『文豪怪談傑作選 室生犀星集 童子』室生犀星【1】


室生犀星集 童子―文豪怪談傑作選 (ちくま文庫)

夏だし、怖い話でも読みたいなあと思っていたら、更新しないでいるうちにいつの間にかお盆も過ぎもう9月。せめて残暑が厳しいうちに読み始めよう。
ということで、今回は、これ。
『文豪怪談傑作選 室生犀星集 童子室生犀星 東雅夫・編
です。
ちくま文庫のアンソロジーはどれも素晴らしいんですが、この「文豪怪談傑作選」も好シリーズ。他のラインナップには、吉屋信子小川未明柳田國男幸田露伴などがあって、どれも面白そうです。
何と言っても「怪談」ってのがいいですね。ホラーじゃないんですよ。昔ながらの「怪談」。僕はこの手の、明治〜大正時代あたりの怪談に一時期ハマってたことがあって、ちょっと思い出すだけでも、泉鏡花内田百けん(漢字が表示できないんですが、門がまえに月です)、岡本綺堂などなど怪談の名手の名前が浮かびます。
で、室生犀星です。森茉莉のエッセイに登場するなど、名前は何となく知っていたものの、これまでノーマークでした。なので、今回が初犀星。一応、傑作選ということになっているので、犀星怪談の雰囲気は掴めるんじゃないかと思います。
収録作品は14編。4つのパートに分かれています。最初のパートは「童話」「童子」「後の日の童子」「みずうみ」の4編。今回は、そのうち最初の2編を。
では、いきましょう。


「童話」
ずいぶんとざっくりしたタイトルですが、最初のお話です。まずは冒頭。

「お姉さま、――」
小さい弟は何時(いつ)の間にか川べりの石段の上に腰をかけ、目高(めだか)をすくっている姉に声をかけた。
「お前、いつの間に来たの、こちらへ来ると危ないわよ、わたしすぐ足をふいて行くから。」
姉は慌てて今まで流れにひたしていた足をふいて、拭いていながらも自分と同じい顔をしている弟を見て、そして四辺(あたり)に誰もいないのを見定めると、石の段々をあがった。道路から二段目のほかほかした日あたりに、足を鞦韆(ぶらんこ)のように下げている弟のそばへ行き、そして肩の上に手を置いた。
「沢山捕れたの。」
「いいえ、ひとりだから駄目よ。二人だと手拭を両方から持って居れば沢山捕れるんだけれど……お前よく来られたわね。」
小さい弟は微笑(わら)っただけで別にそれについては返辞をしなかった。顔いろの悪いのはこの前会ったときと同じかった。
「みんなお達者、――」
「ええ、みんな……。」

ああ、いいですねえ。第一声が「お姉さま」ですからね。これだけでもう掴まれます。「みんなお達者?」なんて言い回しも、男の子のセリフだとは思えない。これは大正時代の作品ですが、当時の子供はみんなこんな風に喋ってたんでしょうか? それとも「童話」だからこんなに柔らかな言葉づかいをしてるんでしょうか? わかりませんが、どちらにせよ僕の日常からはかけ離れた言葉づかいで、そこに引き込まれます。
それにしても、女の子がひとりでめだかを捕っているというのは、ちょっと引っかかる光景ですね。だって、女の子遊びじゃないでしょ。おそらく、かつては弟と二人でめだかを捕っていたのでしょう。でも弟は、今では家族と離れて暮らしているようです。二人が座る石段の二段目は、かつての姉弟のお決まりの場所だったのかもしれません。
姉は大人びた口調の弟に、「お前のようなふうになると、考えることがそんなに大人じみてくるのか知ら?」と言います。「お前のようなふう」って何? この時点では、他所の家にもらわれていったというような解釈も可能ですけど、そうじゃありません。
次の章では、母親の目線から物語が語られます。そこでじわじわとわかってくるんですが、この弟はどうやら亡くなっているようです。にもかかわらず、姉に会いにやってくる。姉もどこかそれを待っているフシがある。
そう考えると、冒頭の「みんなお達者」という問いかけは、何とも切ないですね。姉には会いに来るけど、両親にはまだ会っていないわけです。外から眺めるだけ。弟は外から見た我が家について、こんな風に語ります。

「このごろ晩は行燈(あんどん)を玄関にともしていらっしゃるのね、通りからそれがよく見えるの。」
「ええ、電燈ががないものだから、それに行燈というものは妙にさびしい心もちになるものね。」
「けれども僕好き、――」
「妙なものが好きなんだね。わたし何(な)んだか白っぽくぼんやり点(とも)れているのが寂しくてしかたがないの。お前の好きなわけがわかるんだけれど……。」
弟は毟(むし)られたような淋しい顔をした。そして、ほら向こう川岸の崖のところから、川をへだててその行燈のあかりだけが何時もよく見える………と言った。姉は崖の方をながめた。石白く茫々たる磧(かわら)の草も末枯れて茜色に染まり、穂のあるものはとくに穂を吹かれてしまった蕭殺(しょうさつ)たる景色であった。冬が起き上がったような物憂い寒々とした腰つきが、川原一杯に感じられた。

うわーくる。くるなあ、この夕暮れ感。今のように街が明るくなかった時代です。冬が近づく川原、あたりは徐々に夕闇に包まれていく。ひたひたと押し寄せてくる寄る辺なさ。
「たそがれ」という語は、「彼は誰そ」と問うところからきていると聞いたことがあります。この作品に立ちこめているのは、昼でも夜でもなく、輪郭がよくわからないような夕闇の気配です。その中にぼんやりと行燈の明かりが灯るのです。それは頼りない明かりだけれども、弟にとっては「家族」の存在を示す明かりなわけで。
「毟られたような」顔ってのが、たまらないですね。何とも言えない傷ついた表情。「さびしい」という語が、「寂しい」「淋しい」と平仮名も含め三種類で表記されているところも気になります。グレーの濃淡のようなこの表記の揺れもまた、薄闇に包まれた世界にふさわしく思えます。
このように、犀星の筆致はとてもデリケートです。弟はこの世のものではありませんが、「幽霊」とか「死者」といった言葉は使われていません。あくまで、「弟」として表記されます。もしくは、「お前のようなふうになると」といった、もって回った言い方だったり。もう会えないと思っていた相手が現われたんだから、やっぱり、当時の呼び名で語りかけるんですよ。そして、死をなかったことのように扱う。ちょっと遠くへ行ってるだけだという具合に。
それは人影が溶け出すような夕暮れ、薄ぼんやりとした行燈の明かり、すべての境界が曖昧になるそんな時間だからこそ、弟は彼岸と此岸を行き来することができるのかもしれません。でも、それはほんのわずかな時間でしかない。なかったことにしようとしても、やはり生者と死者には決定的な溝があります。かつてのようには、共に暮らすことはできない。そのことが、しんしんとさびしいのです。


童子
「母親に脚気(かっけ)があるので母乳はいっさい飲まさぬことにした」と始まります。語り手は、体の弱い赤子を育てる若い父親。彼は、脚気症の母乳は赤ん坊の脳によくない影響を及ぼすため、妻以外の女性の母乳を赤ん坊に与えることにします。この辺の医学的根拠は現代ではどう捉えられているのかわかりませんが、ともかく母親は自分の子供に乳を与えることはできない。もちろん、粉ミルクなんてなかった時代です。他所の女性に母乳を分けてもらいに行くか、乳母を雇うかのどちらかです。
この設定だけで、僕はちょっと憂鬱な気分になる。この作品には、どこか母性恐怖の匂いがあって、出産とか育児にまつわる生々しさが、梅雨の湿気のようにたちこめています。例えば、乳房が張ってきた妻が陶器に母乳を搾り、それを庭に捨てるシーンがあります。この生々しいのに不毛な感じ。何かいやーな気分にさせられます。
そもそも、子供を授かる前のこんな回想シーンからして不気味です。

それゆえ私は或晩、ふと女に曾つて言い出したこともない子供のことを言い出した。
「お前さえ生む気なら、子供はいつだって出来そうな気がする。」
「どうして?」
女は今までにも出来なかったものが、急にできるものではないと言い出した。私は女に、私の秘かにしていたことを、まじめに話し出した。
(中略)
「そんなこと、嘘でしょう。」
しばらくすると、女は央(なか)ば真顔になり、きみわるそうに微笑(わら)いをふくんで、わたしの目を覗き込んだ。
「全く真統(ほんとう)のことなんだ、嘘だと思っていてもよい。そのうちにできるようになるから。」
「ほんとう?」
女は腹の上へ手をあててみたが、きゅうに立って次の間へ行って泣き出した。そんな恐ろしいことをひとりで遣っている人とは思わなんだと云い、朝まで泣き歇まなんだ。わたしは困難なときに子供なぞできなかったこと、そして子供が心からほしいと思ったときに、生まれてくるものだと信じていたから、女の泣き歇むのを待つだけだった。
が、ふしぎに女は元気になったようなところが、それからあとに現われた。
「まだか知(し)ら。」
女は木の実でも埋めたのを覗き込むように、自分のからだに深い注意を仕出(しだ)した。

「私の秘かにしていたこと」とは何でしょうか? はっきり書かれないのでわかりませんが、精力剤とか排卵剤みたいなこと? この曖昧な感じが、なんともいやですね。それとも、僕がわかってないだけかなあ? 当時の人は、「不妊に効くものといえばこれだ」と、ピンときたんでしょうか。
さらに得体が知れないのは「そんな恐ろしいことを」と言っていた妻が、「まだか知ら」と態度を変えてしまうこと。これ、妻が見知らぬ他人になったような不気味さを感じさせます。「木の実でも埋めたのを」という表現も、異物感があっていやですね。妻と胎内の子供の関係に、父親は入っていくことができない。
そして子供が生まれれば生まれたで、乳幼児のか弱さがいつ終わるとも知れない不安をかもし出します。「子供とは死にやすい。もろい花のように思っていた」とあるように、水をなみなみと張ったたらいを持って歩いているような、不安定な危うい気分がつきまとうんですよ。
母乳を受け取りに遠くの街まで行くシーンも、なかなかに読ませます。

私はかっとし、夕方、瓶をさげ、八幡さまの垂れた緑の重い枝の下をぬけ、藍染川の上手の、二年ばかり前まで黍(きび)の葉の流れていた下田端へでたが、泥濘(ぬか)った水溜りに敷き込んだ炭俵の上を踏むと、ずぶりと足の甲へまで泥水が浸った。それを抜こうとするため、ちからが余りひょろついて、危(あ)ぶなく倒れようとした。ハネ泥で裾まわりが濡れ気もちが悪かった。
土間の湿(し)けた格子内の、三尺式台の上に、瓶が出て居り、白いものが這入っていた。あけられた障子うちに、すぐ床をしき、奥さんらしい人がねそべり、よく働いたらしい膏(あぶら)のぬけた蹠(あしうら)がこちらへ向いて見えた。見当をつけ此処(ここ)の家だなと思った。

どうにもカラッとしませんね。舗装された道なんてなかった時代なのでしょう。梅雨の時期は道がぬかるんで、泥だらけになる。足がぬかるみへはまるときの、不快感が伝わってきます。このままずぶずぶと不幸のほうへと足を取られていきそうな、いやな感じ。
それでも母乳を手に入れられれば問題ないんですが、相手の女性の気怠そうな態度が、目的達成の安堵感を帳消しにしてしまいます。この女性は、寝そべったまま主人公に応対するんですよ。いやだなあ。客が来てるんだからちょっとは起きて出てきてよ! 白い足の裏が、この女性の取りつく島のなさを感じさせます。主人公からすれば、彼女もまた遥かな他者なのです。
ここで「白いものが這入っていた」と書くあたりが、犀星のデリケートなところですね。文脈から言えばこれは母乳のはずですが、それが得体の知れないものに思えてくる。本当にこれを赤ん坊に飲ませちゃっていいのか、という気になってくる。不安、不穏、不吉。
似たような場面をもう一つ。

道路の曲り角に、床屋の白服をきた若者が、黒いものを棒のさきで衝ッつきながら、折柄(おりから)正面から来た駄馬の轍(わだち)に轢(ひ)かそうとした。輪はごっとりと小石を乗り上げ、それを辷ろうとしたときに、若者は小さい黒いものをひょいと棒切れで追った。が、黒い小さい生きものは、そのはずみに二三寸ばかり先(さ)きへ走ったあとへ、輪がひと廻りし、私の俥が通ったのである。鼠はうまく生きのがれ、何となく私はやすらかな心地がした。
「イヤな事をする。」
しばらく白い乾いた道路に震えている影が目を去らずにいて、不愉快だった。

白服と鼠、白い道と黒い影。これは、泥道と母乳のコントラストを思い出させます。ここでも犀星は「黒いもの」という言い方をしている。正体がわかってしまえばそれは鼠なんですが、それを「黒いもの」として認識した瞬間の、はっきり名付けることのできないいやーな感じが、こうした曖昧な表現からにじんでくる。このあたりは、ちょっと内田百けんにも似ていますね。
興味深いのは、白と黒が対比されていながら、黒いものばかりでなく白服を着た若者もまた不快なものとして描かれているところ。瓶に入った母乳が不吉なものに見えたように、この白もまたチリチリと神経に障るような気味の悪さを感じさせます。
最終章に至って、ようやくこの作品は怪談らしくなるんですが、父親の一人称で描かれているため、それは彼の妄想と読むこともできる。ここでも犀星は、読者を曖昧さで包み込みます。
出来事の因果関係が明確じゃないところに、怪異は忍び込みます。もやもやとはっきりしない気分こそ、怪談の醍醐味。何だかいやだなあ、変な感じがするなあ、というアレです。
もちろん、いやな気分だけではありません。「童話」の姉弟のような関係もあるわけです。最後に因果律を明らかにすることを諦める主人公もまた、そんな怪異に慰撫されているかのようにも思えて。


ということで、今日はここ(P97)まで。短編なのに長々と書き過ぎちゃったかも。
スティーヴン・キングのようなショッキングさはありませんが、このぼんやりとした寂しさや不気味さは好きだなあ。