『そんな日の雨傘に』ヴィルヘルム・ゲナツィーノ【1】


そんな日の雨傘に (エクス・リブリス)

そもそもは積読本を消化しようということで始めたブログなんですが、たまには新刊を真っ先に読む、みたいなことをしてみてもいいかも。ということで、前回予告した通り今月出たばかりのピッカピカの新刊、
『そんな日の雨傘に』ヴィルヘルム・ゲナツィーノ
です。
ドイツ文学で、訳者は『アウステルリッツ』と同じ鈴木仁子さん。作者に関してはまったく未知ですが、この表紙の写真に魅かれたんですよ。モノクロでセンチメンタルな感じがありつつも、よく見るとどこかトボケてるという、不思議なユーモアがあります。あとは、帯にある「46歳、無職」「人生の面妖さ」「靴男」「消えたい病」といったフレーズが、僕の琴線に触れたというのもある。まあ、ろくでもないものに反応する琴線ですが。
ちなみに、この作品、白水社の「エクス・リブリス」という叢書から出ています。このシリーズ、面白そうな海外文学が目白押しなんですよ。と言いつつも、これが僕が読む初エクス・リブリス。さあ、どんなもんでしょうか?


「1」の章からいきます。
では、冒頭から。

学校の生徒がふたり、広告柱の前に立っていて、貼ってあるポスターにぺっと唾をはきかける。そして唾がたらたらと広告柱をたれていくのを見て、笑い声をあげる。私はすこし足をはやめる。以前はこういう場面に出くわしても、もうちょっと辛抱がきいた。このところすぐに気に障るのが、自分でも嫌になる。

ポスターに唾って…。ちょっと嫌だけどことさら言い立てるほどでもないような、何とも微妙なはじまりです。何でそんなつまらないことでイラつくのかといえば、彼らが若くて、「私」がもう若くはないからでしょう。
どうやら、この小説は偏屈な男の一人語りで進行するようです。街を歩きながら、かつてケチャップを踏んづけたことを思い出しては苛立ち、女友達の睫毛の美しさを思っては心を痛める。教会の脇でサーカスが行われていて、それを眺めながらこんなことを考えたりします。

サーカスの敷地の隅に、若い女が馬を連れてきて、ブラシをかけはじめる。くっきりした力強い線を描いて、馬の背中にブラシをあてていく。顔が毛皮のまぢかにある。馬が片脚を上げ、蹄(ひづめ)で敷石を叩く。するとカポンと、得も言われぬ音が出る。ほとんど同時に、馬のペニスがにゅうっと出てくる。もう何人か、見物が遠巻きにしている。見物たちが馬のなにを見たいのか、しばらく判然としない。だが、ふたりの男の悪態から、見たいのではなく、待っているのだとわかる。待っているのだ、娘が馬の性器にはっと気づく瞬間を。あの娘はなんで一歩下がって、なにげないふうに馬の下半身に眼をやらないんだ? 娘は見物が〈見る〉というハプニングを待っていることに気づかない。心ここにあらずというふうに、馬の背に顔を寄せている。ほれほれ! ほんの一歩でいいんだよ、そしたら見ものなのにさ。

これまた、ポスターの唾同様、わざわざ言うほどのことかという気もしますが、語り手は明らかにこの状況を面白がっている。「ほれほれ! ほんの一歩でいいんだよ」とか言っちゃって。うん、別にたいしたことじゃないんですが、僕もこの場に居合わせたとしたら、きっと誰かに話したくなるでしょうね。
語り手である「私」は、こうした状況を「人生の面妖さ」と呼びます。「人間はたがいに眺め合いながら、人生の面妖さを表す言葉を探しているのだ」。ドイツ語でどうなってるのかはわかりませんが、この訳語は面白いですね。「人生の不思議さ」「人生の奇妙さ」とかでもいいじゃないですか。それが「面妖」ですよ。妖しくて得体が知れない、というニュアンスがある。そして、その「人生の面妖さ」は、わざわざ言うほどのことじゃないようなささいな場面に宿っている。
このあとも、街を歩きながらの一人語りは続きます。

私みたいな人間は、古家みたいに消えてなくなるか、改築されよ、と告げられてしかるべきだという感じ。この感じは、しばしば陥るある気分と結びついている。つまり、自分は、自分の許可なくこの世にいる、という気分。正確に言うと、私はずっと、誰かが、きみはここにいたいかい、と訊いてくれるのを待ち続けている。

誰かに訊いてほしいけど、自分からは言わない。さびしがり屋の人嫌い。ねじれたプライドを持ったかまってちゃん。いや、僕もそういうところあるから、わからなくはない。わからなくはないけど、面倒なタイプですよ、この人は。
そのくせ、街でグンヒルトやズザンネといった女友達の姿を見かけても、「見つからないように」と願い、気づかれないように隠れたりするんですよ。まあ、外でばったり知人に会うと、微妙に気まずい感じがしたりするものですが、「私」の挙動不審っぷりはなかなかのもんです。

私が街をぶらつくのは、歩いていると単に過去を思いださずにすむからであることが多い。なにゆえ子どもの頃を思いだしたくないのか、説明させられるのも好かない。私の子どもの頃について喋るのはやめてくれ、とほかの人間に頼むことは、いよいよもって好かない。私の子どもの頃が、私の子どもの頃についての物語に変わっていくことを好かない。子どもの頃は、瞼の奥で、きまぐれに、こんがらがったまま、かみつきそうに、じっとしている何かとして胸にしまっておきたい。

これまた、面倒くさい人だなあ。わざわざ言う気もないが、と言わんばかりの偏屈さ。子どもの頃に何かあったんでしょうか? というように詮索されることすら「好かない」と一蹴するんだろうな。そもそも、「過去を思いださずにすむからである」なんて言ってますが、これ嘘ですよ。だって、この数ページ前では、16歳の頃好きだった少女について、あれこれ思い出しているんですから。
まあ、思い出を物語にしたくない、というのはわからなくもないですけどね。きれいなお話にまとめちゃうことで、失われてしまうものがある。それがひょっとすると「人生の面妖さ」かも。いや、結論を急ぐのはやめましょう。まだ1章目です。
かと思うと、こんなことを言い出したりもします。

私は空を見あげ、二機めのグライダーを発見する。蒼穹に一機のグライダー、これはすばらしい、しかし二機となると、臆面もない欲望の露出だ。やや、またしても社会批判をしてしまった!

「やや」じゃありませんよ。何言っちゃってるんでしょうか。一人ツッコミ。しかも、言ってることがよくわかりません。この「私」による一人称の語りは、そのほとんどが独りよがりで、妙な可笑しさがあります。
そこからそこはかとなく滲み出てくるのは、この人物が「孤独」だということです。僕には、「私」がずーっと一人でブツブツとつぶやきながら歩いているように思えるんですよ。ポスターを見てはブツブツ、サーカスを見てはブツブツ、グライダーを見てはブツブツ…。そのくせ、知人と会いそうになると目を逸らす。
デパートでは、かつての友人ヒンメルスバッハを見かけます。でも例によって、見つからないように棚の陰から見ているだけです。それどころか、疎遠になった原因を思い出し、心の中で悪態をつきます。

ヒンメルスバッハは自分のことだけにかまけていて、まわりの様子に気づいていない。靴はごわごわで、どす黒くなっている。もう磨いてもいないのだろう。香水売り場を歩き回って、お試し用をつぎつぎと吹きかけ、香りをためしている。はじめは両方の掌と手首、ついで腕。吹きかけるたびに、シュッと音がするわけだ。なんたることだよ、と私は思う、ヒンメルスバッハはこうなったか。デパートで無料(ただ)の香水をふりかけ、それで洒落たつもりでいるのだろう。中年お化けになりやがった。借金をけっして返さぬシュッ男。

ひどい言い草です。「中年お化けになりやがった。借金をけっして返さぬシュッ男」って、そこまで言わなくても…。というか、「私」だって、端から見れば「中年お化け」かもしれない。パッと見、街をうろついてはブツブツつぶやいている危ない人、じゃないですか。


というところで、今日はここ(P22)まで。このオフビートなユーモアセンスは、かなり僕好みです。