『そんな日の雨傘に』ヴィルヘルム・ゲナツィーノ【3】


どんどんいきましょう。まずは「5」の章。
語り手「私」の収入源が、ここへきて明かされます。

七年前から、私は靴の試作品を試し履きする検査員をしている。断言できるが、この仕事は、私がこれまで止めずに続けてこられた人生で唯一のなりわいである。

もう少し具体的に言うと、「ぴかぴかの新しい靴を履いて一日中歩き回」りその感想をレポートするというもの。でも、それって仕事? それなりに必要なことなのかもしれませんが、それがなくったところで世の中は変わらないような、何というか「薄い」仕事。
しかも、それが「唯一のなりわい」っていうのは、どうでしょう? 街を歩き回るだけでしょ。それって、この小説で主人公が最初っからやってることじゃないですか。つまり、この小説自体が街を歩き回る主人公による「人生の面妖さ」に関するレポートとも言えるわけです。「靴の試し履き」程度の、ささやかな小説。

たったいま私の関心は、上衣のポケットでたえまなく生成している毛玉のことのみにある。昨日から今日にかけて、一夜で発狂することはなかった。街路で落ち葉を集めて、リーザの部屋に撒いたけれど。その葉をながながと眺め、とてもうれしかった。部屋に運ぶのは同じ木の葉がいいのか、それともいろんな種類のがいいのかを考える。

毛玉! 綿ぼこりや落ち葉もそうですが、「私」の気持ちはいつもこうしたどうでもいいもの、役に立たないものへと向けられます。いつのまにか大きくなっていく毛玉は確かに面妖かもしれませんが、そのことのみに関心を向ける「私」もなかなか面妖です。
さらにその続きが、笑えます。前章で「私」は、落ち葉を拾い集めてリーザの部屋に撒くことを妄想し、それを実行したら狂気の始まりだと怯えていました。で、「落ち葉の部屋なる思いつきは、計画する分にはいいが実行してはならないことを、私はちゃんとわきまえている」と自分を慰めていたはず。
ところがですよ。撒いちゃってるじゃん! わきまええてないじゃん! まあ、誰にも迷惑かけちゃあいないんですが、どうにも足元がふらいついてます。ちょっと心配。
ところで、「私」はなかなかのダメ男っぷりを発揮していますが、それなりにモテてはきたようですね。だから、街を歩くたびに女友達に出くわすことになる。中でもズザンネという女性とは、何度もばったり出会います。ズザンネ曰く「ぜんぜん会わないか、たてつづけに会うかのどっちかよね」。

聞こえた? とズザンネが外で言う。あたしがしょうもない愚痴を話せる相手は、あなたひとりだけってこと!
ズザンネは立ち止まって、いささか芝居がかって私を見る。私はうなずく。ズザンネとつき合ったら、こんな場面をこれからたびたび経験するようになるのだろう。まだあいかわらずとくに女が欲しいわけじゃないな、とすでに頭をよぎる。というか、そうひと言で今の状況をくくることはできない。もちろん、女は欲しいのだ、だが齢(よわい)四十六になる私は、男の役まわりをしてもう一度恋人を演じるには歳を取りすぎている、それどころかもう消耗している、と感じる。 

「もちろん、女は欲しいのだ」っていうのが可笑しいんですが、結局のところ恋人が欲しいのかどうか、ここでも「私」はフラフラしているっぽいです。こんな状態じゃ、結婚には向かないだろうなあ。どこまでも「足元がちゃんとしていない」ですね、この人。
まあ、気持ちはわからなくもない。もう一度恋愛をするのは、おっくうだというようなことなんでしょう。芝居がかったやりとりにつき合ってうなずいてみせる。それをくり返すには、もう若くはないと。僕もそういうやり取りはあまり得意じゃないし、若くもないわけで、ちょっと身につまされます。あ、「私」の年齢が出てきましたね。46歳。


「6」の章。
「私」は、試し履きの報告書を提出し賃金を受け取るために、雇い主である靴メーカー営業部のハーベンダンクの元を訪ねます。毎回、ひととおり報告を終えたあとハーベンダンクのお喋りにつき合うのが、お決まりになっているようです。もちろん、そんなお喋りを「私」は望んじゃいないんですが。

三週間前、ハーベダンクは休暇の帰途について話すのにほとんど十分費やした。イタリアからドイツまでの全行程のあいだ、頭の中にはガソリンが切れることしかなかったと。だが結局なにごともなく家に着いた。それだけの話だ。私は十分間、彼の机の前で身じろぎもせず、ハーベダンクが、ガソリンは足りたんだよ、きみぃ、想像してくれよ、ガソリンが足りたんだ! と叫んで話を締めくくったときに、さも嬉しそうに笑ったのだ。

確かに、こんな話を10分間も聞くのは煩わしいですね。どーでもいい話すぎて、興味が持てない。「きみぃ、想像してくれよ」って、これもある意味、芝居がかったやり取り、「お約束」ってやつです。そして「私」は、こうしたやり取りに恥ずかしさを覚えるタイプなんですよ。これまた、僕にとっては共感ポイントですね。
ただし、「私」はそれを表明したりはしません。心の中では「それだけの話だ」って見下しながらも、本人の前では「さも嬉しそうに笑った」りする。うーん、嫌なヤツ。ハーベダンクの口調を、小バカにするようにマネてみせるあたりも憎たらしいです。まあ、心の中でのマネですが。
この小説は、語り手である「私」の心のつぶやきをひたすら描いているわけですが、にもかかわらず実際の「私」は無口なんですよ。実は彼が考えていることだって、端から見たらおそらく取るに足らない話なんだと思います。そしておそらく、本人はそのことを自覚している。

私が靴のことを自分の身体の延長のように話すのは、おそらく偶然ではない。存在許可を出していないのに生きざるを得ない私のような人間は、逃避の理由から外をしょっちゅう歩き回っていて、だから靴には大いに重きを置いているのだ。私のいちばんいいところは、靴ですよ――と、言ってもいいのだが頭で思うだけにしておこう。

「言ってもいいのだが頭で思うだけにしておこう」。言わないんだな、やっぱり。恥ずかしいんですよ、自己表明が。ハーベダンクのように、「きみぃ」とはしゃいでみせることができない。これはやっぱり、バートルビーの仲間と言ってもいいんじゃないかな。
「私」はまずもって「歩く人」なんですよ。足元がちゃんとしていない「私」は、自分の居場所がないという事実をから目をそらすため、ふらふらと歩き回り瑣末なことに目を向ける。その都度いろんなことを考えているんですが、それを口に出して定着させることはしない。もしかするとそれは、自分を表明する確固たる足場がないということかもしれません。
そんな「私」ですが、そのささやかなプライドを打ち砕くような出来事が起こります。まさかまさかの、賃金カット。しかも、靴一足につき200マルクだったのが、50マルクという大減額。まあ僕から見れば、それほどの給料を払う仕事じゃないようにも思いますが、「私」にとっては収入が1/4になるわけで、ほとんど辞職を促されてるようなものです。
でも、ここでも彼は声を荒げたり怒りを露にする変わりに、淡々とその事実を受け止めます。思うことといえば、こんな感じです。

木のベンチに腰を掛けて、隣の薮(ゲシュトリュップ)に眼を凝らす。ただじっとしんぼう強くそこにあるということのほかは何も表現していないその薮が、いたく気に入る。私もこの薮のようでありたい。毎日ここにいて、消えないことによって抵抗し、嘆きもせず、喋りもせず、なにひとつ必要としない、ある意味負け知らずだ。上衣を脱いで、この薮にむかって、高いアーチを描いて放り投げたい気分になる。そうやったら薮のしんぼう強さのおすそわけにあずかるかもしれない。ヤブ(ゲシュトリュップ)という言葉からして、私の胸を打つ。人生という人生のまったき面妖さを表す言葉として、まさに私が長きにわたって求めていたものかもしれない。

今度は「薮」です。また、しょぼくれたアイテムが増えました。ドイツ語がわからないので、「ゲシュトリュップ」という響きがどのくらい面妖なのかはわかりませんが、日本人の感覚からすると喉を鳴らしているような、何とも言いようのない響きです。
一見負けているけど、実は「負け知らず」の薮なんて言ってますが、薮に勝ち負けなんかないんだよ、と誰か教えてあげてほしい。いや、彼とて自問自答の人ですから、そんなことくらいはわかっているんでしょう。上衣を薮に投げ入れて悦に入ったりしたら、それは気が触れている証拠だとも思っています。でも、どうかなあ? 落ち葉の部屋を作っちゃった前例があるじゃないですか。


「7」の章は、ズザンネ主宰の夕食会のシーンから始まります。ちょっとしたパーティみたいな感じで、場所は彼女のアパート。

いまわかった――この部屋は半ばランジェリーショップに、あとの半ばは七〇年代のボンボン容器に似ている。

確かに上手い例えだなあとは思うんですが、こういうところですよ。こういうところが主人公の悪いくせというか、余計な感想なんですよね。軽くバカにしてるというか。まあ、口にしたわけじゃないからいいですけど。
「私」はこの夕食会の客たちとお喋りをする中で、調子に乗ってお得意の妄想を披露してしまいます。

バルクハウゼンさんがおずおずと、どんなお仕事に就いておられるんですの、と私に訊ねる。今夜のような晩でも自分の人生が認可されているわけでないことを思いだして、私の気分はちょっと損なわれるが、嫌な気分を抑え、いくらか酔いも手伝って、勢いにまかせて回想術と体験術の研究所を主宰しています、と答える。
まあ! バルクハウゼンさんが声をあげる、面白いですね!
私はバルクハウゼンさんのグラスにまたなみなみとワインを注ぐ。自分の冗談を後悔したが、彼女はもうつぎの質問を発して、その研究所はどういう人をお客さんにしているんですかと訊ねる。
私どもの所にいらっしゃるのは、と私はためらい気味に、かつ物慣れたふうに答える、自分の人生が、長い長い雨の一日のようで、自分の身体が、そんな日の雨傘のようにしか感じられなくなった人たちですね。

「回想術」って、例の落ち葉の魅力を思い出させるとか言ってたヤツでしょ。妄想の研究所の妄想の仕事。こういうことをポロッとこぼしちゃうあたりの脇の甘さは、ダメだなあと思う半面、好感が持てます。冗談のつもりが真面目に掘り下げられちゃって、取り返しがつかなくなる。そのマヌケさが愛らしいです。
あと、ここでこの小説のタイトルになったフレーズが登場しましたね。「長い長い雨の一日」のような人生とは、「私」自身の人生のことでもあるのでしょう。とてつもない不幸があるわけじゃないんです。ただ雨降り程度のこと。そこに掴まれます。恋も仕事も定まらず、新たに何かを始めるほど若くもない。綿ぼこりであり、薮であり、そして「そんな日の雨傘」のような生。いつしか、濡れっぱなしであることに慣れてしまうような生。
この夕食会のあと、さほど大きな展開があるわけじゃないので、この辺でストーリーを追うのはやめておきましょう。その代わりに、面白かった場面を引用してツッコミを入れていこうと思います。

政治家がインタビューを受けている。いつものごとく政治家のまわりをもったいつけたふうの人物が二、三取り巻いて、深刻ぶった顔でカメラをのぞきこんでいる。背景のこういう人物になることぐらいなら、できるかもしれない。政治家がテレビに出るときに私が駆けつけて、背景をつとめる、顔つきは申し分なく深刻だから、案件を強調するにはうってつけだ。仕事がじゃんじゃんきて、金もどかどか儲かるだろう。テレビのバックグラウンドマン、これが夢の職業でもいいぞ。こんどこそ黙ったままでよくて、しかも金を稼げるというわけ。

またしても、妄想の仕事。「バックグラウンドマン」なんて勝手に名づけちゃってますが、そんな仕事はありません。そもそもの発想が、何をしたいかじゃなくて、「何なら自分にもできるのか」なんですよ。バートルビー的に言えば「せずにすめばありがたいのですが」。

若者は自分の若さを五つの点において表すことを強いられている。(1)そわそわと体を動かすことで、(2)手にする品物(コーラ、ポップコーン、漫画、CD)で、(3)服装で、(4)耳に詰め物をし首にワイヤをぶらさげることで表現される音楽で、(5)スラングで。

これも可笑しい。音楽は内容じゃなくってヘッドホンによって表現されているんですね。思いっきり偏見のような気もしますが、若者は若者であることを主張するというのは、この小説冒頭のポスターに唾を吐く若者の姿を思い出します。自己表明に恥ずかしさを覚える「私」は、そうしたものが苛立たしいんでしょう。

ありがたい、ロザリアはまだあった! コート掛けがあいかわらずひとつしかなく、しかも小さいことも変わらない。ということは、ほとんどの客は上衣やコートや手提げやバッグを自分の席のそばに丸めるか積むかして置くしかないということ。この面妖な、たいがい黒っぽい丸まった塊は、なにかに包まれた小さな生き物のように見え、一瞬ここが動物のためのカフェなのかと思わせる。

「ロザリア」は「私」がかつて通っていたカフェの名前。丸めたコートもまた、綿ぼこりや落ち葉や薮の仲間でしょうね。それが「小さな生き物のように見え」るというのが、いいです。ありきたりなカフェが、面妖なものに見えてくる。それにしても、どこまで面妖探しをすれば気が済むんでしょうか?


とういうことで、今日はここ(P124)まで。僕も街へ出て面妖探しがしたくなってきました。というか、わりとしがちなんですけどね。
では、次回はラストまで一気にいっちゃうつもりです。