『アウステルリッツ』W・G・ゼーバルト【7】


読みごたえのある小説でした。ちゃっちゃか読み飛ばせないというか、深いところに静かに訴えかけるような文体を堪能しました。
最初は、語り手の「私」がアウステルリッツという人物のエピソードを紹介し、そこに建築史や文明論が展開される、というような話だと思ってたんですよ。ところが途中から、アウステルリッツが自分史を語り始め、その語りがいつまでたっても終わらない。しかも、その語りがどこへ向かっているのかよくわからない、という展開に。そして半ばを過ぎたあたりで、アウステルリッツが自分のルーツを発見するに至り、それまで彼が語ってきたことの奥に秘められていたものがじわーっとあぶり出されていく、というような構成になっています。
例えば建築物です。駅、要塞、動物園、墓地…。読み進めていくにつれ、それらがアウステルリッツについてどういう意味を持つのかが、だんだんと見えてきます。いや、見えてくると言ってもはっきり語られるわけじゃありませんよ。ただ、じわじわと伝わってくる。このあたりは、小説を読む醍醐味というか、大きな魅力になっていると思います。
じわじわとあぶり出されていくものの最たるものは、ホロコーストでしょう。と言っても、実際には直接的な描写があるわけではありません。「ホロコースト」という言葉すら出てきてないと思います。それでも、語りえぬものとしてアウステルリッツの心を侵食し、その長い長いお喋りに影を落としている。
いつ果てるとも知れないアウステルリッツの「語り」は、まるでその一語を言わないための迂回路のようです。文明論を差し挟み、記憶の細部に分け入り、連想の赴くままにエピソードを繋ぎ、どこまでも続くお喋り。でもそれは、その一語から逃げているのではありません。歴史の教科書のようにその一語を易々と口にできたらどんなにか簡単でしょう。でも、そうすることでこぼれてしまうものがある。アウステルリッツは、それを何とか繋ぎ留めようとしているように、僕には思えてなりません。
その大部分がアウステルリッツの一人語りで占められる作品ですが、ゼーバルトの面白いところは、全編をアウステルリッツの一人称にしなかったことです。大枠は語り手である「私」の一人称で、アウステルリッツの語ったことを書き留めたという設定になっている。「とアウステルリッツは語った」というフレーズが随所に登場し、常に「私」の存在を意識させる仕掛けになっているんですよ。
「私」は何度かアウステルリッツの元を訪れ、そのとき彼が語ったことを回想しているようです。ややこしいことに、アウステルリッツも自らの語りの中で回想し、他者が語ったことを思い出している。「語り」の入れ子構造です。しかもカギカッコを使用しない文体のため、「私」とアウステルリッツの語りはどこか溶け合っているような印象すらあります。
アウステルリッツが多くの死者の姿を幻視し、墓石に刻まれた名前からその人物へ思いを馳せたように、たぶんアウステルリッツにも耳を傾けてくれる人が必要だったのです。アウステルリッツが、そのようにして歴史からこぼれてしまう人々に向き合ったように、アウステルリッツにも自分史を聞いてくれる人物が必要だったのです。

まるで写真そのものに記憶があって、わたしたちのことを思い出しているかのように、わたしたち生き残りと、もうこの世のひとでない彼らの、ありし日の姿を思い出しているかのように。

写真がこちらを見返しています。表紙の少年の瞳が、夜行獣の目玉が、出土した骸骨の眼窩が、暗がりにぼんやりと浮かんだ女性の瞳が…。写真の向こうとこちらが向き合うように、過去に耳を傾け未来へと語り聞かせる。はっきりとしたことは語られないかもしれない。でも、そこに潜むものにじっと目を凝らし耳をすます。語りえぬものをつかまえるには、それ以外に方法はないのです。


ということで、『アウステルリッツ』についてはこれでおしまい。
積読本を読んでばかりでしたが、次回はバリバリの新刊を読みたいと思ってます。