『そんな日の雨傘に』ヴィルヘルム・ゲナツィーノ【5】


いやあ、よかった。ガツンとくるタイプの小説ではありませんが、僕の気分にぴったりハマりました。目にしたものからあれこれ思いをめぐらさせていくという点では、ニコルソン・ベイカーの『中二階』という小説と、ちょっと似ています。あれも好きだったけど、感覚としてはこの『そんな日の雨傘に』のほうがピンとくるかな。主人公が目に留めるもののいちいちが、よくわかる。ああ、俺もそーゆーの気になるんだよなあと。
主人公に比べれば、仕事に関しては僕のほうが真面目だし、恋愛に関しては彼のほうがモテている。でも、その寄る辺なさというか、ふらふらしてる感じはとても身近に思えます。身につまされるというか、パラレルワールドの自分を見ているようでした。
ライターの吉田豪によれば「サブカルは40過ぎると鬱になる」そうですが、これは「足元がちゃんと」していないっていうことと、深く関わっているように思います。拠り所がないまま後戻りの効かないところまできちゃったという感覚。

私どもの所にいらっしゃるのは、と私はためらい気味に、かつ物慣れたふうに答える、自分の人生が、長い長い雨の一日のようで、自分の身体が、そんな日の雨傘のようにしか感じられなくなった人たちですね。

深刻な不幸ではなく、取るに足らない自分の取るに足らない憂鬱。「そんな日の雨傘」程度の人生。この小説の主人公がサブカルかどうかはわかりませんが、そのどんよりとした気持ちは「40過ぎると鬱になる」にとても近い気がします。
主人公は、恋人に捨てられろくな仕事もしていない46歳。自分が発狂と自死の瀬戸際にいると感じています。にもかかわらず、この小説は重たくならない。実際、この中年男のつぶやきは、役に立たない妄想や妙なこだわりやイヤミな罵倒や出口のない自問自答というか一人ツッコミに溢れていて、とても可笑しいです。
なんというか、憂鬱に溺れないんですよ。どこにも居場所がないという憂鬱。憂鬱に溺れるということは、そんな憂鬱に居場所を見出すということです。でも、自己相対化が習い性になっちゃった主人公には、その欺瞞が恥ずかしいんでしょう。
居場所がないということから目を逸らすため、主人公は街をぶらつきます。彼の対処法は、「人生の面妖さ」を探すこと。目に映る様々なものが、どうにもならない人生のある不可思議な断片を表しているように思えてくる。居場所のないものたちが、ざわめいている世界。
こうした「人生の面妖さ」のスケッチが、この小説の最大の魅力になっています。主人公の目は、取るに足らない瑣末なものごとや、生産性から外れた子供や老人や不具者、誰も目を留めないような薄汚れたものなどに向けられます。そう、細部にこそ世界は息づいている。
でも、そうやって街をふらふらしている限りは、いつまでたっても「足元がちゃんと」しないんです。結局、「居場所がない」のは、そこに居ようとしていないからです。一箇所に留まらない限り居場所は獲得できないんですよ。かくして、主人公は憂鬱から逃れるために歩いているにもかかわらず、そのことが薄く降り積もる憂鬱から逃れ難くしている。
僕が共感するのはそこです。この主人公ほど思いつめたりはしませんが、それでもぼんやりした憂鬱に襲われることはある。でも、憂鬱から逃れようとしてへらへらやってる限り、憂鬱から逃れられない。じゃあ、どうしたら…?
逃れようとするからいけないのかもしれません。そうじゃなくって、折り合いをつけることはできないんでしょうか? 例えば、半分だけ世界に属することで、バランスを取ることはできるんじゃないか? 雨が降る日もあれば晴れの日もある、そのくらいの折り合いをつけることはできるんじゃないか?
はっきりした結論は出ませんが、この小説のラストを僕はそんな風に読んで、ちょっと気持ちが軽くなりました。まだまだ雨の日はあるだろうけどね。


ということで、『そんな日の雨傘に』はおしまいです。