『魔法の夜』スティーヴン・ミルハウザー【2】


中編なんでそれほど時間はかからないだろうと思っていましたが、スティーヴン・ミルハウザー『魔法の夜』、読み終えちゃいました。まあ、たった一夜の話ですからね。一夜で読もうと思えば読めちゃうくらいのボリューム感。すーっと通り過ぎちゃえばそれでおしまいですが、月光の中で目を凝らすと、いろんなものが見えてきます。


「見えてきます」と言いながら、まずは見えないものについて言及している「いかに生きるべきか」の章から。作家志望・39歳のハヴァストローと61歳のミセス・カスコの会話です。

「絶対見えないんですよね」ハヴァストローが言う。「いつもいるのに、絶対見えない」
「よく父親と二人で夜遅く家の裏で、網戸の付いた広いポーチに座ってたわ。二人きり、パパとあたしだけで。パパはスーツ着て白い帽子かぶって。聞いてごらん、ってパパは言った。聞こえるかい? あれはすべての終わりの音だよって」
「いい人だなあ」
「あの音覚えておけよ、ってパパは言った。あの音が、どう生きればいいか教えてくれるからって」
「教えてくれたんですか?」
「全然。でもつい耳を澄ませてしまうの」
「たぶんコオロギだと思いますね。少なくとも何匹かは」

これがこの章の全文です。「いつもいるのに、絶対見えない」って、最初は何の話をしてるかわかりませんが、最後のところで虫の声について話してるんだとわかる。この流れが粋ですね。確かに、夜鳴く虫はよく耳にするけど、実際に鳴いているところはなかなか見られません。そう考えると、ちょっと夏の夜の神秘のように思えてきます。最初に「父親」と語り始めて、途中で「パパ」になるところもいいですね。状況説明から、すーっと回想の中に入り込んでいく感じ。で、「全然」というあっけない一言で、すっと現在に戻ってくる。それにしても、「すべての終わりの音」ってどういうことなんでしょうね。まあ、虫の声はちょっと夏の終わりを感じさせなくもないわけですが。
この小説は、途中で合いの手のように「夜の声たちのコーラス」や「野の虫の歌」という章が挿入されます。ミュージカル的な手法というか、歌がその前の章や後の章を補足し予告するんですよ。「いかに生きるべきか」の章のあとには、「コオロギ・ブルーグラスバンド」という章が挿入されています。この章も全文引用しましょう。といっても2行だけの章なんですが。

楽しくやろう(リヴ・イット・アップ)、楽しくやろう(リヴ・イット・アップ)、楽しくやろう(リヴ・イット・アップ)、楽しくやろう(リヴ・イット・アップ)
楽しくやろう(リヴ・イット・アップ)、楽しくやろう(リヴ・イット・アップ)、楽しくやろう(リヴ・イット・アップ)、楽しくやろう(リヴ・イット・アップ)

英語がわからないので正しいニュアンスはわかりませんが、コオロギのリリリリという鳴き声が「リヴ・イット・アップ」に聞こえるんでしょう。「どう生きればいいのか」を、コオロギたちはちゃんと教えてくれていたのです。夏はあっという間に終わってしまう。人生もすぐに終わってしまう。だからそう、「楽しくやろう」。
2章分続けて全文引用したわけですが、この短い章の中に小さな虫の声と人の一生といくつもの夏の夜が詰まってる。いいなあ。このように会話や歌だけの章もあれば、ひたすら描写に徹する章もあります。特に後半、夜も深まるにつれて、描写はどんどん緻密になってくる。「線路沿いを歩くクーパー」という章を引用してみましょう。

ゆっくりぶらぶら、クープは商店の裏側と線路の土手とにはさまれた裏道を歩いて家に帰る。この裏手の、誰のものでもないみたいな場所がクープは好きだ。黒い影に包まれた商店、明るい月光を浴びた土手。(中略)黒い鉄の跨線信号台(ガントリー)が線路の上にそびえ、空を背景に黒い橋のように見える。垂れ下がった電線が月光を浴びてキラッと光る。ここでは街灯もまだ旧式の、自動車のヘッドライトの色で、どうにも好きになれないクールエイドっぽいオレンジ色の新型に交換されていない。新型の名前も化学っぽい――ボロンじゃなくてラドンじゃなくて、ええともう少しで出てきそうなんだが。(中略)大きな金属のゴミバケツが店の裏手にそれぞれ置いてある。影に包まれたパイプや丸っこいガスメーターが地面付近の壁からつき出ている。時折店と店のあいだにすきまが生じ、メインストリートの向こう側の店の、照明の灯ったウィンドウが垣間見える。バリウム硫黄(サルファー)? 裏道の明るい側、ヒカゲノカズラや傾いたニワウルシの木が土手の石のすきまから生えて、金網の高さまで達している。思い出した――ナトリウム蒸気(ソディアム・ヴェイパー)。危険 高電圧と書いた看板の付いた鉄の跨線信号台のかたわらをクープは通り過ぎる。言葉の横にジグザグ形の稲妻が描いてある。てっぺんの横棒に付いた茶色いガラスの絶縁体を月光がキラキラ照らす。夜行列車、明るい黄色のウィンドウ、あちこちへ行く人、なかば目を閉じてうしろに寄りかかる粋な着こなしの女たち。列車の汽笛が轟き、聞いた者の血が跳ね上がる。

ああ、うっとり。こういう描写を読むと、ミルハウザーだなあと思います。壁のガスメーターや看板に描かれた稲妻まで描写せずにはいられないのが、ミルハウザーなんですよ。化学っぽい街灯の名前が、描写を邪魔するように入ってきますが、これは歩きながら頭に浮かんでは消えしているってことですね。クーパーは酔っぱらってるんですよ。だから思考がぐるぐる回ってる。
そして何よりうっとりポイントは、この「商店の裏側と線路の土手とにはさまれた裏道」。店の裏側の雑然とした狭い通りを歩いているわけです。公共の場だけどそれぞれの店の私的な領域でもあるような道。有楽町から新橋にかけて、ちょうどこんな感じの道が線路沿いにあるんですけど、あそこを夜歩くと書き割りの裏側に来ちゃったようなちょっと不思議な感じがします。そしてそして、店と店の隙間から表通りの向かいの店の灯りが見える。このピンポイントの描写、これがまあうっとりポイントです。裏通りの薄暗さが際立ち、表通りが別の世界のように思えてくる。
このパートはいろんな光が出てくるところもいいですね。隙間から見えるショーウィンドウの灯り、電線やガラスの絶縁体を光らせる月光、旧式の街灯の灯り、夜行列車の窓明かり、看板に描かれた稲妻の光などなど。昼間だとこうはいきません。太陽の光が他の光を駆逐してしまう。でも、夜はいろんな光がそれぞれの場所で輝いているんです。
このあたりから、そこにあるものを端から描写していくミルハウザーの列挙癖が前面に出てきます。まずは「子供たち、森に入る」の章の冒頭部分。

月に照らされたあちこちの裏庭を横切り、赤黒い金属柱二本のあいだに張られた緑のバドミントンネットの下を抜け、黄色いダンプカーが長い尖った影を投げる砂場の前を過ぎて、白い花を咲かせた生垣のすきまの下を通り、水が止まったスプリンクラーに付けた緑っぽい黒のホースが作る線を越えて、車庫の角の向こうに回り込み、忘れられた青い水鉄砲や赤い木の把手が付いた縄跳びロープの前を過ぎて、子供たちは町の北側へ向かってゆく。

ここでクローズアップされているのは色です。庭々に見られる様々なモノをその色とともに描写していく。真夜中、淡い月明かりに浮かび上がるその色の乱舞がたまりません。
続く「ダニーと女神」の章はこんな風に始まります。

コネチカットのこの晴れた夏の夜、月の女神は玉座に坐している。はるか高い座から煙突や屋根を見下ろし、ガラスの絶縁器が点在する電信柱の腕木を、高速道路を転がるように進むトラックを見下ろす。ガスタンクと貯水塔を、ロングアイランド海峡の暗い小さな波を、線路と白い杭垣(くいがき)を、救命係用の椅子とサトウカエデの木を、石灰石採石場と松林とコンクリート工場の降ろし樋(シュート)を、鉄塔間に張られた高圧線を、中央に黄色い線が二本入ったくねくね曲がる田園道路を、静かな郊外の街路に植わったノルウェーカエデから一つひとつ羽をたたえてぶら下がる実を、裏庭の物干ロープと車庫のあいだに横たわって眠るダニーを女神は見下ろしている。

これは俯瞰の視線がポイントかな。これまで他の章で出てきた場所も含め、町のあちこちが空撮で捉えられていきます。ああ、あそこに高速道路のトラックが、あそこには救命係用の椅子が見える。そうやってぐるーっと町を眺め、ある裏庭へとぐーっとカメラが降りていく。そこには、庭で寝そべるダニーの姿が!
続く「居間と月」の章は、全文引用しましょう。

一対の開いたカーテンのあいだから、月光が居間に入ってくる。マホガニーのピアノベンチの上に載った、銀の斑点がついたラズベリー色のローラのバレッタを月光が濡らし、彼女の父親がメイン州の海岸で撮った、逆さに置かれたボートの横に積まれたロブスター罠のガラスの額に入った白黒写真を濡らし、コーヒーテーブルの上に立つ中国人の青い陶製の小像を、ランプテーブルのかたわらの読書椅子の肱掛けに載った牛革の鍵ケースに付けた青銅の鍵を濡らす。カウチに座って、網戸を入れた、カーテンの開いた窓の方を向けば、向かいの車庫のドアの上に掛かったバスケットボールのネットが見えるだろうし、紺色の空を背景に浮かび上がる黒いテレビアンテナのある屋根が見え、そして、青い影のかかったほぼ満月の白い月が見えるだろう。黒いアンテナが、下から三分の一くらいの部分に水平に切れ目を入れ、月を不均等に二分している。

無人の部屋を月が覗き込んでいるかのように、執拗に描写していきます。写真の額をわざわざ「逆さに置かれたボートの横に積まれたロブスター罠のガラスの額」書くのがミルハウザー。この章が面白いのは、月光が部屋をなめていったあと、くるっと視点が反転して窓ごしに月を見つめるところ。僕は、映画で言うところの「切り返し」を連想してしまいました。この章の最後の部分もいいですね。月にかかるアンテナのシルエットが、月に切れ目をいれているように見える。わざわざ「下から三分の一」とか「不均等に二分」と書くのがミルハウザー。こういう具体性に詩は宿るんですよ。
そして、このあと、登場人物たちの人生がちょっとだけ交差したりしなかったりします。このちょっとだけ、っていうのがいい。昼間の出会いのように明確な会い方ではなく、もっと曖昧で淡い出会い。いや、そういえば熱く抱き合っていたカップルもいました。「若い」という章です。

あたしは幸せ、本当に幸せ、幸せなあまり大声で叫びたい。けれどその幸せのただなかにあってすでにジャネットはかすかな邪魔を、昼の思いの引っぱりを感じる。じきに家に入らないと、十一時に美容院、二時にビーチ。小うるさい声を彼女は押しやって深く息をする、あたかも夏の夜を丸ごと、トウヒの針葉の匂いからコオロギたちの叫びから、柔らかな衣ずれのような遠くの高速道路を走るトラックの音まですべて呑み込んでしまおうとするかのように。王子さまのように彼は、塔で眠っていたあたしの許に来てくれた。ううん、眠っていたっていうのともちょっと違うけど、まあとにかく。いまも彼はあたしの両手にキスしている。ジャネットは厳かに思う、これをあたしは思い出すだろう、と。

「昼の思いの引っぱりを感じる」というのが面白いですね。明日のことを考えはじめると、夜も終わりが近い。そう、残念ながら夜はいつか終わるし、夏もいつか終わるし、若い日々もいつかは終わります。ああ、邪魔しないで。今、このときを終わらせたくないの。でも、時の流れは止められない。そこで、ジャネットは思うわけです。「これをあたしは思い出すだろう」。そして、年をとってからこの出来事を思い出すことを、ほとんど幻視のように想像する。そうやって、彼女はもうすぐ明けてしまいそうなこの夏の夜を自分の中に大切にしまうわけです。
夜明けはそこまできています。誰かと出会った人たちも、また一人に家に帰っていく。彼らは孤独だったり悶々としていたり、どこか満ち足りないものを抱えていました。でも、夏の夜の散歩がそれを少しだけ満たしてくれた。そんなこの月の夜に、それぞれがささやかな感謝を捧げながら、朝が来る前に布団に入るのです。


ということで、スティーヴン・ミルハウザー『魔法の夜』読了です。ミルハウザー作品の中ではライトな部類に入ると思いますが、すごく心地いい読書でした。夜出かけるの楽しいしね。夏の夜ならなおさらだしね。では、今夜もいってらっしゃい。リヴ・イット・アップ。そして、おやすみなさい。