『そんな日の雨傘に』ヴィルヘルム・ゲナツィーノ【4】


残り「8」〜「11」の章を、読み終えました。ああ、こうやって終わるのか…。これまでの展開から、格別ドラマチックなことは起きないとは思っていましたが、いい塩梅のところを突いてきますね。


では、だだっといきます。
仕事や恋愛において「足元がちゃんとしていない」主人公ですが、「8」の章では仕事において、「9」の章では恋愛において、ちょっとばかし展開があります。どちらも悪くない話なんですよ。でも、語り手である「私」の性格は一朝一夕に変わるわけもなく、仕事の話のあとにはこんなことを考えたりします。

痛みは片付けることができるが、憂鬱のほうは手強い。私の前を跳ね飛びながら、しきりにちょっかいをかけてくる。憂鬱をうまく笑い飛ばしたくて、ゲルトルートという名前をつける。ゲルトルート・憂鬱よ、あっちへ行っておくれ。相手はたちまち自己紹介する――こんにちは、わたし、ゲルトルート・憂鬱です。ちょっとご気分を引き下げたいんですけど、よろしいかしら?

何やってるんでしょうか? ほとんど一人芝居。相変わらずの脳内遊び。陰気な妄想癖。「痛み」より「憂鬱」のほうが手強いってのは、よくわかる。その場を耐えて終わる、っていうもんじゃないですからね。でも、名前をつけたら憂鬱を笑い飛ばせる、っていう発想がよくわからないし、それにどっからきたのよ、ゲルトルートって名前は?
もしくは、デートの前の一人語り。

問題は、レストランをほとんど知らないことだ。感じのいいレストランも感じの悪いレストランも、高いレストランも安いレストランも、ドイツ料理のレストランも他国料理のレストランも、どれも知らない。リーザとの歳月、レストランに行くのは私たちの習慣ではなかった。それが今は、雰囲気がよく、味がよく、かつまた値段の高すぎないレストランを探さなければならない/探させられている。

もうちょっと浮かれてもいいのに。いや、わかりますよ。僕だってレストランをほとんど知らない男ですから。でも「探さなければならない/探させられている」なんて言われると、「嫌々なのか?」って気がしてくるじゃないですか。要するに、「私」はどこまでも「私」であるということです。
ところで、タイトルに反してこの小説に雨のシーンはほとんどないんですが、「10」の章はついに雨が降ります。それも土砂降り。ここで、ちょっと面白いことが起きます。詳しくは書きませんが、なかなかいいシーンです。これはある意味存在許可を出されたってことなんじゃないかな?
にもかかわらず、「私」はやっぱり「私」です。

ふいに淋しくなった岸辺が、私の心を奪う。とりわけ心を惹かれるのは、一本の樹の幹に結びつけられて、濁流をゆっくり上下している木の小舟だ。半分水に浸かっていて、もうしっかりと浮くことができないが、沈みもしない。私の気持ちもこのとおりだ、とたちまち思い、自分の人生を船にたとえたことが噴飯物に思えてくる。まったく、見るものに意味をつけないではいられないこの衝動は、私自身どれだけ気にさわっていることだろう。

確かに船は船であって、「私」ではありません。でもそうは言っても、「しっかりと浮くことができないが、沈みもしない」とは、「私」の姿そのものです。自殺や発狂に怯えながら、そのことを考えずにはいられない。そして、そこから目を逸らすために歩き回る。止まったら沈んでしまうから、常に何かを見つけそこに意味を見出している。
そして、最終章「11」は夏祭りのシーンです。目に映るものすべてが、「私」に何かを考えさせる。そして、例によってふと目に留めたあるものから、世の中に対する強張りがほぐれていく。それが何かは読んでのお楽しみ。語り手に大きな変化があるわけではありませんが、このラストシーンはちょっといいです。
どこにも居場所がない。存在許可のない人生。何にもコミットできない「消えたい病」。それでも宙ぶらりんの場所に留まること。そのためのヒントを、「私」は得るのです。いや、最初からわかっていたのかもしれません。だってそれは、現状維持ってことですから。

きのうの夏祭りは影も形もない。レーザーショーも、〈ウェーブス〉のステージも、オープンエアー・シネマも、拡声器も、屋台も、あとかたもない。

祭は終わった。「私」は46歳、もうすぐ47歳になろうとしています。新たに大きな一歩を踏み出すわけもなく、相変わらずブツブツ言いながら街を歩いていくんでしょう。でもね、ちょっとだけ生きやすくなったんじゃないか、そんなことを感じさせるラスト。
がんばれ「私」。そしてがんばれ私。


ということで、『そんな日の雨傘に』読了です。