『ノーホエア・マン』アレクサンダル・ヘモン【1】

ノーホエア・マン
都甲幸治『21世紀の世界文学30冊を読む』という本で紹介されていて読んでみたいなと思った作家が何人かいたんですが、中でも気になった作家がアレクサンダル・ヘモンでした。だけど、この都甲さんの本は日本で翻訳されていない小説を取り上げるというコンセプトなので、英語ができない僕には残念ながら紹介されている作品が読めない。ならばってことで、アレクサンダル・ヘモンの別の唯一邦訳されている作品を見つけたので、それを読んでみることにしました。
ということで、久しぶりの「読んでる途中で書いてみる」は、これ。
『ノーホエア・マン』アレクサンダル・ヘモン
です。
最初は「どんなもんかね」という気分で読みはじめたんですが、これが予想以上によくって、どうせならじっくり文章を舐め回しながら読みたいなと思っちゃったんですよ。で、それなら「DOUBLe HoUR」でやればいいんだとテンションが上がってきて、久々の再開となったわけです。いや、まだ1章しか読んでないんでわかりませんよ。わかりませんが、こーゆーきっかけでもなきゃ再開しないんだし、やってみようじゃないか。おー!
タイトルが書かれた扉を開くと、まず「プローネクの夢想」と1行だけ横書きで書かれているページがあって、ブルーノ・シュルツを引用したエピグラフがあって、そのあとから本編が始まります。では、第一章です。


「1 過ぎ越しの祭/シカゴ、1994年4月18日」という章。
まず、語り手である「私」が朝ベッドから起き出すシーンから始まります。トイレに行き、洗濯機を回し、朝食を作る。このいちいちの描写が、何というか凝ってるんですよ。日常を丹念に撫で回すような描写というか。例えば、こんな箇所。

二個の白い玉子が、沸騰した湯のなかで瞳のない眼球のように暴れていた。床はべたつき、裸足の足を一歩一歩床から引きはがさなければならなかった――映画のなかで、人が逆さになって天井を歩いていたのを思いだした。一匹のゴキブリがまないたをそそくさと横切り、コンロ裏の安全地帯に向かった。その脂だらけのぬくもりを、ほこりの谷を、道のようにくねったワイヤを私は想像した。そこに着いたときのことを思った。巨大ななにかが降りかかってまっぷたつにされかかり、すがるように皮膚のかけらを握りしめてたどりついたときのことを。

玉子、床、ゴキブリ。たったそれだけのことから、なんて豊かな細部を描き出すんだろう。特に、ゴキブリのところが好きですね。ゴキブリを眺めている「私」の視点が、ゴキブリの目線へと移行する。「皮膚のかけらを握りしめて」というミクロ感。あと、ちょっと不穏さもありますね。眼球が暴れるとか、逆さになるとか、まっぷたつにされかかるとか。
この「私」は、現在求職中。これから、外国人に英語を教える教師の仕事に就くため面接に向かうところです。後々わかってきますが、彼はボスニアサラエヴォ出身で、英語のネイティブ・スピーカーではありません。だから、わからない単語があると辞書を引かなければならないし、祖国については新聞で知るしかない。なのに、英語を教えるというところに、ちょっとヒリっとする引っかかりがあります。ちなみに、彼が以前やっていた仕事は、美術学校の書店で箱を開けて本を棚に並べ、箱をつぶして捨てるというもの。この仕事もまた、ヒリっとくるものがある。
「私」は面接に向かいます。犬を連れた女とすれ違う。駅の外でタンバリンを叩いている男がいる。バスのベンチに上の梁に鳩がとまっている。写真屋のウィンドウに写真が飾られている。これら、道すがら目にしたものの描写も、さっきのゴキブリの描写同様に素晴らしいんですよ。

バスはウェスタン通りで急停車し、運転手は警笛を乱暴に鳴らすと、バックミラーでちらりと車内を見た。バスの前を横断している男がいて、巻いた絨毯をかついでおり、絨毯は肩の上で折れて両端が地面についていた。男は重荷に押しつぶされ、首を曲げ、ひざをかがめ、まるで重い十字架を背負っているようだった。

目に浮かぶようでしょ。バスのフロントガラスの向こうにいるこの男の姿が、十字架を背負って歩くキリストの姿に重ねられるところで、僕はふうっとため息が出ちゃいます。上手いなあ。この男もそうですが、「私」の目に映るの諸々を丹念に追っていくと、楽しげな人がまったく出てこないんですよ。そこから、「私」の寄る辺なさがじんわり伝わってくる。
英語学校に到着し、面接官を待っている間、生徒たちの声が聞こえてくる。このフレーズもヒリっときます。

 私は『白鯨』を読んだことがありません。
 私はグランドキャニオンを見たことがありません。
 私はニューヨークに行ったことがありません。
 私はお金持ちだったことがありません。

英語の例文を唱えているんでしょうが、生徒たちが英語圏から疎外されているということが、逆に照らし出されちゃってる。『白鯨』なんか、読んだことがないに決まってるじゃないですか。だから英語を習いにきてるんじゃん。最後の「私はお金持ちだったことがありません」というフレーズはドキッとします。言葉が喋れないということは、そのまんま貧困に結びつく。それを例文として唱えることの、痛ましさ。こうしたことを告発するのではなくただ描写するというところに、僕はグッときてしまいます。
「私」はこのあと、この英語学校の授業を見学します。上級クラスでは、シャム双生児の記事をテキストとして使っています。何でよりによってそんな記事を、と思いますが、読んでいてドキドキするような感じがあります。何だろう、書かれていることの裏側に貼り付いた哀しさみたいなものが、うっすらと透けてくるような感覚がある。

「ある科学者が人間の頭部を集めてヒムラーのために本を一冊書いた。ユダヤ人は怪物だったのだと思うために、兵士たちはその本を読んでしまわなければならなかった」ミハルカが行った。
「ちょっと過去完了形の使いすぎね」息子と一緒の女性が冷ややかに笑った。
「すみません。どうしても過去完了を勉強したくて」ミハルカが行った。

ミハルカはこの学校の生徒です。ユダヤ人かどうかはわかりませんが、「過去完了を勉強したくて」という言葉の重さにハッとさせられる。つまり、彼は未だ過去に囚われていて「完了」していないということです。母国語ではない言葉で、その過去をもう一度捉え直そうとしているのかもしれません。ちなみに、章タイトルの「過ぎ越しの祭」とは、ユダヤ教のお祭りです。
この学校の生徒のなかに、「私」は見覚えのある顔を発見します。でも、それが誰かは思い出せない。そんな「私」の脳裏に、ふいにサラエヴォでの少年時代の光景がよみがえる。そう、彼もまた過去に囚われているんですよ。引っ張られるように、祖国での日々を思い浮かべてしまう。そして、気づく。「そうだ、彼だ」。このあたりの流れは、読んでみてほしいところですね。脳のどこかがつながって記憶が浮上してくるという感じが、素晴らしい。
見覚えのある生徒は、子供の頃、近所に住んでいたヨーゼフ・プローネクという少年でした。もちろん、今は大人になっていますが。ヨーゼフ・プローネク、この小説の扉に出てきた名前ですね。てことは、この小説の主要な人物ということです。

彼はどうしてここにいるのだろう。サラエヴォ包囲のとき、彼はあの町にいたのだろうか。それとも包囲する側だったのだろうか。もう何年も、もしかしたら一度も、彼とは言葉を交わしていなかった。彼は椅子の背もたれに体をもたせかけ、私は彼の視線を避けつづけた。なにを話せばいいのだろう。彼にはどんな物語があるのだろう。どんな人生を送っているのだろう。

章タイトルに「1994年4月18日」とありますが、これはボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が行われていた時期に当たります。日付を見ると、NATOによってセルビア人が空爆された直後のようです。僕は、ここいら辺の事情には疎いのでWikipediaを見ながら書いていますが、つまり「私」もプローネクも紛争の真っ只中の祖国を離れシカゴにいるわけ。ああ、どんな気持ちなんだろう。そんなことは当然一言ではいえないわけで、文章全体からうっすらと透けてくる哀しさのようなものから想像するしかありません。
「私」は結局、プローネクに話しかけることなく、教室を出ていきます。面接は終わりです。でも、気になりますね。プローネクには、「どんな物語があるのだろう」。


というところで、今日はここ(P32)まで。何だろう、特に大きな出来事があるわけじゃないんですが、一文一文に工夫が凝らされていてとってもスリリングです。語り手の感情を表す単語はほとんどないのに、ひたひたとくるものがある。ということで、更新もがんばるつもりでおります。おー!