『そんな日の雨傘に』ヴィルヘルム・ゲナツィーノ【2】


この作品の主人公は、街をぶらつきつつ目に映るものからあれこれと思考を繰り広げていきます。というと、前回読んだ『アウステルリッツ』と似てるようにも思いますが、アウステルリッツは歴史や文明といったものを思索するのに対し、こちらは非常に瑣末なことがらに思いをめぐらせます。端的に言っちゃうと、「ダメ男」の気配が漂ってるんですよ。読み進めていくうちに、その気配が濃厚になってくる。
ということで、「2」〜「4」の章までいきます。


「2」の章も、前章同様ぶらつきながらの一人語りです。

デパートを出てすぐ、とうに忘却の彼方だと思っていた昔々の臨終ファンタジーが蘇ってくる。十五年ほど前、わが臨終のときにはベッドの左右に上半身ヌードの女にひとりずつ付き添ってもらおう、と想像したことがあったのだ。椅子が臨終の床にぴったり近寄せてあって、私はらくらく女のむきだしの乳に手で触ることができる。

なんという虫のいい話。「臨終ファンタジー」って呼んでいるくらいですから、本人もそれは承知しているんでしょう。しかも裸のおっぱいに触りたいという、中学男子のような妄想。「中年お化け」はどっちだと言いたい。
でも、この気持ち、わからなくもない。自分が死ぬときに、誰が看取ってくれるかっていうのは、けっこう切実な問題のような気もします。ただこの主人公がダメなのは、結局は現実性のないファンタジーしか思い描けないということだと思います。もうちょっとマシなことを考えられないのかと。


「3」の章で、「私」はひとまず帰宅します。この章では、語り手である「私」の人物像が徐々にはっきりしてくる。

このあと、まずいことに私は失敗する。ズボンと靴と靴下を脱いだのだ。むきだしの足を見るたびに、この足は私より十五歳は歳を食っている、と思う。ぷくりと浮きだした血管、クッション並みに膨れたくるぶし、とみに硬さを増して硫黄色を帯びていく足の爪に、じっと眼を凝らす。もう若くはないのだ! もう若くはないのだ! という決まり文句を思い浮かべたのは、ただ足の爪を眼にしたショックを和らげなければならなかったからにすぎない。

「もう若くはないのだ!」。大事なことなので2回言ってるわけじゃなくって、自分に言い聞かせてるんですよ。ともすると忘れがちになるけど、もう若くはないのだ。突如、それを突きつけられてショックを受けるくらいなら、自分に言い聞かせておいたほうがいいという防衛反応。
実は僕もこの間、自分の腹がぽっこり出ていることに、軽いショックを受けたんですよ。で、自分に向かって言うわけです。もう若くはないのだ! ただ、腹まわりや頭髪によって自らの年齢に直面させられることはありますが、「足の爪」っていうのは考えたことなかった。これを読んで、僕は自分の足の爪を確認しちゃいましたよ。ああ、なんか嫌だ。
そして次に、「私」は出ていった恋人について思いを馳せる。

リーザはもういない。私を捨てていった。彼女がここで暮らしていたあいだ、私にとって帰宅とは、この世で人に与えられる至福の謂であった。子どもの頃教会のミサでこの言葉を耳にして以来、半生かけてそれを望んできた。その至福が、いまや消えたのだ。むきだしの足にうっかり目がいって、この眺めが発しているところのプロパガンダ〈見捨てられた〉が心に沁みる。以前はアパートの敷居をまたぐだけで、私は自分の人生への疑いを払拭することができた。それもついに終わったようだ。とはいえ、リーザが一時的に去っただけではないかという思いは、捨てきれずにいる。強制的に、私に〈足元をちゃんと〉させるためにだ。〈足元をちゃんと〉は、私が経済的にこの世にしっかりと根を下ろしていないことの、リーザ流の表現である。むろん私もそのことは悩ましく思っている――日に日に稀にではあるが。そういうややこしい問題を、もはや直視する元気がないのだ。つまり、なにがどう絡みあって何年がかりでこうなったのか、自分でももうわからず、よってその結果(つまりいまの私自身)も認識できずにいる。

だんだんわかってきましたよ。「私」はリーザという恋人に捨てられたわけです。自分の足を見てショックを受けたのは、「もう若くはないのだ」ということだけじゃなく、リーザが出ていった原因の一端、「私」が「足元をちゃんと」させていないということを思い起こさせるからでしょう。
「足元をちゃんと」=経済的な自立、ということのようですが、おそらくそれだけじゃないですね。もっと気質的なもの、生活に対する態度みたいなものも含まれていると思います。たとえば、街をふらついてあれこれ妄想している様は、とても足元がちゃんとしているとは言えません。
でも、「私」にとってみれば、今さらどうしようもない。いつどこからやり直せばいいのかすら、もはやわからなくなっているんですから。ただただそのことに直面しないように目を逸らすだけ。ああ、何だか、身につまされます。もう若くはないのだ!
しかも、このあと、この主人公が、ヒモ同然のとんでもないダメ男だということが、わかってきます。どうも、リーザの貯金で生活していたらしいんですよ。しかも、別れてからもその銀行口座は残されているとか。で、金のない「私」は「リーザの金に対する気おくれを放棄するしかない」とかなんとか思ったりするわけです。なんて言い草だ。ひどいなあ。

父は、十六の歳から死ぬまで働きつづけたことをことのほか誇りにしていた。そりゃあ誇れもするわな。働いていいるうちは、そして働くことによって、自分の抱える葛藤を忘れられる人だったのだから。私といえばその正反対。働いているうちは、そして働くことによってはじめて、心に葛藤が生じるのだ。だからしてやむなく働くのを避けている。

このままあと二、三日連絡を絶ったら、仕事があぶなくなる。だがハーベンダンクと喋る元気などどこから取ってきたらいい? リーザがいたときには、電話も問題ではなかった。リーザは私のことも私の雇い主のことも知りつくしていたから、誰にどんな嘘をつくかなど事前に取り決めるまでもなく、さっさと電話に出て、私を護り、私の気分を護ってくれた。

うわー、ますますダメ。「私」の仕事観は、かなり問題ありです。この手前勝手な理屈はどうでしょう。「やむなく働くのを避けている」なんて、よく言うよ。しかも、仕事をサボる電話もリーザにさせていたんでしょ。どこまで甘ったれてるんだ…。
ということで、語り手である「私」について、ここまででわかってきたことを並べてみましょう。1、もう若くはないということを日々思い知らされている。2、恋人に捨てられたけれど未練たらたらである。3、ろくに仕事をしないで言い訳ばかりしている。うーん、これをひとことで言うとこうなります。

私は床に眼をやり、あっちこっちにたまっている綿ぼこりをじっと眺める。ほこりってのは、なんておかしなくらい知らないうちに増えるのだろう! ふいに、いまの自分の人生を形容するのに、〈綿ぼこり化〉という言葉がぴったりだと思いつく。まるっきり綿ぼこり的に、私もはんぶん透きとおっていて、芯がふにゃふにゃで、見た目従順で、度外れになつきやすく、おまけに口数が少ない。最近、ひとつまた思いついた。私を知るないし私が知る人すべてに、〈沈黙時間表〉を送ろうかしらというもの。その表には、私がいつ喋りたいか、いつ喋りたくないかが、正確に書いてある。

「綿ぼこり化」! この作品は、いちいちこういうキャッチーなフレーズがでてくるのが素晴らしいですね。いつの間にか、この歳までやってきちゃって、よくわからないままふわふわとした塊になっている。そんな「存在許可」のない人生。うーん、確かに「綿ぼこり」です。以前読んだ『バートルビーと仲間たち』の、バートルビーのようでもあります。
そして、この主人公が面白いのは、そこからまたしょうもない妄想に入っていくこと。さもいい思いつきのように言ってますが、「沈黙時間表」って何ですか? 仮にそれを送られたとして、何でこっちがわざわざそんなものに合わせなきゃなんないんですか?

窓辺に寄って往来を見下ろす。見ていると、若い男がひとり、建設会社のオフィスビルの前で歩道の掃除をしていいる。この男は二週間ごとに現れて、あたりに散っている落ち葉を高圧クリーナーでひとしきり前方へ吹きとばし、一箇所に寄せ集める。そして車から青い大きなポリ袋を取ってきて、落ち葉を詰めて運び去る。いかにもきちんと整えておりますといいたげな建設会社のそぶりに、私は向かっ腹が立つ。製図・設計・応力計算に携わっている紳士淑女のみなさまは、非の打ちどころなく清められた歩道に価値を置いていらっしゃるわけだ! 壮麗なオフィスビルの前には、塵ひとつ落ちていてはならんのだ! 葉っぱ一枚落ちているのもがまんならないのだ! 紳士淑女のみなさまは、かつて子どもだったことがないのだろうか、そのときの音と、靴の前にたまっていく落ち葉の眺めのおかげで、がみがみいう母親や、むかつく教師や、おのれの哀しい魂のつぶやきに耐えることができた経験がないのだろうか。紳士淑女のみなさまは一度もわれを忘れたことがなく、それゆえ塵ひとつ落ちていない歩道の熱烈な推奨者になったのだろうか。

綿ぼこりの次は落ち葉です。執拗にくり返される「紳士淑女のみなさま」という言い方にこめられた、皮肉っぽい口ぶりが可笑しい。瑣末なもの、ゴミのようなもの、どうでもいいものを、きれいに掃き清めてしまうということが我慢ならないのは、「私」が綿ぼこりの側にいるからです。
確かに、落ち葉を蹴って歩くうちに足元に落ち葉がたまっていくというのは、なかなか魅力的なイメージです。そして、それは綿ぼこりを眺めながら、恋人が出ていったという事実に耐えている「私」の姿と重なります。
ところが、ここから彼はまた妄想に入っていく。「会社員のための回想術」という講座を開き、子供時代にいかに落ち葉の道を歩くのが魅力的だったかを説く。ゆくゆくはそれがビジネスに成長して、ひと儲けできるんじゃないかとかなんとか。
もちろん、実用的なビジネスの世界で、そんなものが通用するわけがありません。落ち葉は実用的じゃないから魅力的なわけで、それをビジネスにするって発想はちょっとねじれてる。そこらへんが「足元がちゃんと」していない人間らしい妄想なわけです。
ということに、「私」とて気づかないわけではありません。我に返って、「笑い倒されるぜ! 回想術! なにそれ!」と、お得意の一人ツッコミを繰り広げる。

おまえの脳味噌はなんだっていつもいつも、誰も乗ってこないつまんないことを考える? なんだって自分がすごいと思うだけで、誰にも(リーザ以外)話せない――だって誰にも(リーザ以外)理解できないから――ことを明けても暮れても考える?

ああ、またリーザのことを思い出しちゃった…。妄想と現実を行ったり来たりしながら、リーザのもとへと帰ってきてしまう。リーザがいてくれれば、わかってくれたのに…。リーザ、リーザ、リーザ。でも、本当のところはリーザだってわかってくれていたのかどうかあやしいもんだよ、と僕は思ってしまったりするんですけど。


「4」の章は、こんな風にはじまります。

自分にぐったり疲れた私は、きょう分別のあることをせめてひとつはしようと、意を決して床屋に行く。頭がくりひろげる埒もない考えから逃れるすべがないので、きょう二度目の外出をするのだ。だけど、いつもかも気を逸らした人生を送れるわけじゃないぞ、と小声でひとりつぶやく〈消えたい病〉だけじゃなく、おまえはなにか別の情熱を持たなくちゃならんだろうが。といいつつ、自分への毒舌を聞いているのはなかなか心地がいい。その毒舌にふくまれている甘い毒が、罵られている自分をその反対にひっくり返すから。さらに毒舌に隠れている誇張が、自分を同時に無罪放免にする。老いぼれのいかれポンチめ、いや役立たずのあほんだらめ、いやあほんだらの碌でなしめと自分に言って、そのあざけりの優しさに思わず笑ってしまう。

この作品はダメ男の一人語りなわけですから、当然、ツッコミどころがたくさんあります。でも、やっかいなことに、主人公はそのことに自覚的なんですよ。自分でわかってるわけ。だから自分へとツッコミを入れる。そして、その毒舌が自分を安心させてしまうという…。
この感覚は、とてもよくわかる。さっきから、「ダメ男」と書いていますが、一方ですごく身につまされるんですよ。僕も、見ようによっちゃあ孤独な中年男ですからね。街をぶらつきながらぶつぶつつぶやき、年々衰えていく体と偏屈になっていく頭を持てあまし、虫のいい妄想を弄ぶ。綿ぼこりですよ、僕も。
と、自虐的にこういうことを書いてはみるんですが、それだけでなんだか満足しちゃったりするのは、本気で足元をちゃんとさせようとは思っていないからなんでしょうね。そこがダメなんですよ。自分を嘲笑うことで、「無罪放免」にしちゃってるわけ。
このあと、「私」は、床屋でそこの女主人と情事を楽しみます。やることやってんじゃんって感じですが、「楽しむ」って言うとちょっと違うかな。何というか、どこかくたびれてるんですよ。甘ったるい恋愛幻想もなければ、性に溺れるというわけでもなく、髮を切りにいくのと同じような感覚の情事。
床屋を出た「私」は、こんなことを思います。

外に出ると、往来で、首まわりがだぶついたワイシャツを着た男が眼を惹く。サイズの合ったシャツを買う気力がないのですか、と訊いてみたい。そしたら、じつは私もその気力をなくしましてね、と言うことができるだろう。それで私たちはいっしょに飲み屋に入り……いや、そんなことは起こらない。向かいの建物の四階の、開け放した窓のきわに若い男がひとりいて、下の街路にむかってアコーデオンを奏でている。私がふり仰ぐと男はひときわ演奏の音を高め、それで私はちょっといたたまれなくなる。眠っている乳飲み子が、小さな死人よろしく、私のかたわらをベビーカーで運ばれていく。ほとんど人影のない十字路を、六羽ひと組になった燕が飛びすぎる。そういったこまごましたことに逐一、注意しすぎるくらい注意して眼を凝らす。

ああもう、いちいち可笑しい。だぶついたワイシャツ男に勝手に共感したり、これ見よがしなアコーディオン奏者に気まずくなったり、赤ん坊を「死人よろしく」って言ってみたり…。どれも瑣末なことです。瑣末なことだけど、それが「人生の面妖さ」につながっているんでしょう。
「私」は瑣末なことがらに目を凝らしつつ、リーザの不在や経済的な困窮からは目を逸らそうとしているようにも思えます。このアンバランスさが「私」を妄想へと導く。そして、その妄想癖から自分は発狂するんじゃないかと、「私」は怯えます。ひとりツッコミ、ひとり相撲。大丈夫かな、この人。


ということで、今日はここ(P60)まで。非常にトボケたタッチで描かれていますが、なんだか他人事じゃない気がしてきました。僕も、街を歩くとき似たようなことを考えてたりします。嫌だなあ、中年お化け。