『アウステルリッツ』W・G・ゼーバルト【6】


あと2回くらいに分けて読むつもりだったんですが、溢れ出るようなアウステルリッツの「語り」を追っているうちに、読み終えてしまいました。
ページのあちこちに登場する古びた写真を眺めて、ふうと息をつく。そんな余韻。


では、続きから。
ヴェラの元を辞したアウステルリッツは、翌日テレジンという街へ向かいます。街にはまったく人気がありません。

カンパネッラの理想国家〈太陽の都〉さながらに厳密な格子状に設計された要塞都市の人気のなさは、それだけでもひどく陰鬱であるのに、ひっそりした家々のファザードの人を寄せつけぬ雰囲気には一段と重苦しさがありました。どれだけ仰ぎ見ようが、曇った窓々の陰にカーテンひとつ動くけしきがありません。寒々としたこれらの建物にいったい誰が住むのか、いや住む者がいるのかすら、考え及ばぬほどでした、とアウステルリッツは語った。それでいて裏庭には、壁に沿って驚くほど多数のゴミバケツが、赤ペンキでぞんざいに番号を打たれて整列しているのです。しかしテレジンで、何にもまして不気味だったのは、ドアや門扉の数々でした。そのことごとくがまるで立ち入りを固く拒んでいるかのように感じられ、扉の奥の漆黒に閉ざされた闇には、動くものといってただ壁から朽ちて落ちる石灰と、糸を吐きながら敏捷な肢で天井を走り、あるいは獲物を待って巣から下がっている蜘蛛しかないかのように思われたのです、とアウステルリッツは語った。

このあと、文章なしでひたすら4ページに渡って閉ざされた門扉の写真が続きます。これは、ズシリとくる。どこまでも、言葉を閉ざした街。それは、心を閉ざしていたアウステルリッツの似姿のようでもあります。
テレジンに立ちこめる陰鬱な空気は、街の歴史と深く結びついています。注では、テレジンについて「ドイツ名テレージエンシュタット。ナチの管理下で要塞都市全体がユダヤ人居住区『ゲットー』にして中継収容所となり、収容者はここから東方のアウシュヴィッツに送られた」と書かれている。ゲットーとしての街。
思えば、序盤にも語り手である「私」がベルギーの収容所を訪れるシーンがありました。やがて中盤を過ぎたあたりから、この作品がホロコーストを扱っていることが徐々にわかってきます。しかし、それを声高に糾弾するのではなく、建築物のたたずまいを通してじわじわとあぶり出していく。
例えば、「ぞんざいに番号を打たれて整列」しているゴミバケツ。この写真も出てくるんですが、これはユダヤ人を連想させずにはおきません。テレジンのゲットー資料館を訪ねたアウステルリッツは、ナチスの様々な文書から「彼らの秩序と清潔への偏執ぶり」を見て取ります。僕には、番号を振られたバケツもまた、そうした類のもののように思えるのです。

しばらくして寂れた中央広場に今一度たたずむと、忽然として生々しい幻影が浮かびました。人々は移送されず、今なお生き続けていて、家々に、半地下に、屋根裏部屋に、ぎっしりと押しこめられているのです、階段をひっきりなしに登り降りしている、窓から外をのぞき、群れなして通りや横町を歩いている、そればかりか無言のまま一ヶ所に蝟集していて、そぼ降る雨に煙る鉛色の大気の垂れこめるなか、ぎっしりとことの広場を埋めている……。

アウステルリッツの見る幻影は、いつも幽霊めいています。亡くなった人々の姿がありありと浮かぶのです。「数百年のうちにこの地に積もった苦悩や苦痛は、ほんとうに消え失せてしまったのだろうか」と語られていた、かつてのリヴァプール駅でもそうでした。
時の止まったようなテレジンの街は、死者の街です。実際はアウシュヴィッツへ送られたであろう彼らは、今なおこの地から離れられません。広場を埋め尽くし雨に濡れている幽霊たち…。何て寒々とした幻でしょう。
アウステルリッツは、さらに子供時代の自分の旅を辿るべく、プラハからドイツを経由してロンドンへと向かいます。もちろん、鉄道で。窓の外の景色が次々と移ろっていくように、このあたりから時制がどんどん錯綜していきます。
ヴェラが発したあるセリフから、ほとんど唯一と思われる女友達との旅の思い出へと話題は逸れ、また鉄道の旅へと戻り、そこにふいに現われる子供時代の記憶、さらに発作を起こして入院していたときの話題へ、そして退院後に読んだ一冊の本について。語りに身を任せていると、行き先のわからない旅のように、どんどんと思いもよらぬ場所へ運ばれていく。すごいです。
この一冊の本とは、アードラーという人物が、テレージエンシュタット・ゲットーについて詳細に記したものでした。というところで、見開きでこの要塞都市の図面が登場する。再三言及されてきた、星型の要塞。人類の暗い叡知に、ドキッとさせられます。

私の辞書には載っていないけれども、テレージエンシュタット全体を支配していた特殊な管理言語ではおそらく常用されていたであろう、単語を幾重にも重ねた複合語の言い回しを、私はシラブルごとに調べては解読しなければなりませんでした。収容棟建設資材倉庫(バラッケンベシュタントタイルラーガー)、追加費用計算証明書(ツーザッツコステンベレヒヌングスシャイン)、簡易修繕所(バガテルレバラトゥアヴェルクシュテッテ)、糧食運搬隊(メナージュトランスポルトコロネン)、食事苦情申立所(キューヘンベシュヴェルデオルガーネ)、清潔度順次検査(ラインリヒカイトライエンウンターズフング)、害虫駆除移住(エントヴェーズングスユーバージードルング)――驚いたことにアウステルリッツはややこしいドイツ語の単語を淀みなく、しかも訛りひとつなく発音してみせた――こうした言辞や概念の意味がようやく明らかになると、こんどはこれまた同様に大変な難儀をしながら、とアウステルリッツは続けた。その組み合わせて推測した単語の意味をそれぞれの文や全体の繋がりに当てはめなければならないのですが、そうするとその全体の繋がりが、しょっちゅう私の頭から滑り落ちていってしまうのです。

おお、列挙パターン。次々と挙げられる複合語は、いかにもドイツ的な厳密さというか、「秩序と清潔への偏執ぶり」を感じさせます。しかし、それを全体性の中に位置づけようとすると、上手くいかない。ピタリとしかるべき場所に、「収容」できない。
このあとも、テレージエンシュタットについて、様々な情報が執拗に列挙されていきます。ユダヤ人たちの出身地や職業、割り当てられた労務、蔓延した感染症などなど。それは、そのままゲットーにひしめくユダヤ人の多様性を思わせます。そして、細かく分類してもそこからこぼれてしまうものがあるということを、感じさせます。

この包括的な、とアウステルリッツは語った。命の根絶だけを目的としたテレージエンシュタットの収容・強制労働システムは、ボフシュヴィッツェと要塞間の鉄道支線建設への人員投入にはじまって、閉鎖されたカトリック教会の鐘つき番設置にいたるまで、アードラーが再構成したところによればその全機能、全所轄分野がきわめて組織的な計画にのっとり、管理に対する気違いじみた熱意をもって遂行されたのです。

アウステルリッツもまた「気違いじみた熱意」でもって建築史を研究し、自らの過去を辿ろうとします。でも、それは秩序立った管理という形をとりません。むしろ、そこからこぼれてしまう何か得体の知れないものを追いかける、うねうねした思考やさまよえる旅といった形をとります。
彼のやり方では、その全体像を掴むことはできないかもしれません。でも、歴史を大づかみに捉えると、こぼれてしまうものがある。かつての歴史教師ヒラリーの教えを思い出しましょう。自分史を辿り直すアウステルリッツは、個々の事物に目を凝らします。ひとつの建物、一枚の写真から遥か過去へと思いを馳せるのです。
このあと、アウステルリッツはある発見をします。これは書かないでおきますが、このあたりの語り口はとても素晴らしい。テレージエンシュタットにおけるある出来事にぐぐーっとカメラが寄っていく。そしてあるモノを見つける。さらにカメラはそのモノへと寄っていく。さらにさらに寄っていく。さらに時間を引き延ばしスロー再生して、そこである「個」を発見するのです。
さあ、もうこの小説も終盤です。アウステルリッツの次なる目的地はフランス。ここから先は、もう詳しく書かなくてもいいでしょう。アウステルリッツは、依然としてルーツを探してさまよい、建築物に無数の死者の声を聞く。それは歴史からこぼれてしまった者たちの声です。

たとえば街を彷徨っているうち、何十年間と少しの変化もないひっそりとした裏庭などをのぞきこむと、忘れ去られた事物のもつ重力場の中で時間がとてつもなく穏やかに流れていることが、ほとんど肌身で感じられるのです。すると、私たちの生のあらゆる瞬間がただひとつの空間に凝集しているかにょうな感覚をおぼえる。まるで、未来の出来事もすでにそこに存在していて、私たちが到着するのを待っているかのようなのです。ちょうど私たちが、受けとった招待に従って定まった日時に家を訪れるのとおなじように。それに、とアウステルリッツは続けた。私たちは過去に、つまり過ぎ去りあらかた消え去ったものに対して、約束をしているのだとは、そして自分たちと何らかの繋がりをもつそれらの場所や人々をいわば時を超えて訪れなければならないのだとは、考えられないでしょうか?

未来からの招待、過去との約束、それこそがアウステルリッツの旅の意味でしょう。未来と過去の交点である駅に佇み、今ここにいない者の姿を見て、今ここにいない者の声に耳を傾けること。ただ一人の「個」へと思いを馳せること。
そして長々と続いたアウステルリッツの語りは、最後にこの作品の語り手である「私」へと手渡されます。そのとき、僕らは「私」もまたアウステルリッツという「個」の姿を追い、声をたぐり続けてきたのだということに思い至るのです。

いつでもお気が向いたらいらっしゃってください、そしてモノクロの写真をご覧ください。あれだけが私の生涯で唯一残るものでしょう。

今一度、この本に収められた写真を見直してみましょう。写真は、僕らを見返しています。そして、そこにこめられた声なき声に耳をすますのです。


ということで、『アウステルリッツ』読了です。