『アウステルリッツ』W・G・ゼーバルト【7のつづき】


アウステルリッツ』については終了、というつもりだったんですが、何だかもやもやとまだ言い足りないことがある気がしてなりません。「まやかし(ファルシュ)の世界」とアウステルリッツの深い孤独について、カギカッコがないということと俯瞰で歴史を語らないということ、細部まで再現される記憶と写真についてなどなど。もっと言っちゃえば、リュックサック! それだけでもいろんなことを想起させる。
さらにさらに、真実を語っているかのようなフィクションについて。そう、この小説はまるでノン・フィクションのように見えるんですよ。本文とリンクしているかに見える写真だって、それっぽいものをあちこちから集めてきたにすぎません。でもゼーバルトのタッチはとてもデリケートで、どこかに虚実の境目があるのではなく、モノクロの写真のように微妙なグラデーションを描いている。
これは、「記憶を語る」というこの作品の構成とも関わっているような気がします。記憶語りがどこまで真実なのかというのは、確かめようがありません。ひょっとして、さもあったことのように無意識のうちに思い出を作り替えちゃうこともあるかもしれません。そうしたときに、虚実はこのようなグラデーションを描くのではないでしょうか。
過去を求めてプラハへ行く。そのときのことをアウステルリッツは思い出しながら語る。ということを、「私」は思い出しながら記述する。彼らが真実だと思っていることのどこまでが真実なのか、誰にもわかりません。そう考えると、「語りえぬものをつかまえるには、それ以外に方法はないのです」という僕の読みは、あまりに単純化しすぎたようにも思えます。実際のところは、つかまえられたかどうかはわからない。つかまえられないものがあるのかもしれない。

私たちには何がわかるのか、私たちはどうやって思い出すのか、そして何が、ついに見つけられぬまま終わってしまうのか。

まあ、上手くまとめることができないんですが、いくら言っても言い切れないような澱のようなものが残ります。そういうものなんでしょう、「語りえぬもの」っていうのは。


もう一つ追記。イギリス在住のゼーバルトですが、ドイツ語で執筆しているようです。なので、書店では「ドイツ文学」の棚にありました。
ということで、次回はそのドイツ文学のコーナーでひときわ目を引いた一冊、ヴィルヘルム・ゲナツィーノという作家の『そんな日の雨傘に』を読みます。新刊書なので、これから読もうと思ってる人がいたら、一緒に読みましょう!