『魔法の夜』スティーヴン・ミルハウザー【3】


『魔法の夜』は、スティーヴン・ミルハウザー作品の中では割とあっさりしているほうだと思います。幻想味もそれほど濃くないし、「魔法の夜」と言いながらこの作品で「魔法」と呼べる出来事が占める割合は1/5程度。断章形式なので、物語的な盛り上がりもほとんどありません。
でも、それじゃあつまらないのかといえば、そんなことはありません。じっとしていられない「夏の夜」、ってのがいいんですよ。その特別な感じが、この小説をとても魅力的なものにしています。ミルハウザーは、そんな夏の夜の様々な人たちの様子を次々とスケッチしていきます。そのさらさらとしたスケッチの手つきの鮮やかさが、読みどころの一つです。どこにフォーカスを当てるか、何を省略するか、どのようなタッチで描くか、そうした諸々を味わいながら読むわけです。
それだけではありません。カードのように並べられた断章をそれぞれを見比べて読むと、さらに味わい深くなります。例えば、同じモチーフがいくつかの章にまたがって登場する。虫の音、トラックの音、浜辺の救命係の椅子などなど。さらに、それぞれの場面で異なる人物が同じ通りを歩いていたりする。ああ、スモールタウンの話なんだなと思いますね。
そして、これらの断章すべてを淡く照らしているのが、月です。そこでどんな風に月が描かれているか、その光にはどんなバリエーションがあるか、というのもまたこのスケッチの楽しみ方のひとつです。どの章も、月の影響下にある。マネキンが動き出すのが月の光の魔法なら、昼間の世界では出会わないような人々がちょっとだけ出会うというのも月下の魔法です。
昼間、太陽の下で僕らは働いて稼いで消費する。では、月下の世界はどうでしょうか。僕には、生産性から解き放たれた世界のように思えます。松岡正剛の『ルナティックス』というエッセイ集に、太陽は自ら光を発しているけど、月はそれを反射しているだけ、という話があって、それが非常に印象に残っています。自らは何も生み出さず、戯れのような反応のみ返す。ですから、昼間の世界からはみ出した者たちばかりが、この「魔法の夜」に外へと出てくるのです。
夜ふかし大好き深夜徘徊大好きな根っからの夜型である僕には、この気持ちはよくわかります。まだ眠りたくない。もっと起きていたい。みんなが知らない夜の様子を、こっそり見てみたい。それは昼間の世界から見れば、まったくもってどうでもいいことです。でも、僕らはときどき昼間の世界に負けそうになる。だから、月の夜が必要なんです。夏の夜が必要なんです。何も生み出さなくても許される世界。それは、昼間の論理からのささやかな解放であり、ただそぞろ歩くだけで感じることができる魔法です。
冒頭の章で、ローラが部屋を出ていくときにポケットに入れていたものを思い出しましょう。ライフセイバーズ・キャンディ。そう、月の夜に救われる者もいるのです。


ということで、『魔法の夜』はこれでおしまい。次はいつ更新できるかな。

『魔法の夜』スティーヴン・ミルハウザー【2】


中編なんでそれほど時間はかからないだろうと思っていましたが、スティーヴン・ミルハウザー『魔法の夜』、読み終えちゃいました。まあ、たった一夜の話ですからね。一夜で読もうと思えば読めちゃうくらいのボリューム感。すーっと通り過ぎちゃえばそれでおしまいですが、月光の中で目を凝らすと、いろんなものが見えてきます。


「見えてきます」と言いながら、まずは見えないものについて言及している「いかに生きるべきか」の章から。作家志望・39歳のハヴァストローと61歳のミセス・カスコの会話です。

「絶対見えないんですよね」ハヴァストローが言う。「いつもいるのに、絶対見えない」
「よく父親と二人で夜遅く家の裏で、網戸の付いた広いポーチに座ってたわ。二人きり、パパとあたしだけで。パパはスーツ着て白い帽子かぶって。聞いてごらん、ってパパは言った。聞こえるかい? あれはすべての終わりの音だよって」
「いい人だなあ」
「あの音覚えておけよ、ってパパは言った。あの音が、どう生きればいいか教えてくれるからって」
「教えてくれたんですか?」
「全然。でもつい耳を澄ませてしまうの」
「たぶんコオロギだと思いますね。少なくとも何匹かは」

これがこの章の全文です。「いつもいるのに、絶対見えない」って、最初は何の話をしてるかわかりませんが、最後のところで虫の声について話してるんだとわかる。この流れが粋ですね。確かに、夜鳴く虫はよく耳にするけど、実際に鳴いているところはなかなか見られません。そう考えると、ちょっと夏の夜の神秘のように思えてきます。最初に「父親」と語り始めて、途中で「パパ」になるところもいいですね。状況説明から、すーっと回想の中に入り込んでいく感じ。で、「全然」というあっけない一言で、すっと現在に戻ってくる。それにしても、「すべての終わりの音」ってどういうことなんでしょうね。まあ、虫の声はちょっと夏の終わりを感じさせなくもないわけですが。
この小説は、途中で合いの手のように「夜の声たちのコーラス」や「野の虫の歌」という章が挿入されます。ミュージカル的な手法というか、歌がその前の章や後の章を補足し予告するんですよ。「いかに生きるべきか」の章のあとには、「コオロギ・ブルーグラスバンド」という章が挿入されています。この章も全文引用しましょう。といっても2行だけの章なんですが。

楽しくやろう(リヴ・イット・アップ)、楽しくやろう(リヴ・イット・アップ)、楽しくやろう(リヴ・イット・アップ)、楽しくやろう(リヴ・イット・アップ)
楽しくやろう(リヴ・イット・アップ)、楽しくやろう(リヴ・イット・アップ)、楽しくやろう(リヴ・イット・アップ)、楽しくやろう(リヴ・イット・アップ)

英語がわからないので正しいニュアンスはわかりませんが、コオロギのリリリリという鳴き声が「リヴ・イット・アップ」に聞こえるんでしょう。「どう生きればいいのか」を、コオロギたちはちゃんと教えてくれていたのです。夏はあっという間に終わってしまう。人生もすぐに終わってしまう。だからそう、「楽しくやろう」。
2章分続けて全文引用したわけですが、この短い章の中に小さな虫の声と人の一生といくつもの夏の夜が詰まってる。いいなあ。このように会話や歌だけの章もあれば、ひたすら描写に徹する章もあります。特に後半、夜も深まるにつれて、描写はどんどん緻密になってくる。「線路沿いを歩くクーパー」という章を引用してみましょう。

ゆっくりぶらぶら、クープは商店の裏側と線路の土手とにはさまれた裏道を歩いて家に帰る。この裏手の、誰のものでもないみたいな場所がクープは好きだ。黒い影に包まれた商店、明るい月光を浴びた土手。(中略)黒い鉄の跨線信号台(ガントリー)が線路の上にそびえ、空を背景に黒い橋のように見える。垂れ下がった電線が月光を浴びてキラッと光る。ここでは街灯もまだ旧式の、自動車のヘッドライトの色で、どうにも好きになれないクールエイドっぽいオレンジ色の新型に交換されていない。新型の名前も化学っぽい――ボロンじゃなくてラドンじゃなくて、ええともう少しで出てきそうなんだが。(中略)大きな金属のゴミバケツが店の裏手にそれぞれ置いてある。影に包まれたパイプや丸っこいガスメーターが地面付近の壁からつき出ている。時折店と店のあいだにすきまが生じ、メインストリートの向こう側の店の、照明の灯ったウィンドウが垣間見える。バリウム硫黄(サルファー)? 裏道の明るい側、ヒカゲノカズラや傾いたニワウルシの木が土手の石のすきまから生えて、金網の高さまで達している。思い出した――ナトリウム蒸気(ソディアム・ヴェイパー)。危険 高電圧と書いた看板の付いた鉄の跨線信号台のかたわらをクープは通り過ぎる。言葉の横にジグザグ形の稲妻が描いてある。てっぺんの横棒に付いた茶色いガラスの絶縁体を月光がキラキラ照らす。夜行列車、明るい黄色のウィンドウ、あちこちへ行く人、なかば目を閉じてうしろに寄りかかる粋な着こなしの女たち。列車の汽笛が轟き、聞いた者の血が跳ね上がる。

ああ、うっとり。こういう描写を読むと、ミルハウザーだなあと思います。壁のガスメーターや看板に描かれた稲妻まで描写せずにはいられないのが、ミルハウザーなんですよ。化学っぽい街灯の名前が、描写を邪魔するように入ってきますが、これは歩きながら頭に浮かんでは消えしているってことですね。クーパーは酔っぱらってるんですよ。だから思考がぐるぐる回ってる。
そして何よりうっとりポイントは、この「商店の裏側と線路の土手とにはさまれた裏道」。店の裏側の雑然とした狭い通りを歩いているわけです。公共の場だけどそれぞれの店の私的な領域でもあるような道。有楽町から新橋にかけて、ちょうどこんな感じの道が線路沿いにあるんですけど、あそこを夜歩くと書き割りの裏側に来ちゃったようなちょっと不思議な感じがします。そしてそして、店と店の隙間から表通りの向かいの店の灯りが見える。このピンポイントの描写、これがまあうっとりポイントです。裏通りの薄暗さが際立ち、表通りが別の世界のように思えてくる。
このパートはいろんな光が出てくるところもいいですね。隙間から見えるショーウィンドウの灯り、電線やガラスの絶縁体を光らせる月光、旧式の街灯の灯り、夜行列車の窓明かり、看板に描かれた稲妻の光などなど。昼間だとこうはいきません。太陽の光が他の光を駆逐してしまう。でも、夜はいろんな光がそれぞれの場所で輝いているんです。
このあたりから、そこにあるものを端から描写していくミルハウザーの列挙癖が前面に出てきます。まずは「子供たち、森に入る」の章の冒頭部分。

月に照らされたあちこちの裏庭を横切り、赤黒い金属柱二本のあいだに張られた緑のバドミントンネットの下を抜け、黄色いダンプカーが長い尖った影を投げる砂場の前を過ぎて、白い花を咲かせた生垣のすきまの下を通り、水が止まったスプリンクラーに付けた緑っぽい黒のホースが作る線を越えて、車庫の角の向こうに回り込み、忘れられた青い水鉄砲や赤い木の把手が付いた縄跳びロープの前を過ぎて、子供たちは町の北側へ向かってゆく。

ここでクローズアップされているのは色です。庭々に見られる様々なモノをその色とともに描写していく。真夜中、淡い月明かりに浮かび上がるその色の乱舞がたまりません。
続く「ダニーと女神」の章はこんな風に始まります。

コネチカットのこの晴れた夏の夜、月の女神は玉座に坐している。はるか高い座から煙突や屋根を見下ろし、ガラスの絶縁器が点在する電信柱の腕木を、高速道路を転がるように進むトラックを見下ろす。ガスタンクと貯水塔を、ロングアイランド海峡の暗い小さな波を、線路と白い杭垣(くいがき)を、救命係用の椅子とサトウカエデの木を、石灰石採石場と松林とコンクリート工場の降ろし樋(シュート)を、鉄塔間に張られた高圧線を、中央に黄色い線が二本入ったくねくね曲がる田園道路を、静かな郊外の街路に植わったノルウェーカエデから一つひとつ羽をたたえてぶら下がる実を、裏庭の物干ロープと車庫のあいだに横たわって眠るダニーを女神は見下ろしている。

これは俯瞰の視線がポイントかな。これまで他の章で出てきた場所も含め、町のあちこちが空撮で捉えられていきます。ああ、あそこに高速道路のトラックが、あそこには救命係用の椅子が見える。そうやってぐるーっと町を眺め、ある裏庭へとぐーっとカメラが降りていく。そこには、庭で寝そべるダニーの姿が!
続く「居間と月」の章は、全文引用しましょう。

一対の開いたカーテンのあいだから、月光が居間に入ってくる。マホガニーのピアノベンチの上に載った、銀の斑点がついたラズベリー色のローラのバレッタを月光が濡らし、彼女の父親がメイン州の海岸で撮った、逆さに置かれたボートの横に積まれたロブスター罠のガラスの額に入った白黒写真を濡らし、コーヒーテーブルの上に立つ中国人の青い陶製の小像を、ランプテーブルのかたわらの読書椅子の肱掛けに載った牛革の鍵ケースに付けた青銅の鍵を濡らす。カウチに座って、網戸を入れた、カーテンの開いた窓の方を向けば、向かいの車庫のドアの上に掛かったバスケットボールのネットが見えるだろうし、紺色の空を背景に浮かび上がる黒いテレビアンテナのある屋根が見え、そして、青い影のかかったほぼ満月の白い月が見えるだろう。黒いアンテナが、下から三分の一くらいの部分に水平に切れ目を入れ、月を不均等に二分している。

無人の部屋を月が覗き込んでいるかのように、執拗に描写していきます。写真の額をわざわざ「逆さに置かれたボートの横に積まれたロブスター罠のガラスの額」書くのがミルハウザー。この章が面白いのは、月光が部屋をなめていったあと、くるっと視点が反転して窓ごしに月を見つめるところ。僕は、映画で言うところの「切り返し」を連想してしまいました。この章の最後の部分もいいですね。月にかかるアンテナのシルエットが、月に切れ目をいれているように見える。わざわざ「下から三分の一」とか「不均等に二分」と書くのがミルハウザー。こういう具体性に詩は宿るんですよ。
そして、このあと、登場人物たちの人生がちょっとだけ交差したりしなかったりします。このちょっとだけ、っていうのがいい。昼間の出会いのように明確な会い方ではなく、もっと曖昧で淡い出会い。いや、そういえば熱く抱き合っていたカップルもいました。「若い」という章です。

あたしは幸せ、本当に幸せ、幸せなあまり大声で叫びたい。けれどその幸せのただなかにあってすでにジャネットはかすかな邪魔を、昼の思いの引っぱりを感じる。じきに家に入らないと、十一時に美容院、二時にビーチ。小うるさい声を彼女は押しやって深く息をする、あたかも夏の夜を丸ごと、トウヒの針葉の匂いからコオロギたちの叫びから、柔らかな衣ずれのような遠くの高速道路を走るトラックの音まですべて呑み込んでしまおうとするかのように。王子さまのように彼は、塔で眠っていたあたしの許に来てくれた。ううん、眠っていたっていうのともちょっと違うけど、まあとにかく。いまも彼はあたしの両手にキスしている。ジャネットは厳かに思う、これをあたしは思い出すだろう、と。

「昼の思いの引っぱりを感じる」というのが面白いですね。明日のことを考えはじめると、夜も終わりが近い。そう、残念ながら夜はいつか終わるし、夏もいつか終わるし、若い日々もいつかは終わります。ああ、邪魔しないで。今、このときを終わらせたくないの。でも、時の流れは止められない。そこで、ジャネットは思うわけです。「これをあたしは思い出すだろう」。そして、年をとってからこの出来事を思い出すことを、ほとんど幻視のように想像する。そうやって、彼女はもうすぐ明けてしまいそうなこの夏の夜を自分の中に大切にしまうわけです。
夜明けはそこまできています。誰かと出会った人たちも、また一人に家に帰っていく。彼らは孤独だったり悶々としていたり、どこか満ち足りないものを抱えていました。でも、夏の夜の散歩がそれを少しだけ満たしてくれた。そんなこの月の夜に、それぞれがささやかな感謝を捧げながら、朝が来る前に布団に入るのです。


ということで、スティーヴン・ミルハウザー『魔法の夜』読了です。ミルハウザー作品の中ではライトな部類に入ると思いますが、すごく心地いい読書でした。夜出かけるの楽しいしね。夏の夜ならなおさらだしね。では、今夜もいってらっしゃい。リヴ・イット・アップ。そして、おやすみなさい。

『魔法の夜』スティーヴン・ミルハウザー【1】


魔法の夜


もうピンチョンは読まないの? いやそういうわけじゃと言葉を濁してるうちに1年以上過ぎちゃった。今さら言うなって感じだけど、ピンチョンは二度目の中断。そして、それとは別にふと思い出したように更新します。
今回読むのは、これ。
『魔法の夜』スティーヴン・ミルハウザー
です。
ミルハウザーはこれまで何度も読んでるし、中編ってことでわりと読みやすいんじゃないかと踏んでます。では、いってみましょう。


まずは冒頭。「落着かない」という章題がついたパートから。

コネチカットの暑い夏の夜、潮は引きつつあり月はいまだ昇っている最中。十四歳のローラ・エングストロムはベッドの上で身を起こし、上掛けをはねのける。額は湿って、髪も濡れている気がする。半開きの二つの窓の網戸を通して、コオロギのギシギシいう声と、遠くの高速道路を車が疾走するおぼろな音が聞こえる。十二時五分過ぎ。

じっとり汗ばむ、寝苦しい夏の夜です。ベッドの中で、外の音を聞いている少女。聞こえてくるのは虫の声と車の音。14歳だと、12時過ぎはもう寝ていてもいい時刻だよね。にも関わらず、彼女は眠れずに窓の外のことを考えている。

刈られた芝の香りが、四ブロック先の浜辺の引き潮の匂いと混じりあう。彼女は自分があそこに、夜の浜辺に、いるところを想像してみる。低い波が砕け、砂がザクザク鳴り、救命係の椅子が月光の下で高く、白く、くっきり浮かび上がる。でもそう考えると不安になってくる。無防備に身をさらしている気がする。月光に照らされた、開けた空間に立つ、こっそり見られている女の子。

音の次は匂いです。芝生と潮の香り。音に耳を澄まし、匂いに鼻をひくつかせながら、ローラの意識は外へと向かいます。これがミルハウザーの素晴らしいところです。彼女は部屋にいながらにして、音や匂いの力で「ここじゃないどこか」を幻視する。ミルハウザーの夢想はいつだって具体的です。具体的すぎて、一人で浜辺に立っているのが不安になるくらい。いや、浜辺じゃなくて部屋にいるわけですが。

ナイトガウンを頭から脱いで、白いTシャツを着て――ブラはなし――デニムのジャケットを羽織る。ひとつのポケットが膨らんでいる――半分残ったライフセイバーズ・キャンディ。ここから抜け出さなくちゃ、息をしなくちゃ。息をしないと死んでしまう。こんな部屋にいたら死にそう。遠くへは行かない。

とりあえず、この部屋にはいられない。どこかへ。そう遠くなくていい。例えば、4ブロック先の浜辺とか。着替えのシーンでふっとポケットの膨らみがクローズアップされるところがいい。ライフセイバーズ・キャンディが浜辺の救命係と響き合い、彼女のお出かけがある種の「冒険」であることを予感させます。というところで、この章はおしまい。
読んでいけばすぐ気づくことですが、この小説はミルハウザーお得意の断章スタイルで書かれています。夏のある夜、眠れずにいる何人かの人々の様子をかすかな幻想性を漂わせながら描いていく。断章は時系列に沿って並んでいて、12時5分過ぎから始まり徐々に夜は更けていきます。
ざっと、登場人物を紹介。なんだか落ち着かない14歳のローラ・エングストロム。作家志望の39歳独身男ハヴァストローと、彼の話し相手となる61歳の老婆ミセス・カスコ。男の子と逢い引きをする20歳のジャネット・マニング。友人たちと図書館に忍び込む16歳のダニー。しこたま飲んでべろべろになっている28歳の男ウィリアム・クーパー。その他にも、一人暮らしの女や艶やかな黒髪の男、森の声に誘われて目覚める子供たち、屋根裏の人形たちやショーウィンドウのマネキンなどの様子が、ミルハウザー特有の緻密なタッチで描写されていきます。僕が好きなのは、泥棒少女の集団。

かねてから町を荒らしている無法者の一団を彼は思い浮かべる。女子高生五、六人の一団が夜に人家に押し入り、キッチンから食べ物を奪い、冷蔵庫マグネット、歯ブラシ、眼鏡ケースといった些細な小物を盗んでいく。彼女たちはかならず、鉛筆で几帳面な大文字で私たちはあなた方の娘ですと書いた紙を残していく。女の子たちは狡猾であり、準備もぬかりない。鍵のかかっていない裏口や地下室の窓から侵入し、音もなく家に入っていって、ひっそりと出ていく前にかならずしばし居間に座っていく。

「無法者たち」という章からの引用。ミルハウザーの短篇「夜の姉妹団」を思わせます。冷蔵庫のマグネットを盗む、というのもいいし、必ず居間でくつろいでいくというのもいい。盗みが目的ではないんでしょう。それよりも、「エレガントな犯罪」というものにうっとりするような魅力を感じているのかもしれません。「私たちはあなた方の娘です」というのもいいですね。誰でもないけど誰でもありえるアノニマスな存在。月に浮かぶシルエットだけの存在。何とも捉えどころがありません。
ということで、物語もクライムストーリー的な起伏を見せることなく、真夏の夜のスケッチを重ねていきます。ストーリーを追ってもあまり意味がないタイプの小説というか。なので、ここから先は僕が気に入った場面をいくつか紹介していきます。
まずは、「一人で暮らす女」という章。

私たちのように一人で暮らす人間は、人から何も言われないから、いろいろ妙な習慣が身についてしまう。靴下を片足だけ履いたり。暖かい夜の空気の中、一人で喋ったり。こんな夜、庭を歩き回って、芝のみずみずしさを嗅ぐのは何て気持ちがいいんだろう。べつに法律違反じゃないでしょ。

こういう、自分一人のルールや習慣というものに惹かれます。長い年月をかけてコツコツと積み上げられてきた営みの証、という感じがするんですよ。靴下という細部に、その人の人生が折り畳まれている。「べつに法律違反じゃないでしょ」というのもいいですね。誰にも邪魔されないだけでなく、誰のことも邪魔せずに生きている。その矜持が伝わってきます。
次は、「静けさ」という章。窓辺で誰かを待っているジャネットは、庭を見ながら考えています。

庭の右側は、脚立にのぼらないと刈れない高い生垣に縁どられている。生垣の底の方は茎も枝みたいに太く、這って通り抜けられるすきまがある。左側は車庫で、長い側面は影になっていて前面は月光を浴びて白く輝いている。庭の奥は、主としてトウヒでヨーロッパアカマツも何本か交じった常緑樹の木立で区切られ、そのうしろに金網の柵があってこの庭と隣の庭を隔てている。その向こうは、またもうひとつ庭。庭また庭、小さな長方形がいくつも町外れまで延びて、ずうっとアメリカの果てまで延びている。ひょっとしたら、生垣をくぐり抜けて、柵を乗り越え、砂箱と野球バットの前を過ぎていけば、ある日最後の生垣を押し分けて、突然――バイオリン、お願いします!――太平洋が。

最初に出てきたローラが芝生と潮のにおいから浜辺を思い浮かべたように、ジャネットは庭をつたって海まで妄想を運んでいきます。「小さな長方形」ってのがいいですね。プールづたいに町を移動する『泳ぐ人』って映画がありますが、庭を通っていけば遥か遠くどこまでも行けそうです。そして、バイオリンが高らかに鳴り、突如目の前に開ける海。
「ダニー一人」という章。悪さをする仲間から離れて、一人夜道をゆくダニー。童貞の彼は、悶々としたものを抱えているようです。

ダニーは歩きつづけ、駅の駐車場を過ぎ、暗い高校を過ぎて、高架の高速道路の下を抜ける。この時間走っているのはほとんどトラックだ。いっそ大学なんか行くのをやめて街道をさすらう身になろうか。トラックの運転手になって、窓から肱をつき出し夜に国を横断する、何も言わずに一人で。二十四時間営業の食堂の突然の明るさ、石みたいに重い分厚い白いカップに入った湯気の立つコーヒー。ダイアナ・サンタンジェロが彼のジョークにあははと笑い、笑いながら時おり彼の腕に触れる。笑うと肩が揺れ、すべすべのブラウスが揺れ、髪が揺れ、彼女は本の束をぎゅっと胸に、乳房の中に押し込もうとするみたいに痛々しげに抱きよせる。乳房があるってどんな感じだろう、とダニーは想像してみる。

最初にローラが聞いたのが、虫の声と車の音ですが、高速道路を走る車の音はそのあとも何度も出てきます。ダニーもまた走り過ぎるトラックを見てる。そこから運転手となって過ごす人生を思い浮かべ、街道沿いの食堂でのウェイトレスとの会話を夢想し、そこから揺れる乳房へと連想は及び、「乳房があるってどんな感じだろう」と至る。そういうつもりはないのに、結局、おっぱいのことを考えちゃうんですよ。にしても自分に乳房があったら、というあたりが童貞らしい飛び方ですが。この夢想がとりとめなくするすると走っていく感じ、これぞミルハウザーという気がします。
「マネキンの悪戯」の章。月夜に、ショーウィンドウのマネキンが動き出すというパートです。最初はかすかなまばたきだったのですが、小説も中盤までくるとけっこう大胆に動き出します。

うしろをふり向くと、月の光が帯になった店内が見える。一瞬のうちにマネキンはウィンドウからフロアに降り立つ。ワンピース並んだ通路を進んでいき、両腕をつき出し、ワンピースが彼女の指先に触れて動くのを感じる。ラックに並んだハンガーがじゃらじゃら鳴る。世界は触るべき物に満ちている。宝石類カウンターに沿って彼女は歩いていき、ガラスに指を這わせて、豊かな匂いのする革のハンドバッグやサラサラ音の立つ滑らかなスリップのあいだを通っていく。

マネキンが動けたら、何をするでしょうか。ミルハウザーの答えは「触りまくる」です。言われてみればなるほどという感じですが、触覚を味わうんですよ。ワンピースに手を伸ばす。ハンガーが鳴る。こうした因果関係も、触ってみなくちゃわからない。マネキンの指自体は堅いままでしょう。ミルハウザーは描写の作家ですからね。芝生の匂い、トラックの音、そしてワンピースやガラスの手触りまで描写せずにはいられないんですよ。世界は描写するべき物に満ちている。
描写といえば、引用した箇所の最初に出てくる「月の光が帯になった店内が見える」ってのもいいですね。月光が射し込んでいるわけです。そう、月。各断章のあちこちに、月の光が射し込んでいる。夏の一夜のいくつもの欠片を照らし、ひたひたとひたす月の光。なんだか、スケッチするミルハウザーの筆自体が月光を帯びているようにすら思えてきます。冷ややかな熱、おぼろげな鮮やかさ、矛盾を静かに呑み込んでいく月下の幻想。


ということで、今日はここ(P99)まで。真夏の月の夜が舞台ということで、この時期に読むべき本でしょうね。でも、夜更けに読んでると、外をぶらぶらしたくなって困るんだよなあ。

『メイスン&ディクスン』トマス・ピンチョン【8】


第一部を読み終えたところで震災がありなんか続きを読む気がしなくなっちゃった、というところで止まっていた『メイスン&ディクスン』ですが、映画『インヒアレント・ヴァイス』公開に合わせてピンチョンの原作『LAヴァイス』を読んだら思いのほか楽しく、今なら『メイスン&ディクスン』の続きも読めそうな気がする、ということでなんと4年越しの再開です。あんまりぎっちりぎっちり書いていくとまた面倒になっちゃいかねないので、できるだけびゅんびゅん飛ばすように読んでいこうかなと思ってますが、さて。
第一部では、天文学士メイスンと測量士ディクスンが阿弗利加(アフリカ)の岬町(ケープタウン)を訪れ金星の日面通過観測をする、その道中が描かれていました。というか、それ以外の枝葉の部分が多過ぎて、日面観測は一挿話くらいの扱いなんですが。そして第二部では、いよいよ二人がアメリカ大陸に「メイソン・ディクソン線」と呼ばれる境界線を引く旅が始まります。
ちなみに、先に言っておきますが、柴田元幸さんの訳文は擬古文になっていて、カタカナ語のほとんどが漢字に置き換えられています。引用するときは()でふりがなを表記していますが、読みやすくするために引用時にあえてふりがなを省略したり付け加えたりしている部分があります。
では、第二部「亜米利加」に突入です。


「26」の章。

岸辺から彼等は聞く、乳搾(ちちしぼ)り女達が云争い牛鈴(カウベル)がじゃらじゃら鳴るのを、犬の声、老いた赤ん坊新しい赤ん坊の声を、――金槌が釘を打つ音、妻が夫を詰(なじ)る声、鍋蓋が鳴り、牛馬の鎖が鳴り、広がる森から銃声が轟いて木から木へ、更に水の彼方まで余韻が響く……。動物が一頭、岬まで出て来て、立ち、間隔の狭い両目で二人をじっと見、その目が束の間仄(ほの)かに光る。二人が通り過ぎる中、動物の顔もゆっくりと回る。亜米利加(アメリカ)。

メイスンとディクスンの乗った船がアメリカ大陸に到着する場面。日没間近、音のほうが先に彼らの耳に届くというのがいいですね。様々なざわめきが列挙され、そのあとで岬に立つ動物の影が見える。そして、彼らはついにこの地にやってきたと実感するわけです。「亜米利加」と。やってきたのは、「費府(フィラデルフィア)」。当時はロンドンに継ぐ第二位の英語圏都市だったとか。都市のざわめきを描写するときのピンチョンは、とても楽しそうですね。あっちでもこっちでも常に何かが起こっている。
ところで、メイスンとディクスンのこの物語は、チェリーコーク牧師という人物がルスパーク家の子供たちに語り聞かせている、という設定になっています。ところが、語りの途中で雑談へと脱線していくこともある。この脱線が、またいちいち面白いんだな。以下は、最近の音楽の流行についてのお喋りです。

「これぞ革命の兆しですとも、巷の流行り歌が聖歌となり、浮れ騒ぎの歌が国歌になるというのは、――プラトンが恐れた通りですよ、――黒人の音楽を聴いたことがおありでしょう、五度の音が半音下がり、保送音(ポルタメント)で歌う、――あれこそ革命の歌声です。この十年、亜米利加は殺戮に明け暮れていました。今こそ世界の真の転覆が起きるのです。」
「どうかしらねえ、」テネブレーが云う、「貴方、目新しい音楽に随分入れ込んでるみたいだけど、――」
「他に何に入れ込めと?」若きエセルマー、自信満々の反問。「正にそれこそ蒸気機関の律動(リズム)ではないかね、工場の喧騒、大洋の揺れ、夜の太鼓連打ではないか、実際、もしそれに名を与えんとするなら、――」
「波の音楽(サーフ・ミュージック)!」ドピューが叫ぶ。

ここで言及されている黒人音楽は、ブルースの起源でしょう。そして、訳注によると「大洋の揺れ=the Rock of the Oceans」と「太鼓連打=the Roll of the Drums」に「ロックンロール」が隠されているとか。面白いなあ。お喋りしているこのときはまだ1786年です。つまり、「革命の音楽」として遥か未来のロックンロールを予言しているともいえる。しかも、そこから波が砕けるように「波の音楽(サーフ・ミュージック)」が誕生する。わぁお!


「27」〜「29」の章。
メイスンとディクスンはフィラデルフィアで、ベンジャミン・フランクリンに出会います。凧をあげて雷が電気だということを発見した、あのフランクリンです。しかし、この人物、なんともうさん臭い。メイスンとディクスンにそれぞれをスパイするように持ちかけたかと思えば、「硝子口琴(グラス・アルモニカ)」の演奏会を開いたりする。グラス・アルモニカは、おそらくグラスハープのことでしょう。
さらに、メイスンとディクスン、ジョージ・ワシントンにも会いに行きます。このときはまだ大統領ではなく大佐ですが。フランクリンは気象に詳しく、ワシントンは測量に詳しいというのは、天文学者メイスンと測量士ディクスンに対応しているのかもしれません。
ワシントンは二人に、入り組んだ土地の利権や「米畜(インディアン)」の脅威などについて語ります。妙に陽気でフレンドリーなところが、なかなかに政治家臭い。ワシントン邸で「煙管(パイプ)を何本かと、乾燥したての麻」が振る舞われる場面がありますが、これは大麻でしょう。サーフミュージックの次はマリファナって、ピンチョンの根底に流れるヒッピーイズムがチラっと見える。
ワシントン邸での会話は、土地所有を示す鉛の板を地中に埋めるという話題から思わぬ方向へ脱線していきます。金属の板、もしくは「円盤(ディスク)」には「電気的な目的」があるのかもしれないと。

「ひょっとして、わし等の貧弱な知覚器官じゃ判らんだけかも、」ディクスンがやり返す。「天体だってそうだった訳じゃないですか、つい此間(こないだ)、望遠鏡が発明される迄は……? そういう板だって、幾つも集まれば、大地が一種の蓄電層(ライデン・パイル)を形成しても不思議はないのでは? 単純に電力を貯めるのではないにしても、小さな電流を蓄えて、それが見えない符号へと容易(たやす)く変換され、学者なら当然知っている手段を用いて解読される……。」
「諸々の円盤に情報が込められているとしたら、挑戦、挑発ではないかな。」ワシントンが断じる。

また出ました。ふいに登場する「先取りした未来」。ディスクに書き込まれた電気的な情報。それはここでは空想話ですが、僕らは日常的に使ってるでしょ。どうでもいいような無駄話の中に、ピンチョンはこの手のいたずらを仕込むんですよ。それは、ある意味、無駄話の叡智といえます。
電気といえば、ベンジャミン・フランクリンですが、メイスンがフランクリン博士のショーを目にする場面も面白いです。

盛大な拍手に迎えられて、角燈(ランタン)の光の中に、頭巾を被(かぶ)って大鎌を持つ、骸骨に扮した人物が現れる、――が、口を開いた途端、邪悪な印象は相当薄れてしまう。「ん……? 結構結構……。さぁてお客樣方、何人かお手伝い戴けますかな……今日は見るからに、費府の青年の華が集まっておられますな……。御覧下さい、非凡なものを求めて止まぬ皆様、此方(こちら)が我が新しい電池、――ニ十四の瓶がぱちぱち鳴って準備完了です。」こう云ってフランクリン博士は頭巾をさっと後ろに投上げ、今夜は奇妙な藍緑(アクアマリン)色を帯びた透鏡を露(あらわ)にし、己の目を人目に晒(さら)しつつも、どこか寒々とした満足をその表情で伝え、他人からの長い凝視を無言の裡(うち)に禁じている。(中略)かくして一打(ダース)か其処らの、呑気な欧羅巴人を一列に並べ、その最後尾の人物の両手に、電池の一方の端子に繋いだ銅線を握らせ、最前の人物の片手を自ら握って、フランクリンは大鎌の刃でもう一方の端子に触れる、――と同時に飲み屋の亭主(あるじ)が蠟燭の芯に水をかける、――出現した活人画は、身の毛も弥立(よだつ)つ青白い閃光に照らされ、その周りで雷の如く轟く液体がブツブツパチパチ泡を飛ばし、参加した者達はクスクス笑い、更には悲鳴すら上げて、其処ら中で嗅煙草(かぎたばこ)が飛散り、時折、地獄の如き煙の柱の只中、緑の炎の大波が立ち昇りもする。
電池は放電し、明りが再び灯され、――一同じきに、雷雨の到来に気付くだけの落着きを取戻すと共に、窓ががたがた鳴出し、木々は軋(きし)み、亭主はあたふた窓幕(カーテン)を閉めて回る。電気愛好者達の強力な対抗馬が現れた格好であるが、実のところ彼等の願いにしても、愛好する流体を、なるたけ生々しい形で見たいということに他ならない。

大鎌を持った骸骨って、学者というよりオカルトで味付けした興行師ですね。なんとも、山っけたっぷり。かくして、科学と大衆文化が融合し見世物となる。「非凡なものを求めて止まぬ皆様」という呼びかけは、大衆の欲望が刺激的な見世物にあるということを示しています。確かに、この手のいかがわしい見世物って、ちょっとそそられるものがありますね。
さらに面白いのは、外で雷が鳴り出すと、フランクリン博士も観客たちもそっちに気を取られてしまうこと。もちろん、雷といえばベンジャミン・フランクリンなわけで、「道化芝居はもうお終い」と言って、観客たちを連れて雷雨の中へきゃっきゃと出ていくことになります。こっちのほうが大規模な電気ショーだというわけです。


「30」〜「34」の章。

「じゃあみんなずっと、私の鬘を見てたのか? 帽子も? ディクスン、――確かか?」
「ええええ、それに基づいて、此奴はこういう奴だって決める訳です……?」
「……そうなのか。うーん、例えば、どんな?」
「うぅ、どうだっていいじゃないですか、――もう手遅れですよ……? みんなもう、汝のこと決めちまってますよ。」
「じゃあ何か別のものを被ることにしよう」
「そうしたらみんな云いますよ、――『来た来た、〈石橋を叩いて渡れ〉だ、――こりゃ魂消(たまげ)た、あの御仁が美少年(アドニス)みたいなお洒落なのを被るのか……? いやいや違う、〈世間が何て云うか〉にはちゃんと実験済みの格好なんだな。』」
「何と、――私の鬘は……冒険が足りんと云うのだな。」

洒落者のディクスンがメイスンのファッションについて腐す場面。四角四面なメイスンは、見た目で人格を判断されるということにショックを受けます。まあ、仕方がありませんね。何がダサいかわからないから、ダサいんですよ。そんなメイスンに付けられたあだ名が可笑しい。「石橋を叩いて渡れ」「世間が何て云うか」。いやだなあ。こんな風にだけは呼ばれたくないよ。
さて、フィラデルフィアの通りに観測台が建設され、いざ二人の作業が始まるかと思いきや、何だか不穏なニュースを耳にします。ランカスターに避難していたインディアンたちが、パクストン・ボーイズという自警団に虐殺されたと。これ、早速Wikiで調べてみたらポンティアック戦争に端を発しているようです。恐らく、その根っこには白人たちのインディアンに対する差別意識がある。

白人の蛮行なら、喜望岬で散々見てきた。だが今になっても、あの頃同様、さっぱり訳が判らない。自分たちは何かを理解し損ねているのだ。希望岬でも費府でも、白人こそ、彼等の最悪の悪夢に現れる野蛮人に対し、受けた挑発に凡そ釣合わぬ暴力を揮う悪鬼に成果てている。

メイスンもディクスンも政治性からはほど遠い人物です。にもかかわらず、行く先々でこのような差別の構造にぶち当たる。「受けた挑発に凡そ釣合わぬ暴力」という表現に、権力の不均衡への怒りが感じられます。または、チェリーコークが子供たちに語るこんな言葉。

「残念ながら、若者たちよ、」牧師は回想する、「今日儂等にとって掛値なしに神聖となっておる〈自由〉という言葉は、当時にあっては、人間の最も邪悪な権利も含んで使われたのだ、――王からの勧告だの布告線だのもなしに、傷付けたい人びとを傷付け、皆殺しにさえしてしまう権利を。この間の戦争も、正に、噫、こうした意味での自由を確保すべく戦われたものでもあるのだ。」

自由の国アメリカの「自由」のおぞましさ。白人たちは、インディアンに伝染病を流行らそうとして汚染された毛布を配布する、なんてことをやってたわけです。「人間の最も邪悪な権利も含んで」使われる「自由」とは、例えば、ヘイトスピーチを行なうのも言論の自由だ、というような形で、昨今の日本でも耳にしますね。
このあと、ディクスンが師から賜った永久時計のエピソードが語られます。これ、恐らく自動巻ってことだと思うんですけど、当時の人々にとっては魔術のようなもの。永遠に時を刻み続ける時計に、ディクソンの心はかき乱されます。それにしても、この小説、時計の話がちょいちょい出てきますね。
そして、二人はさらに観測地点を移動。その途中に、ランカスターの街に行ってみることにします。例のインディアンたちが虐殺された街です。

ブリタニアは、大英帝国の女神は、眠っているあいだに夢を見るのか? 亜米利加とはブリタニアの見る夢なのか?――その夢にあっては、大都市の覚醒に於ては許されぬこと全てが、これら植民地の落着かぬ微睡(まどろみ)の中で発露の場を与えられ、更に西、未だ地図に描かれず書留められもせず人類の大半によって見られてもおらぬ地にあって、未だ仮定でしかない希望、いずれ真となるかもしれぬ全てのものの捌(は)け口となっている、――この世の楽園、若さの泉、プレスター・ジョンの国土、基督(キリスト)の王国、常に日没の彼方にあるその地は、今は安泰でも、西の次の未開拓地が目にされ記録され、測定され縄で囲まれ、既知の地点の測量網(ネット・ワーク)に組込まれて、三角測量がじわじわ大陸の内奥へと進んでゆき、仮定分が平叙文に変り、多様性が政府の目的に適う単一性に還元されてしまえば……。一度(ひとたび)そうなってしまえば、聖なる領域はまた少しずつ侵犯され、辺境は一つ又一つと、我等の故郷たる、そして我等の絶望たる、死に染められた剥き出しの世界に取込まれていく。

土地が縄で囲まれ「ネット・ワーク」に組み込まれる、というのが面白いですね。縄から網へ。仮定分から平叙文へ。多様性から単一性へ。測量するという作業は、世界に秩序を与えるということです。それは、時として権力に利用される。希望に満ちた夢は「我等の絶望たる、死に染められた剥き出しの世界」へと変わる。政治とは関わりなく生きていても、「線を引く」という彼らの仕事は政治と密接に関わっているんですよ。
ランカスターの地でメイスンは、虐殺を行なった側がすっかりことは終わったものと信じて「負った負債が少しも目に入らずにいる」ことに憤り、「私が嗅ぎ取ったのは正にそれだったのだ、――忘却の水だよ」と語ります。負債に対して無自覚なアメリカというのは、21世紀になっても変わりませんね。でも、やった方は忘れてもやられた方は忘れない。だから、戦争はひとたび始まると終わらないわけです。
また、ディクスンは「自分で人殺しどもを捜し出してこっちがやられる前にあっちを精一杯沢山殺す、なんて浅ましい真似に走らずに済みますように」と心の中で祈ります。これまた、非常にアメリカ的な戦争の理屈です。外側の脅威を訴えて、だからやられる前にぶっ潰すと。それをやってる限り、外側への恐怖は去りません。イラク戦争から続くテロを考えてみるだけでも、アメリカが負った負債の重さがわかるでしょう。


「35」〜「37」の章。
ここいらで、このメイスンとディクスンの冒険譚が語られているルスパーク家での、脱線お喋りを。歴史と真実について、生意気そうな青年エセルマーが一席ぶちます。

「その通り。真実を主張する者は、真実に見捨てられるのです。歴史は常に、卑しい利害によって利用され、歪曲されます。権力者達の手の届く所に置かれるには、歴史は余りに無垢です、――彼等が歴史に触れた途端、その信憑性は一瞬にして、恰(あたか)も最初からなかったかのように消え去ります。歴史は寧ろ、寓話作者や贋作者(がんさくしゃ)や民謡(バラッド)作者やあらゆる類の変人奇人、変装の名人によって、愛情と敬意を以て遇されるべきであり、そうした者達によって、政府の要求から、そして好奇心から遠ざかっておれるよう敏捷な衣装、化粧、物腰、言葉を与えられるべきなのです。(後略)」

ちょっとナイーブな気もしますが、わからなくもないですね。例えば、独裁的な政権の下では社会について書いた書物が検閲されることがあります。そのとき作家たちはどうするか。童話にさりげなくメッセージを紛れ込ませるというようなことをするわけです。こうした例はいくらでも挙げられます。娯楽映画の奥底に、SF小説の背景に、ロックンロールのビートに、「変装」した真実が隠されている。
このエセルマーの発言に、父親アイヴズは激怒。真実を軽んじていると。そこに「倫理的な危機」を感じ、怒りの標的は「小説(ノベル)」へと向かいます。

「これは幾ら強く云っても、左様、幾ら強く云っても云過ぎることにはならん、絵空事の本を読むほど危険なことはない、――取分け『小説』と称される類の本はいかん。聞く耳のある者は聞いて欲しい。英国の精神病院(ペドラム)は、仏蘭西の硝石工場(サルベトリエール)と同じで、若い患者が驚くほど多く、而(しか)もその大半は女性であり、彼女等を狂気の敷居の向うへと誘惑したのは、正にそうした無責任な、事実と空想とを区別しようとせぬ物語なのだ。彼女等の脆弱な知で、どうして判断できよう? 噫(ああ)、『小説』を読む者は全て、魂を危険に晒していると云わねばならぬ、――彼女等はみな悪魔と取引を交わしたのであり、この上なく貴重な時間を無駄にして、この上なく卑しい、取るに足らぬ類の精神的興奮を見返りに得るばかりなのだ。『空想物語(ロマンス)』もあれはあれで有害だったが、『小説(ノベル)』に較べればまだしも健全であった。」

絵空事の本」は不健全で、精神病へとつながるとの主張。それこそまったくの絵空事だと思いますが、舞台は18世紀なのでこう考える人も多かったんでしょう。もちろんピンチョンは、こうした考えをからかっている。「メイソン・ディクソン線」が引かれたという史実を、小説へと「変装」させたのがこの作品ですからね。
さて、チェリーコーク牧師の回想は彼が乗合馬車フィラデルフィアへ向かう場面へ。このあとフィラデルフィアで、しばらく振りに牧師はメイスンとディクスンに再会します。つまり、チェリーコークは常に二人と行動を共にしていたわけではないということです。にもかかわらず、まるで見てきたかのように二人の様子を語っているわけで、これこそ史実の「変装」でしょう。
それにしても、乗合馬車というのがいいですね。『駅馬車』などの西部劇の世界です。この馬車の中で、ペテン師めいた男が「形も表面も奇妙な瓶」から「湯気の立つほど熱い珈琲」を注ぎ、一同が驚くというシーンが出てきます。これ、魔法瓶ですよね。当時はまだ知られていなかったということでしょう。
そして、フィラデルフィア乗合馬車の面々とメイスンとディクスンたちが会食する場面へ。ここでフランス人の料理長アルマンが語るエピソードが、むちゃくちゃですごく面白い。ヴォーカソンという科学者が、機械仕掛けの鴨を発明したという話なんですが…。

メイスンは思慮深げに眼を細くし、ディクスンは帽子をゴソゴソ動かしてからやがて首を縦に振り、「えぇと、それって、――あの機械仕掛の鴨、作った人ですかね……?」
「噫、その通り。目も眩む程、世界を揺るがす程の天才を有する機械職人でありながら、後世はあの方を、専らあの鴨のみと結び付けて記憶することでありましょう、――彼等は既に、分ち難く繋がっております、さながら……さながらメイスンとディクスンのように? ホッホッホー。ヴォルテールにプロメテウスの再来と呼ばれた男が、他の偉業はすべて忘れられ、ひたすら、分別の境界線をかくも巧妙に越え、自然に見出されるそれと区別し得ぬ排泄物を出すほど精緻な消化機能を自動人形に与えたことのみ歴史に残るとは。」

単なる自動人形じゃないんですよ。糞をするマシン。それだけですでにバカバカしいんですが、この機械鴨が意識を持ってしまう。しかも、素早く飛び回るもんだから人の目には見えなくなってしまう。そして、フランスで高名な料理人として鴨料理を山ほど手がけてきたアルマンをつけ回すようになるんです。さらにさらに、最初は攻撃的だった機械鴨ですが、そのうちアルマンを庇護するようになっていく。

私は途方もない仮説に逃込みました、天使というものが、人間より一段高次の存在であるなら、ひょっとしてこの鴨も、天使の鴨版とも云うべきものに変身し、正に天使の如く純粋に、私の守護鴨となってくれたのではないか……。或いは又、母が傍らに居らぬ仔鴨が、偶々(たまたま)其処に居合せた生き物にくっついていくように、この自動人形も、鴨としての己の運命を意識するに至った際、恐怖に襲われ一目散に逃出したりせず留まってお喋りしてくれた最初の人間に固着した、ということも大いにあり得るのではないか、――そしてその固着を「愛」と呼ぶようになったのでは?……それとも、何かの伊太利歌劇から学んだのだろうか、高音(ソプラノ)の乙女に仕える仲立人が、時には彼女の腕の中に収まる場合もあることを? こうした諸々の推測、更に幾つかの推測が、忽ち私を、危険な恍惚へと導いていきました。とは云え、まさかヴォーカソンが作った「性愛(エロス)器官」がひょっとしたら原因では、などとは夢想だにしませんでした。

「天使の鴨版」! もう失笑するしかありませんが、アルマンにとっては切実です。「消化機能」だけじゃなく「性愛器官」まであったとしても、機械は機械。そんなものにつきまとわれて、アルマンはパリで料理長としての仕事をしていくことが困難になっていきます。そして逃げるようにしてアメリカへやってきた、というわけなんですよ、皆さん。
この小説、歌う「博学英国犬」やお喋りする時計、巨大チーズ転がし祭り、満月に伊達男へ変身する逆狼男などなど、突如ふざけた奇想が爆発するんですが、この機械鴨もそのパターン。今までの流れでいくと、長々と語ってるわりには本筋とは関係ないエピソードだと思われます。でも、本筋なんてこの小説にあるんでしょうか? 直線を引く話なのに、物語はまったく直線的には進みません。


ということで、今日はここまで。4年のブランクを経て上巻をすべて読み終えました。下巻はぐいぐい読みたいところですが、まっすぐ進まない小説なのでどうなることやら。

『愛と障害』アレクサンダル・ヘモン【5】


時間をかけて少しずつ読んでいったんですが、とても味わい深い短編集でした。連作って言ってもいいのかな。どうやら同一人物に見える語り手の人生が、ほぼ時系列に沿って一人称で語られていきます。構成が見事で、順番に読んでいくとどの作品も少しずつタッチが違う。「ああ、こういう作品集ね」と思ってると、それがさらりと裏切られる。例えば、青春小説集だと思って読んでいたら、予想に反してどんどん大人になってくとかね。一人称かと思っていたらいきなり三人称で始まったり、アメリカにいると思っていたらいつの間にかサラエヴォにいたり。ある作品だけ「わたし」という一人称になってたり、また別のある作品だけは細かな章題がついていたり。
「どうやら同一人物に見える」なんて回りくどい言い方をしているのは、このタッチの違いからもわかるように一人称の語りが微妙な揺らぎを含んでいるからです。例えば、語り手が書いたとされる「愛と障害」という作品が何度か登場します。「すべて」と「指揮者」では、「僕」が書いた詩として。「苦しみの高貴な真実」では、「僕」が雑誌に掲載した短編小説として。これは、語り手がずっと同じモチーフを抱いているということかもしれないし、パラレルワールドのように微妙に異なる世界の話かもしれない。
この作品集の語り手は、ヘモンと似たような境遇の人物です。サラエヴォで生まれ育ち、アメリカ滞在中にボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が勃発して故郷へ帰れなくなる。そのためアメリカで暮らし始め、作家としてデビューする。しかし、語られたことと実際に起こったことはイコールではありません。語りの中では、真実は常に揺らいでいる。真実を描くということをヘモンが素直に信じることができないのは、紛争時に自分は故郷に居合わせなかったという思いと結びついているのでしょうす。自分は見てもいないことを語ることができるのだろうか? ヘモンはそうした問いを突きつけます。だからこの語り手は、体験したこととしていないこと、さらにそれを語るということについて、常に立ち戻る。
終盤になるにつれて、このテーマが色濃くなってくるんですが、振り返ってみると最初から「語ること」について意識的な描き方がなされていることがわかるでしょう。荒唐無稽な武勇伝を語る人物が出てきたり、一人称なのに体験していないことをあたかも見てきたかのように語っていたり。その他にも様々な仕掛けが、さりげなくあちこちに施されています。日記や詩、小説の引用を挿入したり、インタビューや父親の手記といった枠を設けたり。これらが、これ見よがしな仕掛けのための仕掛けになっていないところが、ヘモンの巧みさです。すべてが「語ること」というテーマににつながっているんですよ。


僕がヘモン作品に惹かれるのは、その描写の力です。「ずっとこの場面を読んでいたい」と思わせるような吸引力がある。最初の三編「天国への階段」「すべて」「指揮者」に登場する夜をうろつくシーンはどれも魅力的だし、子供時代を振り返る「蜂 第一部」「アメリカン・コマンドー」のいきいきとした描写もいい。「シムーラの部屋」のごちゃごちゃとした室内描写や、「苦しみの高貴な真実」の辛辣なパーティの描写も面白い。
あとは、ユーモアかな。紛争や移民といった題材からシリアスな作品だと思われるかもしれませんが、シニカルな比喩が散りばめられていてニヤリとするような場面がたくさん出てきます。何より語り手のイタいキャラクターが可笑しいです。むっつりスケベで小心者で思い込みが激しくて見栄っ張りでタチの悪い酔い方をする。要するに、僕らの隣人ですよ。その主人公のこじらせた語り口から、じんわりと染み出してくる情感が素晴らしい。
もう一つ挙げれば、どの作品も始まりと終わりがすごくいいですね。導入部のさりげないツカミと、結末の鮮やかさ。どちらも、予想を軽く裏切るような書き方がされている。特に終わり方は、物語がきれいに閉じる前に、チョンと切ったような感じで、何ともいえない余韻が残ります。はっきりとした結論を出す前に終わる。そこから、うっすらと浮かび上がる人生の豊かな味わいを、何度も脳内で反芻したくなります。
いつものように、僕のベストを挙げておきましょう。
1「指揮者」
2「苦しみの高貴な真実」
3「アメリカン・コマンドー
4「すべて」
1と2は同傾向の作品ですが、どちらもすごくよかった。4は「シムーラの部屋」「蜂 第一部」と入れ替え可能かも。


ということで、『愛と障害』はこれでおしまい。亡くなられた岩本正恵さんの素晴らしい訳にも感謝を込めて。

『愛と障害』アレクサンダル・ヘモン【4】


さあさあ、終盤の2編です。少年時代を描いた「アメリカン・コマンドー」と、作家になってからの出来事を描いた「苦しみの高貴な真実」、どちらもよかった。
では、いきましょう。


アメリカン・コマンドー
まずもって冒頭が素晴らしい。引用します。

小学生の頃、僕が一番好きだったのは、黒板を消す当番(レーダル)の週だった。スポンジをいつも湿らせておいて、先生に言われたら黒板を拭くのが僕の仕事だった。僕はそこにあるものをすっかり消すのが楽しかったし、湿ったチョークのにおいと、あとで手が乾いた感じになるのがおもしろかったし、スポンジをトイレで洗うために教室を出られるのがうれしかった。廊下は静かでがらんとしていて、清潔な子どもと床のワックスのにおいがした。僕は靴の鳴る音を、虚ろな空間に響くこだまを楽しんだ。トイレまでゆっくり歩き、足どりを調節してキュッキュとリズムを刻んだ。空っぽの空間でひとりで自由にしていると、わくわくした。ほかの子はみんな教室に強制収容され、休み時間にしか解放されない。僕はのんびりとスポンジを洗い、教室に戻るのを遅らせようと、一歩一歩引き延ばすように歩いた。ときどき、どこかの教室のドアのそばで足を止め、なかでなにをやっているかこっそり聞いた。従順な子どもたちの低い声と、先生の落ち着いた厳かな声が聞こえた。自由の身の僕がそこで聞いているのをだれも知らないことが、僕はうれしかった。彼らに僕は見えないけれど、僕には全部聞こえた。彼らは内側にいるけれど、僕は外にいた。

ああ、確かに小学校であったわ、「当番」。嗅覚、触覚、聴覚などを駆使した描写に、小学生時代へタイムスリップ。もちろん、これはサラエヴォの小学校なんですが、日本に置き換えても十分通用しますよね。何より、みんなが教室に「強制収容」されている時間に自分だけは誰もいない廊下にいる、という特別な感じ。これがたまりません。語り手の「僕」は、その感覚を存分に味わおうとしている。廊下のワックスのにおいや靴の鳴る音なんかは、普段気にとめることないでしょ。でも、こーゆーときには音やにおいをキャッチしちゃうんですよ。
僕も経験ありますよ、この感じ。放送委員だった僕は、当番のとき、お昼の校内放送をするために教室じゃなくて放送室で給食を食べていました。教室から切り離された箱みたいな狭い部屋にいるときの、あの特別な感じ。もしくは、学校を早退した帰り道。まだみんなは学校に残っていて、子どもの姿が見当たらない通学路をひとり帰る。お昼前の街の妙に白々と明るい、あの特別な感じ。「彼らは内側にいるけれど、僕は外にいた」。そう、世界や時間の外側にいる気がするんですよね。そしてそこには、何もないが故の自由が広がっているんです。
ところで、この引用部、実は語り手の「僕」がカメラの前で答えているインタビューなんですよ。取材しているのはボスニア出身でニューヨーク大学の映画学科に通っている女子学生アルマ。卒業制作で、「僕」を題材にした映像作品を作ろうとしているとか。これ、「シムーラの部屋」の冒頭と似たパターンですね。過去の出来事をそのまんま綴るのではなく、枠の中に入れて語る。そこでは、語られることによって真実が常に揺らいでいます。
例えば、アルマが「僕」の両親から事前にあれこれ聞き出しているということを知る場面。「僕」は、自分以外の家族が自分について語っていることに驚きます。自分は「唯一の語り手のはず」で、なぜなら「物語を語ることにおいては、僕は一族でただひとりのプロなのだから」と。ただし、物語を語ることは必ずしも真実を語ることではありません。「ひとたび問いかけるレンズの前に立つと、目をそらすのは難しい。ひとたび話を作って独白を始めたら、やめるのはひどく難しい」。実際の出来事を語るということに含まれる揺らぎは、この作品集を貫くテーマでしょう。
このあと、カメラの前でお喋りする「僕」の話題は、子供の頃に仲間たちと夢中になっていた戦争ごっこのエピソードへと移っていきます。これまた、ヘモンのいきいきとした描写力が冴えまくりで、やんちゃな子供たちの姿が目に浮かぶようです。

僕らは基地を――旗と兵器庫とプライドを――僕らの建物の裏にあった菜園に移さなければならなかった。菜園はかなり広く、端にある家に住んでいる老人のものだった。家は古くてぼろぼろで、壁には大きな水のしみがあり、想像の海の地図に似ていた。こけら板が、なんの予告もなく屋根から滑り落ちた。遊び場戦争の前は、僕らがここに足を踏み入れることはめったになかった。家から出てきて吠えたてる老人が怖かったからだ。ばあさんはいかれた風車みたいに腕を振り回し、じいさんは幻覚のオーケストラを指揮するように棒を振った。ふたりともあきらかに病気だった。夏なのに、ふたりとも重たいチョッキとセーターを着ていた。足は木の切り株のようにふくれ、ごくまれに窓が開くと、腐敗と死のにおいが漂ってきた。けれども、菜園にはジャガイモとキャベツの畑が広がり、インゲン豆とトウモロコシの小さな森があり、僕らはそこに戦闘用の棒を隠して補給した。秋にはカボチャが実り、春にはタマネギが芽吹いて緑色のウサギの耳が現われた。冬には一面ぬかるんで、僕らを急襲してきた敵は、みな足を取られた。雪が降れば、難攻不落の氷の掩蔽壕を作ることができた。見張り塔に使えるリンゴの木まであり、僕らはそこに旗を掲げた。これまでこの菜園を基地にしようと思わなかったことが、信じられないほどだった。

いかにこの場所が魅力的だったかが伝わってきます。いきいきしているのは、大人になってから振り返ってるんじゃなくて、当時の感覚を再現している描写だからだと思います。子供時代の「僕」はおそらく、壁のしみを地図に見立てたり、突然滑り落ちてきたこけら板に大騒ぎしたり、指揮者みたいな老人の動きをマネしてみせたりしてたんでしょう。「すんごいボロ屋でさあ」と興奮気味に仲間と語り合っていたかもしれません。
そして、春夏秋冬の菜園の様子と、それが戦争ごっこにいかに使われていたかというのも面白い。要するに、彼らは一年中戦争ごっこに明け暮れていたってことです。夏には夏の戦い方が、冬には冬の戦い方がある。見張り塔になるリンゴの木だってある。この秘密基地っぷりに、わくわくさせられます。
ところがある日、この菜園がフェンスで囲われビル工事が始まってしまう。俺たちの基地を取り戻せ。ということで。「僕」とその仲間たちは工事のジャマをして菜園を奪還しようと、工事の作業員たちに「戦争」を仕掛けることに。まあ、戦争といってもそれまでの戦争ごっこの延長のようなものですが。

「その子たちはどうなったんですか」とアルマがきいた。
「いつ?」
「戦争で」
「どの戦争?」
「本物の戦争で」
「うーん、考えてみないとわからないな」

ハッとさせられますね。さっきまで子供時代にタイムスリップしていたのに、ふいに現代に引き戻される。インタビューとして挿入されるこの会話で、現実のボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争が前景化する。戦争ごっこと本物の戦争、語りの中の出来事と現実に起きた出来事。それは、似ているかもしれないけど別なものです。この虚構と現実の間のズレを曖昧にしたい「僕」は、「うーん、考えてみないとわからないな」と言葉を濁す。
そして、2ページ先に、もう一度同じような問いがくり返される場面が出てくる。「彼のその後は?」とアルマに訊ねられるんですよ。「僕は答える前にひと呼吸置いた」。そして、その友人がどうしたかを語る。僕にはこの「ひと呼吸」が、虚構とリアルのズレに向き合うための休符に思えます。それは、現実の苛酷さと向き合うということでもあります。
さて、戦争ごっこに夢中だった「僕」は、アメリカの特殊部隊に憧れていました。英語の夏期講習に通い、両親にオモチャのライフルを買ってもらいます。これは、「天国への階段」や「すべて」で、アメリカがある種の崇拝の対象になっていたことを思い出させますね。

つまり、僕はライフルを手に入れてうれしくてたまらず、僕しか話せない言葉を習っていて、両親は――理由はどうであれ――ほったらかしておいてくれた。だから、あとはそれを全部ひっくるめたアイデンティティがあればよかった。そして僕は、アメリカの小さな特殊部隊が悪のドイツ軍の秘密兵器工場がある山を破壊する映画に、そのアイデンティティを見つけた。(中略)映画は『呪いの山』という題名で、二日間で二回見た僕は、自分の部屋の絨毯が苔の生えた山の斜面になったつもりで匍匐前進した。ベッドをトラックに見立ててその下に隠れた。家具の陰で射撃体勢を取り、死が迫っていることを知らないドイツ兵を待ち構えた。だから、僕が狙撃兵になって、手押し車を押す作業員を部屋の窓から狙うようになったのは、当然かつ自然なことだった。僕は弾丸が作業員の頭を貫通し、脳の中身が噴き出すさまを想像した。やがて僕は、ひとりのときに自己流のアメリカ語を話すようになった。映画を見て覚えた音と、英語教室の歌で覚えた音をゆがめて組み合わせたもので、昔、父が唱えた原則に従って発音した。すなわち、イギリス英語はくちのなかを熱いお茶でやけどしたように発音するが、アメリカ英語はガムを噛んでいるつもりで発音する必要があるという原則だ。フォ・ドゥ・ソーション・ジェンブル、と僕は息をひそめて言い、ゴム長靴をホースの水で洗っている作業員にライフルを向けた。フェッキン・プローション、カマン。イェア・シェア。

ごっこ遊びの楽しさが描かれている場面です。この手の遊びは、子供の頃みんなやるんじゃないかな。道路の白線は中空に張られたロープだから落っこちないようにしなくちゃ、とか。ごっこ遊びでは、目に入るものすべてが妄想の道具になります。絨毯の山にベッドのトラック、路上の人を敵兵に見立てて、見えない銃弾を放つ。そもそも、「僕」が参照している映画自体が虚構の世界なわけだし、ライフルもニセモノなら、アメリカ英語も自己流。でも、そうしたものが、「僕」をここじゃないどこか、今じゃないいつかへ連れていってくれる。世界や時間の外側に立つことができる。「彼らは内側にいるけれど、僕は外にいた」です。
さて、このインタビューの最中に、両親に取材をしたアルマの口から、当時の「僕」がまったく気づいていなかったある事柄が明らかにされます。一方、戦争ごっこの終わりに起きた出来事について、アルマは「ご両親からその話はまったく聞いてないわ」と答える。つまり、同じ時間を過ごしながら、「僕」と両親は違った世界にいたということです。どちらかが正しいのではなく、語られた出来事は実際の出来事と必ずズレているということです。そのズレ方が、親子の間で違っていたということでしょう。
この作品の最後に冒頭で語られた学校の廊下の場面の続きが語られます。インタビューによって記憶が呼び起こされたのか、それとも作り話として発展させたのかはわかりませんが、そこには最初に語りには現われなかった両親の姿があります。これは、何ともいえない郷愁があって、すごくいい場面。自分の気づかないところで、両親が庇護してくれている。そんな子供時代への郷愁です。そして、そのことを改めて振り返っている「僕」の、両親へのしみじみとした愛情が伝わってくる。「僕は外にいた」。そして、「僕」には外側から帰ってきたときに迎えてくれる人がいたのです。


「苦しみの高貴な真実」
アメリカ大使公邸で行なわれているパーティの場面から始まります。ん? アメリカ大使? ってことはここはアメリカじゃないの? 実は、語り手の「僕」は、シカゴでの暮らしを離れサラエヴォへ帰郷しているんですよ。紛争前に暮らしていた家に、両親と共に滞在中。そんな折り、ピュリッツァー賞を受賞したアメリカ人作家リチャード・マカリスターを主賓としたレセプションが開催され、どういうわけか「僕」もそこに招待されたというわけ。
このパーティー場面は、「僕」のシニカルでユーモラスな人物描写が冴えまくってます。「アルマーニのスーツに身を包んだビジネスマンの群れは、若くてかわいい通訳に群がり、その上には引退したバスケットボール選手の巨大な頭が満月のように浮かんでいた」とか、「五十歳過ぎなのに、髪はプラスチックのように黒く固まっていて、数十年前に頭に装着されたときから形を変えていないような感じがした」とか。この比喩の巧みさ。「装着」って!
このように、「僕」は目につくものを次々とこき下ろしていきます。でも、実のところ「僕」はこのマカリスターという人気作家とお近づきになりたくてしょうがないんですよ。これって、「指揮者」で年長の詩人を小バカにしながらも仲間に入りたがっていたときと同じようなメンタリティですね。成長してないなあ。このこじれた自意識。パーティに出席する前に、マカリスターの書いたものを検索したりして。必死か。
そして、パーティーで彼を見つけると、割り込むように半ば強引に話しかけます。「サラエヴォの感想は?」。さらに自己紹介。「『愛と障害』っていう僕の短篇は、読んでるんじゃないですか」「少し前に『ニューヨーカー』に載ったんですがね」。おお、また出てきましたよ、「愛と障害」が。「僕」が若い頃に書いた詩のタイトルと、大人になってから書いた小説のタイトルが同じというのはどういうことでしょうか。実はこの作品、前の短編に出てきたものがチラチラと登場します。それも、先の記述とは微妙にズレている。例えば、「僕」の恋人の登場していた「アズラ」という名前が全く別の文脈で出てきたりする。これも、語りの虚構性ということでしょうか。

そのあともずっと、僕はウェイターのトレイの荷を次々に軽くしてやった。バスケットボール選手に話しかけ、首が痛くなるまで彼を見上げながら、二十年ほど前に彼が失敗したシュートのことを――そのせいで彼のチームは全国優勝を逃し、僕はそれがサラエヴォの全般的な凋落の始まりだったと考えていた――しつこくたずねた。

マカリスターがその場から立ち去ったあとも、「僕」は酒を飲みまくります。いかにもウェイターのためみたいな口ぶりですが、単に飲んべえなだけでしょう。しかも、けっこうな絡み酒です。何十年も前の失敗をわざわざ蒸し返し質問攻めにするという、タチの悪さ。さらに、包帯をしている大臣にその理由を問い質し、文化担当官に「アメリカ政府の仕事なんて、正真正銘の大ばか野郎でなければ務まらないな」と言い放つ、うざっぷりを発揮します。まったく、やっかいな酔っ払いです。
そして、大使公邸を出て帰路についた「僕」は、女性と歩いているマカリスターを再び発見。あーあ、めっかっちゃった。こういうとき、普通ならジャマしないようにしようと思うでしょ。でも、酔っ払った「僕」は、そんなことは気にも留めません。二人の間に割って入り「飲みに行こう」と誘います。結局、女性はそそくさと帰ってしまい、「僕」とマカリスターは二人で飲み直すことに。でも、「僕」に酒を与えないほうがいいんじゃないかな。

マカリスターはほほえんだ。まだ知り合って数時間しかたっていなかったが、早くも僕は、彼が怒らないことを知っていた。怒りを感じることなく、一冊の本を――ほんの一文でさえも――書くことが、どうしてできるのだろう。僕は不思議だった。怒りを感じなかったら、朝、目覚めることだってできないではないか。僕は夢のなかで怒り、目覚めたときは激怒している。彼は僕の問いに肩をすくめただけだった。僕はワインを飲み、さらに飲み、歩いているあいだに多少は取り戻したかもしれないまともな思考は、たちまち消えた。僕はマカリスターに質問を浴びせた。ベトナム戦争には行ったのか。作品はどの程度自伝的なのか。カッパーは彼の分身なのか。あっちで仏教徒になったのか。ピュリッツァー賞を受賞してどんな気分か。これはすべてクソだという思いを抱いたことがあるか。これというのは、アメリカとか、人類とか、小説を書くこととか、あらゆることだ。サラエヴォをどう思うか。気に入ったか。この街が、こんなちっぽけで霧雨まみれの苦しみの汚水溜めになる前は、どんなに美しかったかわかるか。

ほら、また絡み始めちゃった。仏教徒であるマカリスターが怒らないのをいいことに、ぶしつけな質問をしまくり。「これはすべてクソだという思いを抱いたことがあるか」。つまり、「僕」は「すべてクソだ」と思ってるということです。そして、それが本を書くことの原動力になっている。「目覚めたときは激怒している」ってのもすごいんですが、いったい「僕」はなぜそこまで怒っているのでしょうか。
おそらく、「僕」の怒りの根底には、故郷を「霧雨まみれの苦しみの汚水溜め」にしてしまった紛争がくすぶっている。この街が、「どんなに美しかったかわかるか」。でも、この問いにマカリスターが答えられるわけがありません。だって知らないんだから。これは、「シムーラの部屋」でボグダンが言う「なにを経験せずにすんだのか、あなたにはけっしてわからない」というセリフを思い出させます。その場にいなかったものには、わからない。でも、本当にそうでしょうか。この高名な作家なら、わかるかもしれない。「僕」の絡み方から、そんな切実さがチラリと覗きます。

レストランを出るとき、マカリスターは僕が千鳥足で階段を上るのを助けてくれたうえに、僕のためにタクシーまでつかまえてくれた。だが、僕はタクシーに乗りこもうとしなかった。僕が彼の本を全部読むと、本当に全部、雇われて書いた雑誌記事も、なにかの推薦文も、あらゆるものを読むと彼が信じるまで、そして彼がそれを信じたあとは、僕の家に来て、僕の両親と一緒に昼飯を食べると約束するまで――彼は今や家族なのだから、仲間なのだから、サラエヴォの名誉市民なのだから――そして、彼にうちの電話番号をメモさせて、彼が翌日の朝一番に電話をよこすと約束するまで、タクシーに乗りこもうとしなかった。ほかにも約束させようとしたのだが、道路清掃人が猛烈な勢いで水を噴射するホースを持って近づいていたし、タクシーの運転手がじれったそうにクラクションを鳴らしていたので、もう行かなければならなかった。走る車のなかで、酔っぱらった僕は、最低最悪のどうしようもない時代における最高の作家のひとりと結んだ絆に有頂天になった。そして、家に着くころには、二度と会うことはないだろうと思っていた。

こういう場面、あるなあ。お開きだって言ってるのに、うだうだして帰ろうとしない。「僕が彼の本を全部読むと、本当に全部」「家族なのだから、仲間なのだから」といったくどくどしくも長い文章から、「僕」の切れ目のないうざさが伝わってくきます。わかったよ、もうわかったってば、と言いたくなる。せっかくタクシーを呼んでやったのに乗ろうとしないとか、面倒くさいったらありゃしない。しかも、本人はご機嫌なんですよね。そのくせ、すぐに「二度と会うことはないだろう」って思ったりしていい気なもんです。
と、ここまでが前半部分。まあ、たいていの場合は酒でのちょっとした失敗譚ということで終わるエピソードです。ところがなんと翌日の朝、マカリスターから電話があるんですよ。「僕の両親と一緒に昼飯を食べる」という酒の席での約束を、律儀に守ろうとしているわけです。自分で約束しておきながら、まったくその気がなかった「僕」は大慌て。著名なアメリカ人のお客様がやってくるということで、両親も巻き込んだドタバタ劇の様相を呈してきます。
社会主義サイズ」の、狭い彼らのアパートにやってきたマカリスターを、「父はまるでダイニングが地平線のかなたにあって、日が暮れる前にたどり着かなければと言わんばかりに指さして案内」します。巧いこと言うなあ。どこかうやうやしさを感じさせる態度。おそらく、息子が知り合った有名作家を、必死でもてなそうとしているのでしょう。しかし、彼らなりのもてなしが「僕」には的外れに思えてしまう。母親は、ベジタリアンのマカリスターに肉料理を振る舞い、父親はぶしつけな質問をぶつけます。「僕」は、そんな両親の振る舞いを見ていていたたまれない気持ちになる。自分だって前の晩にはさんざん絡んでたくせに、と言いたくなりますが、確かにこの昼食会は気まずい。

マカリスターはフォークを右手に持ち、ナイフは使わず、ゆっくり咀嚼した。僕はこれが――この食事、このアパートメント、この家族が――彼にどう見えるか想像して、恥ずかしくてたまらなかった。この僕らのちっぽけてごちゃごちゃした存在を、つねに腹をすかせている人間のために考えられたような、僕らの洗練されていない料理を、僕らがすること、あるいはしないことすべてにちらつく喪失を、彼はどう考えるだろう。安っぽいアフリカのがらくたや、色あせた写真や、紛争前の僕らの人生の行き当たりばったりな残骸が大量に詰まったこの家は、僕らの人生の博物館だった。しかし、けっしてルーヴル美術館ではなかった。僕はマカリスターがどう思うか気が気ではなかった。よくてわざとらしいお世辞、悪ければ軽蔑だろう。僕は彼を憎む心の準備ができていた。マカリスターは自分の割り当てをゆっくり食べ、ひと口食べるごとに慈愛に満ちた中途半端な笑みを復活させた。

自虐的な凝った言い回しが次々と出てきます。「つねに腹をすかせている人間のために考えられたような、僕らの洗練されていない料理」って…。「僕」は、この食事やアパートや家族を愛している。しかし、他者の目を通して見ると洗練されていなかったり、行き当たりばったりに見えるだろうと、考えている。だから、一方で恥ずかしくてたまらないんです。ルーヴルを知らなければ、がらくただって美術品です。でも、アメリカで暮らした「僕」は、アメリカの作家の目を通して自分たちの人生を眺めてしまう。そしてまたしても、ボスニアアメリカに引き裂かれてしまいます。その苦しさから逃れるためには、こう考えるしかない。「僕は彼を憎む心の準備ができていた」。
この温かで痛ましくてこっけいな場面のあと、もうひとひねり展開があります。「僕」のマカリスターに対する恥ずかしい思い出が、「語る」ことによってしみじみと余韻を残すエピソードに変わるんですよ。語られた出来事と実際の出来事は別物です。しかし、語られたものによって、実際の出来事に新たな意味を与えることができるかもしれない。例えば、苦しみに「高貴さ」という意味を与えることで、「苦しみの高貴な真実」と生まれ変わるように。


ということで、アレクサンダル・ヘモン『愛と障害』読了です。ヘモン、やっぱりいいなあ。「苦しみの高貴な真実」が最後に置かれている意味を、じんわり噛みしめながら本を閉じます。

『愛と障害』アレクサンダル・ヘモン【3】

間が空いちゃったけど、読んでますよ。
この作品集、最初の2編はわりと普通の青春小説みたいな感じだったんですが、今回の2編はさりげない仕掛けが凝らされていて、一筋縄ではいかない作品でした。
では、いきましょう。


「シムーラの部屋」
まずは冒頭から。ちょっとした違和感がある始まりになっています。

彼はシムーラの住居の前に立ち、左手は空中に静止して、ノックをためらう。両側に二個のスーツケースがあり、片方はほつれたロープでくくられている。心臓が高鳴り、体調はすぐれず、栄養も悪い。着ている黒いコートの襟には糸くずとふけの筋があり、悲喜劇的に短い袖からは、縁の汚れたシャツの袖口が突き出ている。マイク・シムーラがドアを開けると――パジャマのズボンだけをはいていて、上半身は怖ろしい胸毛に覆われている――ボグダンはつかえながら英語のせりふを言う。「着いたばかりだな」とシムーラは意地悪な鼻声で言う。シムーラは脇によけてわれらが青年をなかに通し、ロープでくくったスーツケースは青年のくるぶしに当たり、もう一つはシムーラのひざにぶつかる。

あれっ、と思うのは現在形で書かれていること。そして、三人称で書かれていること。これは、この作品集にこれまででてきたどの話とも違う。実はこの部分は、シムーラが語り手である「わたし」に語ったエピソードなんですよ。なので、このあとすぐに一人称の語りに戻ります。それでもなお引っかかるのは、シムーラが見ていないはずの「ノックをためらう」ボグダンの様子まで描写されているからです。ボグダンにしかわからないことが書かれているという、揺らぎを含んだ一人称の語りになっているわけ。ついでに言うと、これまでの作品では「僕」だった語り手が、「わたし」になっているのも気になります。これ、原文ではどうなってるんだろう?
ボグダンはボスニアからやってきたばかりの移民で、伝手を頼ってシムーラの家に居候させてもらうことになります。このシムーラという人物は、外面はいいけど実は弱い立ち場の相手には威張り散らすようなタイプ。「あいつはおまえと同じつまらん国から来たんだ。バスニアとかいう」と語るあたりも感じ悪いし、FBI捜査官になるという夢を持っているというのも幼稚な権威主義みたいなものを感じさせます。ということで、右も左もわからないボグダンと、家主ヅラして彼にあれこれ指示しながら「住まわせてやる」シムーラの関係が描かれていきます。
シムーラはボグダンに、「この国にはだれでもチャンスがある」と語ります。ポイントは、このシムーラも、そもそもは祖父母の代にウクライナからアメリカに移り住んだ移民の末裔だということ。彼の一族はそれなりに成功してるようで、つまりチャンスをものにしたわけです。しかし移民と言っても一様ではないわけで、大家であるウクライナ出身の老婦人や、かつてシムーラの部屋に住んだこともある「わたし」など、様々な移民の姿が描かれ、次第にそれぞれのズレが浮かび上がってくる。
「わたし」が駐車場で待ち伏せしてボグダンと初めて出会うシーンにも、そのズレはくっきりと描かれています。シムーラのろくでなしっぷりを知ってる「わたし」は、話でしか聞いたことのないボグダンに実際会って伝えたいことがあるんですよ。

わたしは言うべきせりふを練習していた。彼の両親のことをたずね、寛大な援助を申し出るつもりだった。とにかくできるだけ早くシムーラの部屋を出ろと言いたかった。けれどもそのかわりに、わたしはどうしようもなく困惑したアメリカ人のように無意味にうなずき、彼の話はよくわからないが、支援と理解は示していることを伝えた。「なにを経験せずにすんだのか、あなたにはけっしてわからない」と彼は言った。「どれほど運がよかったか。あなたにはけっしてわからない」ボグダンは両親を裏庭に埋葬したときのことを語った。セルビア軍に徴兵され、デルヴェンタで戦った。とても言葉にできないものを見た。地雷原に強制的に入らされる人々。腹を切り裂かれた妊婦。錆びたスプーンでえぐられた眼球。集団墓地に小便をする同じ隊の兵士。逃げることしか考えられず、その思いがあまりに強かったので、両親が亡くなったときはほっとした――だが、彼が実際にそう口にしたのか、わたしの推測かはわからない。(中略)わたしはいかにも緊急そうな用事を口実に、近いうちにまた会いたいと熱意を示し、具体的ではない援助を申し出て、駐車場を横切って歩き出した。それから何年も、わたしは彼を避けつづけた。

同じボスニア出身者として、手を差し伸べようとする「わたし」。しかし、ここでも例の「決定的な瞬間に居合わせなかった」という問題が浮上します。ボグダンに言われるまでもなく、「わたし」はそのことを後ろめたく思っている。だから、ボグダンを前にすると「どうしようもなく困惑したアメリカ人のように無意味にうなず」くしかできない。「わたし」が悪いわけではありません。でも、同じ「バスニアという」国から来たのに、紛争を経験しなかったという一点で他のアメリカ人と同じように振る舞ってしまう。「具体的ではない援助」という言葉に込められた苦い皮肉。これ、何かしているような気持ちになりたいだけで、結局は何もしないってことでしょ。
ボグダンが語る紛争時の出来事は、耐え難いほど残酷です。しかし、「彼が実際にそう口にしたのか、わたしの推測かはわからない」という揺らぎを含んでいる。冒頭の描写からもわかるように、この作品は実際にあったかのように描きながらところどころに綻びがあるんですよ。これもまた、「その場に居合わせなかった」ことと関係があるのかもしれません。「わたし」は、見ていないものを語るということに囚われているんです。
一方シムーラがやっていることは、どこまでも具体的です。「あいつをこの社会に融和させなきゃいかん」と語る。この「融和」という考え方は一見いいことのように思えるんですが、いろいろ問題を孕んでいます。最近言われる「多様性を認める」ってのとは違うわけですよ。実際、シムーラを見ているとやけに押し付けがましい。それがどこまでボグダンのためになるのかが、ちょっと疑問です。

こうしてシムーラはボグダンを猛禽類の羽で守った。即興でアメリカ史を講義して、建国の父たちの股を飾る大きなタマをありがたく鑑賞させた。自由を憎むやっかい者から世界を救った偉大な叙事詩をいくつかに分けて語った(ベトナムグレナダ、湾岸)。アメリカ文化の豊かさを理解するためにテレビを見ろと勧めた。シムーラは、資本主義の広大なカンバスを、刷毛を二、三度さっと動かして塗りつぶした――自由市場、自由企業、そして銀行の金だ。

猛禽類の羽」ってのは上手いですね。シムーラは、弱肉強食の世界で成功を手にするなら強者にならなきゃダメだということを体現している人物なんですよ。彼の言う「融和」とは、要するにアメリカ人のようになれということです。戦争とテレビと市場によって作られた、自由の国アメリカ。それをお前も学べと。この作品の中で、シムーラはアメリカ人以上にアメリカ人らしく描かれています。結局、移民が生き残る道は、彼のようにアメリカ的な価値観を内面化するしかないのでしょうか。
このあと、シムーラがボグダンを用心棒に見せかける場面があります。ここでは、ボグダンに向かって「過去に生きるな」なんてことを言っていたシムーラが、彼をどう利用するかが描かれます。

「このボグダンは」とシムーラは言った。「バスニアから来た。あっちは戦争で怖ろしい状況だ。おまえや俺が想像もできないようなものを、こいつは見てきている。あっちでは人がソーセージみたいに切られる。だからこいつは少々不安定なんだよ。わかるか。もう心理療法ではどうにもならないんだ。だが、こうしておまえに会った今は、こいつも自分を抑えられると思うがね」
ここでボグダンは自分の役割をしっかり果たした。首の筋肉をほぐし、マイケルに向かってにやりと笑い、左の犬歯が戦争犯罪者の残忍さを示すようにきらりと光った。そして彼は「ああ」と低いスラヴ人の声で答え、トマトを二、三個つかんだ。シムーラはプエルトリカンにもたれ、勝ち誇ったように股を広げた。まるでテストステロンに満ちあふれる睾丸の大きさを見せびらかしているようだった。

「なにを経験せずにすんだのか、あなたにはけっしてわからない」と言っていたボグダンと、「おまえや俺が想像もできないようなものを、こいつは見てきている」と語るシムーラ。似たようなことを言っているのに、この隔たりはどうでしょうか。シムーラはボグダンの経験をそれっぽいイメージに落とし込み、その役を演じさせるんです。これは、「経験の搾取」とでも言うべきものじゃないか。ボグダンの意志とは関わりなく、アメリカ人にさせられたり、ボスニア戦争犯罪者にさせられたり。そしてこれは、形は違えど、移民たちが様々な場面で体験していることなんじゃないかと。
「テストステロンに満ちあふれる睾丸の大きさ」という表現は、その前に出てきた「建国の父たちの股を飾る大きなタマ」に対応していますが、明らかにアメリカ的なマチズモを揶揄した表現でしょう。おそらく語り手の「わたし」は、それになじめないでいる。そして、ボグダンも。移民たちが抱える、このどうしようもない寄る辺なさ。
それに比べて、シムーラのクソ野郎はなんてことを思ったりもするわけですが、最後の最後に出てくるほんの数行の描写で、それもまた一面的な見方かもしれないと思わせられるところが、この作品の巧みなところです。実はシムーラも同様の寄る辺なさを抱えていたのではないかという気持ちになるんですよ。もちろん、それが事実なのか「わたし」が推測してあたかも見てきたように描いているのかわからないわけですが。


「蜂 第一部」
「第一部」とありますがそこまで含めてこの作品の題名で、このあと「第二部」があるわけじゃありません。ちょっとトリッキーなタイトルですね。
この作品は、語り手の「僕」が子供の頃、家族で映画を観にいったときの思い出から始まります。映画の上映中に父親がいきなり怒り出して、観客たちに「みんな、これを信じてはいかん! 同志よ! これは真実ではない」ってわめくんですよ。うわー、気まずい。僕の父親も不器用なタイプの人なので、公共の場で場違いな振る舞いをすることがありますが、子供としてはいたたまれないわけで。
「僕」の父親は、「真実でないもの」を憎んでいるんですよ。その理由も一応は語られているんですが、それにしたって極端です。それなら映画なんか観にいかなきゃいいのに。それどころか、カメラを借りてきて、自ら「真実について」の映画を撮ろうとする。さらに可笑しいのは、その映画は台本に沿って演出されるんですよ。お父さんにとっての「真実」って何なんでしょうね。
「わが人生」と題されたその台本には、こんなことが書かれていました。

1 わたしは生まれる。
2 わたしは歩く。
3 わたしは牛の世話をする。
4 わたしは家を離れて学校に通う。
5 わたしは家に戻る。みんなしあわせ。
(以下略)

思わずズッコケてしまいます。台本ってこれ? 「わたしは生まれる」って、そりゃあ真実かもしれないけどさあ。この調子で25のシーンが台本に記されている。「わが人生」がたったの25シーン? とかなんとか、苦笑まじりに言いたくなります。でも、ちょっと待った。実は、人生なんてそんなものかもしれない。「僕」の父親にとって、人生で大切なことはこの25シーンで十分なのかもしれません。
人生の25の場面の中に選ばれた「牛の世話」が、父親にとってどれだけの意味を持っていたのか。家族ができてからの場面の台本には、「家族で海に出かける。家族で山に出かける」というシーンも出てきますが、この思い出が父親にとってどれほど大切なものなのか。さらに、台本のあちこちに「みんなしあわせ」「わたしはしあわせ」という言葉も繰り返し登場します。家庭を持って日々を営んでいることが、父親にとっては「しあわせ」であり、それこそが「真実」なのです。そしてもう一つ、この25シーンの中には、こんな一文もあります。「わたしは蜂を飼う」。

父は、自分が真実ではないとみなすものに、深く個人的に腹を立てていたのだと僕は思う。そして、父にとって、文学ほど腹立たしいものはなかった。そもそも概念からしていかがわしかった。文学はすべて言葉から――その真実の度合いは、あやふやもいいところだった――できているだけでなく、その言葉を用いて、実際にはけっして起きていないことを表現する。文学とそのまやかしの性質を嫌う気持ちは、僕が本に非常に強い興味を持ち(父は母のせいだと責めた)、その後、僕が父に関心を持たせようとしてますますひどくなった可能性がある。父の四十五歳の誕生日に、僕は愚かにも『嘘つき』という本をプレゼントした――父は題名しか読まなかった。あるとき僕は、父にガルシア=マルケスの短編小説の一節を読んで聞かせた。天使が空から落ちて、鶏小屋に入ってしまう話だ。その後、父は僕の頭の中身を真剣に心配するようになった。同じようなできごとはほかにもあり、父はそのすべてにぞっとして、自分が「真実」の本を書くという計画を気軽に口にするようになった。

「実際にはけっして起きていないことを表現する」文学。腹立たしい嘘であり、いかがわしいまやかしである文学。語り手である「僕」の父親は、そうしたものに拒絶反応を示す。そんな父親に、よりにもよって『嘘つき』という本とかマジックリアリズムマルケスとか、ほとんど挑発行為でしょ。いや、語り手の「僕」は父親を困らせようとしてるわけじゃないんですよ。彼は本気で、それらが素晴らしい文学だと思っている。そしてそのことをお父さんにもわかって欲しい。でも、父親にとってそれは「真実ではない」という一点で、ぞっとするようなものなんですよ。
文学の虚構性を嫌悪するあまり「真実」の本を書こうとするというのは、映画のときと同じパターンですね。1994年、ボスニアの難民としてカナダに移住してから、ようやく父親はその「真実」の本の執筆に取りかかります。「僕」の元に封書で送られてきたその原稿のタイトルが、これです。『蜂 第一部』。原稿は、「わが家族と蜂のあいだには忠実な絆がある」と始まりまり、父親の父親、つまり「僕」から見れば祖父が養蜂家だったという話を中心に、父の少年時代のエピソードが綴られていきます。

今、僕は父の原稿を手にしている。見ていると、父の集中力の満ち引きがわかる。腰痛の強弱も読みとれる。たとえば、十ページの最後に見られる滑らかで安定した文字は、十一ページでは曲がりくねり、余白には脈絡のない単語が(こびと……馬の調教師……スイカ……虐殺)書かれている。完結している文は書き手の不満の槍でまっすぐに貫かれ(養蜂は魅力的な夏の活動だ)、形容詞は孤独な乾いた名詞に寄り添う(「臭い」という語が「足」につきまとい、「古典的な」という語が「窃盗」につきそい、「金色」という語が「蜂蜜」に溶ける)。十三ページに向かうと、文と文のあいだの休止が長くなるのが感じられ、鉛筆で太く書かれた文字が、鉛筆を削る作業をはさんで細くなる。文の途中で休憩した形跡もあり、独立節と従属節のあいだに統語上の不一致が見られ、父の思考が分裂し、かけらが別々の方向へ飛んでいったことを示している。ときには、文はただ途絶えている。われわれは知っている、と書かれたあとにはなにもなく、述べておかなければならない、と言われても、なにを述べなければならなかったのか知ることはできない。

いいですねえ。作品としては不完全というか不恰好な原稿ですが、息子である「僕」はそこから父親の思考の流れをたどるんですよ。文体や鉛筆の文字の太さ、語の不統一などから、父親に思いを馳せる。いろいろと面倒臭い親だけど、「僕」はその面倒臭さも含めて受け入れているんだなあと思います。それは、親への愛情といってもいい。この作品集の語り手が一貫した同一人物かどうかは保留しなければなりませんが、仮に同じ人物だとして、「天国への階段」や「すべて」では父親を軽蔑していたかに見えていた語り手が、ここでは、父親の「腰痛の強弱」まで気にしている。
父親にとっての「真実」は、何よりも自分が体験した記憶に根差している。でも、「僕」にとってはそれが真実かどうかというのは、さほど問題ではないのでしょう。それよりも、文体や文字から読み取れる思考こそが父親の「真実」です。いや、勝手に読み取ってるわけだからわかりませんよ。わからないけれど、それでも書かれている内容以前に、この原稿が父親そのもののように思えてきます。

死の直前、わたしの父は、わが家の養蜂の伝統について話し合うため、私と弟たちを呼んだ。父のメッセージは
ここで『蜂 第一部』はメッセージが伝えられないまま終わる。だが、その内容を想像するのは難しくない。祖父は亡くなり、祖母も亡くなり、父は弟たちと蜂を飼った。

「死の直前〜メッセージは」までが、父親の原稿の引用。ここでも、文が途絶えている。第二部はないんですよ。でも、書かれていないことから読み取るのは、虚構と真実のあわいに文学を見出す「僕」の得意技ですからね。「父は弟たちと蜂を飼った」という簡潔な文章から、祖父のメッセージが継承されたことがわかる。
自分の父のことを書いた『蜂 第一部』という父親の原稿と、語り手の「僕」が父親のことを書いたこの「蜂 第一部」という入れ子構造が、じわじわと効いてきます。祖父は父に「蜂」を渡し、父は「僕」に『蜂 第一部』を渡す。蜂が蜜を運ぶように、家族に受け継がれていくもの。それは記憶に基づく真実であり、推測や捏造による物語でもある。父親の意図した形ではないかもしれない。でも、「僕」は父親が言うところの「真実」を、彼なりの形で受け取ったのだと思います。


ということで、今日はここ(P158)まで。次回で全部読み終わるかな。それにしても、真実と虚構がきっぱり分けられないということは、なんて豊かなんでしょうか。