作者やあらゆる類の変人奇人、変装の名人によって、愛情と敬意を以て遇されるべきであり、そうした者達によって、政府の要求から、そして好奇心から遠ざかっておれるよう敏捷な衣装、化粧、物腰、言葉を与えられるべきなのです。(後略)」

ちょっとナイーブな気もしますが、わからなくもないですね。例えば、独裁的な政権の下では社会について書いた書物が検閲されることがあります。そのとき作家たちはどうするか。童話にさりげなくメッセージを紛れ込ませるというようなことをするわけです。こうした例はいくらでも挙げられます。娯楽映画の奥底に、SF小説の背景に、ロックンロールのビートに、「変装」した真実が隠されている。
このエセルマーの発言に、父親アイヴズは激怒。真実を軽んじていると。そこに「倫理的な危機」を感じ、怒りの標的は「小説(ノベル)」へと向かいます。

「これは幾ら強く云っても、左様、幾ら強く云っても云過ぎることにはならん、絵空事の本を読むほど危険なことはない、――取分け『小説』と称される類の本はいかん。聞く耳のある者は聞いて欲しい。英国の精神病院(ペドラム)は、仏蘭西の硝石工場(サルベトリエール)と同じで、若い患者が驚くほど多く、而(しか)もその大半は女性であり、彼女等を狂気の敷居の向うへと誘惑したのは、正にそうした無責任な、事実と空想とを区別しようとせぬ物語なのだ。彼女等の脆弱な知で、どうして判断できよう? 噫(ああ)、『小説』を読む者は全て、魂を危険に晒していると云わねばならぬ、――彼女等はみな悪魔と取引を交わしたのであり、この上なく貴重な時間を無駄にして、この上なく卑しい、取るに足らぬ類の精神的興奮を見返りに得るばかりなのだ。『空想物語(ロマンス)』もあれはあれで有害だったが、『小説(ノベル)』に較べればまだしも健全であった。」

絵空事の本」は不健全で、精神病へとつながるとの主張。それこそまったくの絵空事だと思いますが、舞台は18世紀なのでこう考える人も多かったんでしょう。もちろんピンチョンは、こうした考えをからかっている。「メイソン・ディクソン線」が引かれたという史実を、小説へと「変装」させたのがこの作品ですからね。
さて、チェリーコーク牧師の回想は彼が乗合馬車フィラデルフィアへ向かう場面へ。このあとフィラデルフィアで、しばらく振りに牧師はメイスンとディクスンに再会します。つまり、チェリーコークは常に二人と行動を共にしていたわけではないということです。にもかかわらず、まるで見てきたかのように二人の様子を語っているわけで、これこそ史実の「変装」でしょう。
それにしても、乗合馬車というのがいいですね。『駅馬車』などの西部劇の世界です。この馬車の中で、ペテン師めいた男が「形も表面も奇妙な瓶」から「湯気の立つほど熱い珈琲」を注ぎ、一同が驚くというシーンが出てきます。これ、魔法瓶ですよね。当時はまだ知られていなかったということでしょう。
そして、フィラデルフィア乗合馬車の面々とメイスンとディクスンたちが会食する場面へ。ここでフランス人の料理長アルマンが語るエピソードが、むちゃくちゃですごく面白い。ヴォーカソンという科学者が、機械仕掛けの鴨を発明したという話なんですが…。

メイスンは思慮深げに眼を細くし、ディクスンは帽子をゴソゴソ動かしてからやがて首を縦に振り、「えぇと、それって、――あの機械仕掛の鴨、作った人ですかね……?」
「噫、その通り。目も眩む程、世界を揺るがす程の天才を有する機械職人でありながら、後世はあの方を、専らあの鴨のみと結び付けて記憶することでありましょう、――彼等は既に、分ち難く繋がっております、さながら……さながらメイスンとディクスンのように? ホッホッホー。ヴォルテールにプロメテウスの再来と呼ばれた男が、他の偉業はすべて忘れられ、ひたすら、分別の境界線をかくも巧妙に越え、自然に見出されるそれと区別し得ぬ排泄物を出すほど精緻な消化機能を自動人形に与えたことのみ歴史に残るとは。」

単なる自動人形じゃないんですよ。糞をするマシン。それだけですでにバカバカしいんですが、この機械鴨が意識を持ってしまう。しかも、素早く飛び回るもんだから人の目には見えなくなってしまう。そして、フランスで高名な料理人として鴨料理を山ほど手がけてきたアルマンをつけ回すようになるんです。さらにさらに、最初は攻撃的だった機械鴨ですが、そのうちアルマンを庇護するようになっていく。

私は途方もない仮説に逃込みました、天使というものが、人間より一段高次の存在であるなら、ひょっとしてこの鴨も、天使の鴨版とも云うべきものに変身し、正に天使の如く純粋に、私の守護鴨となってくれたのではないか……。或いは又、母が傍らに居らぬ仔鴨が、偶々(たまたま)其処に居合せた生き物にくっついていくように、この自動人形も、鴨としての己の運命を意識するに至った際、恐怖に襲われ一目散に逃出したりせず留まってお喋りしてくれた最初の人間に固着した、ということも大いにあり得るのではないか、――そしてその固着を「愛」と呼ぶようになったのでは?……それとも、何かの伊太利歌劇から学んだのだろうか、高音(ソプラノ)の乙女に仕える仲立人が、時には彼女の腕の中に収まる場合もあることを? こうした諸々の推測、更に幾つかの推測が、忽ち私を、危険な恍惚へと導いていきました。とは云え、まさかヴォーカソンが作った「性愛(エロス)器官」がひょっとしたら原因では、などとは夢想だにしませんでした。

「天使の鴨版」! もう失笑するしかありませんが、アルマンにとっては切実です。「消化機能」だけじゃなく「性愛器官」まであったとしても、機械は機械。そんなものにつきまとわれて、アルマンはパリで料理長としての仕事をしていくことが困難になっていきます。そして逃げるようにしてアメリカへやってきた、というわけなんですよ、皆さん。
この小説、歌う「博学英国犬」やお喋りする時計、巨大チーズ転がし祭り、満月に伊達男へ変身する逆狼男などなど、突如ふざけた奇想が爆発するんですが、この機械鴨もそのパターン。今までの流れでいくと、長々と語ってるわりには本筋とは関係ないエピソードだと思われます。でも、本筋なんてこの小説にあるんでしょうか? 直線を引く話なのに、物語はまったく直線的には進みません。


ということで、今日はここまで。4年のブランクを経て上巻をすべて読み終えました。下巻はぐいぐい読みたいところですが、まっすぐ進まない小説なのでどうなることやら。