『愛と障害』アレクサンダル・ヘモン【4】


さあさあ、終盤の2編です。少年時代を描いた「アメリカン・コマンドー」と、作家になってからの出来事を描いた「苦しみの高貴な真実」、どちらもよかった。
では、いきましょう。


アメリカン・コマンドー
まずもって冒頭が素晴らしい。引用します。

小学生の頃、僕が一番好きだったのは、黒板を消す当番(レーダル)の週だった。スポンジをいつも湿らせておいて、先生に言われたら黒板を拭くのが僕の仕事だった。僕はそこにあるものをすっかり消すのが楽しかったし、湿ったチョークのにおいと、あとで手が乾いた感じになるのがおもしろかったし、スポンジをトイレで洗うために教室を出られるのがうれしかった。廊下は静かでがらんとしていて、清潔な子どもと床のワックスのにおいがした。僕は靴の鳴る音を、虚ろな空間に響くこだまを楽しんだ。トイレまでゆっくり歩き、足どりを調節してキュッキュとリズムを刻んだ。空っぽの空間でひとりで自由にしていると、わくわくした。ほかの子はみんな教室に強制収容され、休み時間にしか解放されない。僕はのんびりとスポンジを洗い、教室に戻るのを遅らせようと、一歩一歩引き延ばすように歩いた。ときどき、どこかの教室のドアのそばで足を止め、なかでなにをやっているかこっそり聞いた。従順な子どもたちの低い声と、先生の落ち着いた厳かな声が聞こえた。自由の身の僕がそこで聞いているのをだれも知らないことが、僕はうれしかった。彼らに僕は見えないけれど、僕には全部聞こえた。彼らは内側にいるけれど、僕は外にいた。

ああ、確かに小学校であったわ、「当番」。嗅覚、触覚、聴覚などを駆使した描写に、小学生時代へタイムスリップ。もちろん、これはサラエヴォの小学校なんですが、日本に置き換えても十分通用しますよね。何より、みんなが教室に「強制収容」されている時間に自分だけは誰もいない廊下にいる、という特別な感じ。これがたまりません。語り手の「僕」は、その感覚を存分に味わおうとしている。廊下のワックスのにおいや靴の鳴る音なんかは、普段気にとめることないでしょ。でも、こーゆーときには音やにおいをキャッチしちゃうんですよ。
僕も経験ありますよ、この感じ。放送委員だった僕は、当番のとき、お昼の校内放送をするために教室じゃなくて放送室で給食を食べていました。教室から切り離された箱みたいな狭い部屋にいるときの、あの特別な感じ。もしくは、学校を早退した帰り道。まだみんなは学校に残っていて、子どもの姿が見当たらない通学路をひとり帰る。お昼前の街の妙に白々と明るい、あの特別な感じ。「彼らは内側にいるけれど、僕は外にいた」。そう、世界や時間の外側にいる気がするんですよね。そしてそこには、何もないが故の自由が広がっているんです。
ところで、この引用部、実は語り手の「僕」がカメラの前で答えているインタビューなんですよ。取材しているのはボスニア出身でニューヨーク大学の映画学科に通っている女子学生アルマ。卒業制作で、「僕」を題材にした映像作品を作ろうとしているとか。これ、「シムーラの部屋」の冒頭と似たパターンですね。過去の出来事をそのまんま綴るのではなく、枠の中に入れて語る。そこでは、語られることによって真実が常に揺らいでいます。
例えば、アルマが「僕」の両親から事前にあれこれ聞き出しているということを知る場面。「僕」は、自分以外の家族が自分について語っていることに驚きます。自分は「唯一の語り手のはず」で、なぜなら「物語を語ることにおいては、僕は一族でただひとりのプロなのだから」と。ただし、物語を語ることは必ずしも真実を語ることではありません。「ひとたび問いかけるレンズの前に立つと、目をそらすのは難しい。ひとたび話を作って独白を始めたら、やめるのはひどく難しい」。実際の出来事を語るということに含まれる揺らぎは、この作品集を貫くテーマでしょう。
このあと、カメラの前でお喋りする「僕」の話題は、子供の頃に仲間たちと夢中になっていた戦争ごっこのエピソードへと移っていきます。これまた、ヘモンのいきいきとした描写力が冴えまくりで、やんちゃな子供たちの姿が目に浮かぶようです。

僕らは基地を――旗と兵器庫とプライドを――僕らの建物の裏にあった菜園に移さなければならなかった。菜園はかなり広く、端にある家に住んでいる老人のものだった。家は古くてぼろぼろで、壁には大きな水のしみがあり、想像の海の地図に似ていた。こけら板が、なんの予告もなく屋根から滑り落ちた。遊び場戦争の前は、僕らがここに足を踏み入れることはめったになかった。家から出てきて吠えたてる老人が怖かったからだ。ばあさんはいかれた風車みたいに腕を振り回し、じいさんは幻覚のオーケストラを指揮するように棒を振った。ふたりともあきらかに病気だった。夏なのに、ふたりとも重たいチョッキとセーターを着ていた。足は木の切り株のようにふくれ、ごくまれに窓が開くと、腐敗と死のにおいが漂ってきた。けれども、菜園にはジャガイモとキャベツの畑が広がり、インゲン豆とトウモロコシの小さな森があり、僕らはそこに戦闘用の棒を隠して補給した。秋にはカボチャが実り、春にはタマネギが芽吹いて緑色のウサギの耳が現われた。冬には一面ぬかるんで、僕らを急襲してきた敵は、みな足を取られた。雪が降れば、難攻不落の氷の掩蔽壕を作ることができた。見張り塔に使えるリンゴの木まであり、僕らはそこに旗を掲げた。これまでこの菜園を基地にしようと思わなかったことが、信じられないほどだった。

いかにこの場所が魅力的だったかが伝わってきます。いきいきしているのは、大人になってから振り返ってるんじゃなくて、当時の感覚を再現している描写だからだと思います。子供時代の「僕」はおそらく、壁のしみを地図に見立てたり、突然滑り落ちてきたこけら板に大騒ぎしたり、指揮者みたいな老人の動きをマネしてみせたりしてたんでしょう。「すんごいボロ屋でさあ」と興奮気味に仲間と語り合っていたかもしれません。
そして、春夏秋冬の菜園の様子と、それが戦争ごっこにいかに使われていたかというのも面白い。要するに、彼らは一年中戦争ごっこに明け暮れていたってことです。夏には夏の戦い方が、冬には冬の戦い方がある。見張り塔になるリンゴの木だってある。この秘密基地っぷりに、わくわくさせられます。
ところがある日、この菜園がフェンスで囲われビル工事が始まってしまう。俺たちの基地を取り戻せ。ということで。「僕」とその仲間たちは工事のジャマをして菜園を奪還しようと、工事の作業員たちに「戦争」を仕掛けることに。まあ、戦争といってもそれまでの戦争ごっこの延長のようなものですが。

「その子たちはどうなったんですか」とアルマがきいた。
「いつ?」
「戦争で」
「どの戦争?」
「本物の戦争で」
「うーん、考えてみないとわからないな」

ハッとさせられますね。さっきまで子供時代にタイムスリップしていたのに、ふいに現代に引き戻される。インタビューとして挿入されるこの会話で、現実のボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争が前景化する。戦争ごっこと本物の戦争、語りの中の出来事と現実に起きた出来事。それは、似ているかもしれないけど別なものです。この虚構と現実の間のズレを曖昧にしたい「僕」は、「うーん、考えてみないとわからないな」と言葉を濁す。
そして、2ページ先に、もう一度同じような問いがくり返される場面が出てくる。「彼のその後は?」とアルマに訊ねられるんですよ。「僕は答える前にひと呼吸置いた」。そして、その友人がどうしたかを語る。僕にはこの「ひと呼吸」が、虚構とリアルのズレに向き合うための休符に思えます。それは、現実の苛酷さと向き合うということでもあります。
さて、戦争ごっこに夢中だった「僕」は、アメリカの特殊部隊に憧れていました。英語の夏期講習に通い、両親にオモチャのライフルを買ってもらいます。これは、「天国への階段」や「すべて」で、アメリカがある種の崇拝の対象になっていたことを思い出させますね。

つまり、僕はライフルを手に入れてうれしくてたまらず、僕しか話せない言葉を習っていて、両親は――理由はどうであれ――ほったらかしておいてくれた。だから、あとはそれを全部ひっくるめたアイデンティティがあればよかった。そして僕は、アメリカの小さな特殊部隊が悪のドイツ軍の秘密兵器工場がある山を破壊する映画に、そのアイデンティティを見つけた。(中略)映画は『呪いの山』という題名で、二日間で二回見た僕は、自分の部屋の絨毯が苔の生えた山の斜面になったつもりで匍匐前進した。ベッドをトラックに見立ててその下に隠れた。家具の陰で射撃体勢を取り、死が迫っていることを知らないドイツ兵を待ち構えた。だから、僕が狙撃兵になって、手押し車を押す作業員を部屋の窓から狙うようになったのは、当然かつ自然なことだった。僕は弾丸が作業員の頭を貫通し、脳の中身が噴き出すさまを想像した。やがて僕は、ひとりのときに自己流のアメリカ語を話すようになった。映画を見て覚えた音と、英語教室の歌で覚えた音をゆがめて組み合わせたもので、昔、父が唱えた原則に従って発音した。すなわち、イギリス英語はくちのなかを熱いお茶でやけどしたように発音するが、アメリカ英語はガムを噛んでいるつもりで発音する必要があるという原則だ。フォ・ドゥ・ソーション・ジェンブル、と僕は息をひそめて言い、ゴム長靴をホースの水で洗っている作業員にライフルを向けた。フェッキン・プローション、カマン。イェア・シェア。

ごっこ遊びの楽しさが描かれている場面です。この手の遊びは、子供の頃みんなやるんじゃないかな。道路の白線は中空に張られたロープだから落っこちないようにしなくちゃ、とか。ごっこ遊びでは、目に入るものすべてが妄想の道具になります。絨毯の山にベッドのトラック、路上の人を敵兵に見立てて、見えない銃弾を放つ。そもそも、「僕」が参照している映画自体が虚構の世界なわけだし、ライフルもニセモノなら、アメリカ英語も自己流。でも、そうしたものが、「僕」をここじゃないどこか、今じゃないいつかへ連れていってくれる。世界や時間の外側に立つことができる。「彼らは内側にいるけれど、僕は外にいた」です。
さて、このインタビューの最中に、両親に取材をしたアルマの口から、当時の「僕」がまったく気づいていなかったある事柄が明らかにされます。一方、戦争ごっこの終わりに起きた出来事について、アルマは「ご両親からその話はまったく聞いてないわ」と答える。つまり、同じ時間を過ごしながら、「僕」と両親は違った世界にいたということです。どちらかが正しいのではなく、語られた出来事は実際の出来事と必ずズレているということです。そのズレ方が、親子の間で違っていたということでしょう。
この作品の最後に冒頭で語られた学校の廊下の場面の続きが語られます。インタビューによって記憶が呼び起こされたのか、それとも作り話として発展させたのかはわかりませんが、そこには最初に語りには現われなかった両親の姿があります。これは、何ともいえない郷愁があって、すごくいい場面。自分の気づかないところで、両親が庇護してくれている。そんな子供時代への郷愁です。そして、そのことを改めて振り返っている「僕」の、両親へのしみじみとした愛情が伝わってくる。「僕は外にいた」。そして、「僕」には外側から帰ってきたときに迎えてくれる人がいたのです。


「苦しみの高貴な真実」
アメリカ大使公邸で行なわれているパーティの場面から始まります。ん? アメリカ大使? ってことはここはアメリカじゃないの? 実は、語り手の「僕」は、シカゴでの暮らしを離れサラエヴォへ帰郷しているんですよ。紛争前に暮らしていた家に、両親と共に滞在中。そんな折り、ピュリッツァー賞を受賞したアメリカ人作家リチャード・マカリスターを主賓としたレセプションが開催され、どういうわけか「僕」もそこに招待されたというわけ。
このパーティー場面は、「僕」のシニカルでユーモラスな人物描写が冴えまくってます。「アルマーニのスーツに身を包んだビジネスマンの群れは、若くてかわいい通訳に群がり、その上には引退したバスケットボール選手の巨大な頭が満月のように浮かんでいた」とか、「五十歳過ぎなのに、髪はプラスチックのように黒く固まっていて、数十年前に頭に装着されたときから形を変えていないような感じがした」とか。この比喩の巧みさ。「装着」って!
このように、「僕」は目につくものを次々とこき下ろしていきます。でも、実のところ「僕」はこのマカリスターという人気作家とお近づきになりたくてしょうがないんですよ。これって、「指揮者」で年長の詩人を小バカにしながらも仲間に入りたがっていたときと同じようなメンタリティですね。成長してないなあ。このこじれた自意識。パーティに出席する前に、マカリスターの書いたものを検索したりして。必死か。
そして、パーティーで彼を見つけると、割り込むように半ば強引に話しかけます。「サラエヴォの感想は?」。さらに自己紹介。「『愛と障害』っていう僕の短篇は、読んでるんじゃないですか」「少し前に『ニューヨーカー』に載ったんですがね」。おお、また出てきましたよ、「愛と障害」が。「僕」が若い頃に書いた詩のタイトルと、大人になってから書いた小説のタイトルが同じというのはどういうことでしょうか。実はこの作品、前の短編に出てきたものがチラチラと登場します。それも、先の記述とは微妙にズレている。例えば、「僕」の恋人の登場していた「アズラ」という名前が全く別の文脈で出てきたりする。これも、語りの虚構性ということでしょうか。

そのあともずっと、僕はウェイターのトレイの荷を次々に軽くしてやった。バスケットボール選手に話しかけ、首が痛くなるまで彼を見上げながら、二十年ほど前に彼が失敗したシュートのことを――そのせいで彼のチームは全国優勝を逃し、僕はそれがサラエヴォの全般的な凋落の始まりだったと考えていた――しつこくたずねた。

マカリスターがその場から立ち去ったあとも、「僕」は酒を飲みまくります。いかにもウェイターのためみたいな口ぶりですが、単に飲んべえなだけでしょう。しかも、けっこうな絡み酒です。何十年も前の失敗をわざわざ蒸し返し質問攻めにするという、タチの悪さ。さらに、包帯をしている大臣にその理由を問い質し、文化担当官に「アメリカ政府の仕事なんて、正真正銘の大ばか野郎でなければ務まらないな」と言い放つ、うざっぷりを発揮します。まったく、やっかいな酔っ払いです。
そして、大使公邸を出て帰路についた「僕」は、女性と歩いているマカリスターを再び発見。あーあ、めっかっちゃった。こういうとき、普通ならジャマしないようにしようと思うでしょ。でも、酔っ払った「僕」は、そんなことは気にも留めません。二人の間に割って入り「飲みに行こう」と誘います。結局、女性はそそくさと帰ってしまい、「僕」とマカリスターは二人で飲み直すことに。でも、「僕」に酒を与えないほうがいいんじゃないかな。

マカリスターはほほえんだ。まだ知り合って数時間しかたっていなかったが、早くも僕は、彼が怒らないことを知っていた。怒りを感じることなく、一冊の本を――ほんの一文でさえも――書くことが、どうしてできるのだろう。僕は不思議だった。怒りを感じなかったら、朝、目覚めることだってできないではないか。僕は夢のなかで怒り、目覚めたときは激怒している。彼は僕の問いに肩をすくめただけだった。僕はワインを飲み、さらに飲み、歩いているあいだに多少は取り戻したかもしれないまともな思考は、たちまち消えた。僕はマカリスターに質問を浴びせた。ベトナム戦争には行ったのか。作品はどの程度自伝的なのか。カッパーは彼の分身なのか。あっちで仏教徒になったのか。ピュリッツァー賞を受賞してどんな気分か。これはすべてクソだという思いを抱いたことがあるか。これというのは、アメリカとか、人類とか、小説を書くこととか、あらゆることだ。サラエヴォをどう思うか。気に入ったか。この街が、こんなちっぽけで霧雨まみれの苦しみの汚水溜めになる前は、どんなに美しかったかわかるか。

ほら、また絡み始めちゃった。仏教徒であるマカリスターが怒らないのをいいことに、ぶしつけな質問をしまくり。「これはすべてクソだという思いを抱いたことがあるか」。つまり、「僕」は「すべてクソだ」と思ってるということです。そして、それが本を書くことの原動力になっている。「目覚めたときは激怒している」ってのもすごいんですが、いったい「僕」はなぜそこまで怒っているのでしょうか。
おそらく、「僕」の怒りの根底には、故郷を「霧雨まみれの苦しみの汚水溜め」にしてしまった紛争がくすぶっている。この街が、「どんなに美しかったかわかるか」。でも、この問いにマカリスターが答えられるわけがありません。だって知らないんだから。これは、「シムーラの部屋」でボグダンが言う「なにを経験せずにすんだのか、あなたにはけっしてわからない」というセリフを思い出させます。その場にいなかったものには、わからない。でも、本当にそうでしょうか。この高名な作家なら、わかるかもしれない。「僕」の絡み方から、そんな切実さがチラリと覗きます。

レストランを出るとき、マカリスターは僕が千鳥足で階段を上るのを助けてくれたうえに、僕のためにタクシーまでつかまえてくれた。だが、僕はタクシーに乗りこもうとしなかった。僕が彼の本を全部読むと、本当に全部、雇われて書いた雑誌記事も、なにかの推薦文も、あらゆるものを読むと彼が信じるまで、そして彼がそれを信じたあとは、僕の家に来て、僕の両親と一緒に昼飯を食べると約束するまで――彼は今や家族なのだから、仲間なのだから、サラエヴォの名誉市民なのだから――そして、彼にうちの電話番号をメモさせて、彼が翌日の朝一番に電話をよこすと約束するまで、タクシーに乗りこもうとしなかった。ほかにも約束させようとしたのだが、道路清掃人が猛烈な勢いで水を噴射するホースを持って近づいていたし、タクシーの運転手がじれったそうにクラクションを鳴らしていたので、もう行かなければならなかった。走る車のなかで、酔っぱらった僕は、最低最悪のどうしようもない時代における最高の作家のひとりと結んだ絆に有頂天になった。そして、家に着くころには、二度と会うことはないだろうと思っていた。

こういう場面、あるなあ。お開きだって言ってるのに、うだうだして帰ろうとしない。「僕が彼の本を全部読むと、本当に全部」「家族なのだから、仲間なのだから」といったくどくどしくも長い文章から、「僕」の切れ目のないうざさが伝わってくきます。わかったよ、もうわかったってば、と言いたくなる。せっかくタクシーを呼んでやったのに乗ろうとしないとか、面倒くさいったらありゃしない。しかも、本人はご機嫌なんですよね。そのくせ、すぐに「二度と会うことはないだろう」って思ったりしていい気なもんです。
と、ここまでが前半部分。まあ、たいていの場合は酒でのちょっとした失敗譚ということで終わるエピソードです。ところがなんと翌日の朝、マカリスターから電話があるんですよ。「僕の両親と一緒に昼飯を食べる」という酒の席での約束を、律儀に守ろうとしているわけです。自分で約束しておきながら、まったくその気がなかった「僕」は大慌て。著名なアメリカ人のお客様がやってくるということで、両親も巻き込んだドタバタ劇の様相を呈してきます。
社会主義サイズ」の、狭い彼らのアパートにやってきたマカリスターを、「父はまるでダイニングが地平線のかなたにあって、日が暮れる前にたどり着かなければと言わんばかりに指さして案内」します。巧いこと言うなあ。どこかうやうやしさを感じさせる態度。おそらく、息子が知り合った有名作家を、必死でもてなそうとしているのでしょう。しかし、彼らなりのもてなしが「僕」には的外れに思えてしまう。母親は、ベジタリアンのマカリスターに肉料理を振る舞い、父親はぶしつけな質問をぶつけます。「僕」は、そんな両親の振る舞いを見ていていたたまれない気持ちになる。自分だって前の晩にはさんざん絡んでたくせに、と言いたくなりますが、確かにこの昼食会は気まずい。

マカリスターはフォークを右手に持ち、ナイフは使わず、ゆっくり咀嚼した。僕はこれが――この食事、このアパートメント、この家族が――彼にどう見えるか想像して、恥ずかしくてたまらなかった。この僕らのちっぽけてごちゃごちゃした存在を、つねに腹をすかせている人間のために考えられたような、僕らの洗練されていない料理を、僕らがすること、あるいはしないことすべてにちらつく喪失を、彼はどう考えるだろう。安っぽいアフリカのがらくたや、色あせた写真や、紛争前の僕らの人生の行き当たりばったりな残骸が大量に詰まったこの家は、僕らの人生の博物館だった。しかし、けっしてルーヴル美術館ではなかった。僕はマカリスターがどう思うか気が気ではなかった。よくてわざとらしいお世辞、悪ければ軽蔑だろう。僕は彼を憎む心の準備ができていた。マカリスターは自分の割り当てをゆっくり食べ、ひと口食べるごとに慈愛に満ちた中途半端な笑みを復活させた。

自虐的な凝った言い回しが次々と出てきます。「つねに腹をすかせている人間のために考えられたような、僕らの洗練されていない料理」って…。「僕」は、この食事やアパートや家族を愛している。しかし、他者の目を通して見ると洗練されていなかったり、行き当たりばったりに見えるだろうと、考えている。だから、一方で恥ずかしくてたまらないんです。ルーヴルを知らなければ、がらくただって美術品です。でも、アメリカで暮らした「僕」は、アメリカの作家の目を通して自分たちの人生を眺めてしまう。そしてまたしても、ボスニアアメリカに引き裂かれてしまいます。その苦しさから逃れるためには、こう考えるしかない。「僕は彼を憎む心の準備ができていた」。
この温かで痛ましくてこっけいな場面のあと、もうひとひねり展開があります。「僕」のマカリスターに対する恥ずかしい思い出が、「語る」ことによってしみじみと余韻を残すエピソードに変わるんですよ。語られた出来事と実際の出来事は別物です。しかし、語られたものによって、実際の出来事に新たな意味を与えることができるかもしれない。例えば、苦しみに「高貴さ」という意味を与えることで、「苦しみの高貴な真実」と生まれ変わるように。


ということで、アレクサンダル・ヘモン『愛と障害』読了です。ヘモン、やっぱりいいなあ。「苦しみの高貴な真実」が最後に置かれている意味を、じんわり噛みしめながら本を閉じます。