『文豪怪談傑作選 室生犀星集 童子』室生犀星【2】


今回読んだのは、「後の日の童子」「みずうみ」の2編。前回の2編と合わせて、「家族小説」というくくりのようです。


「後の日の童子
これまた、亡くなった子供が家族の元へ帰ってくるというお話。前回の「童話」「童子」とほとんど同じですね。東雅夫の解説によれば、実は室生犀星自身が長男を亡くしているんだとか。そう考えると、このモチーフをくり返し扱っていることも納得がいきます。何度でも呼び寄せたいんですよ、童子を。
この作品を読んでいると、そうした切実さとかどうにもならない痛ましさが、染みとおるように伝わってきます。

「お母様、おさかなはどうして釣るもの。」
童子は、紅い肌をした一疋(ぴき)の魚を箸のさきで、指さし尋ねた。
「河にいるし海にもいるの、針のさきに餌をつけ、おさかなの居そうなところへ垂(さ)げておいて、静かにしているのです。お腹のへったおさかなが来て、フイに食べて針に引ッかかる……。」
「おさかなは痛いでしょうね。」
童子は、母親の顔をみて、痛そうな顔をして「このおさかなもそうして釣れるの。」そう尋ねた。
「多分そうだろうね。」
父親がそばから言った。
「おさかなは人間に食べられることを生きているうちは、あまり考えないらしい、だから悲しくはないのだ。」
「食べられてからも悲しくないの。」
童子は、こういうと食卓の向側にいる父と母とを、かわるがわる眺めた。――父親も母親もすこし青ざめ、しばらく黙り込んでいた。
「おまえはむずかしいことを言いますね。そりゃお魚だって悲しいにちがいはなかろうがね。しかし死んでいるんだからどうだか分からない。」
「死んでいるんだから分からない?」
童子は、おなじことを言って、眼で考えるようにして見せた。父親はそのとき不思議なほど何かに思い当たって顔色を変化(か)えた。その筈である。母親が真青になっていたから――。

考えてみれば、銃でタンターンと撃たれるよりも、口に針を引っかけられるほうが痛い気がします。大人はさほど気にしませんが、子供はそれが気になってしかたがない。そして、そんな素朴な疑問に答えているうちに、この家族は怖いところへ踏み込んでしまう。童子の前で、「死んでいる」は禁句でしょう。「死」をなかったことにしてるからこその、穏やかな団欒なんですから。
死と痛みがセットで語られているせいで、童子の死にもそんな苦痛があったであろうことが偲ばれて、何とも言えない気持ちになります。犀星はこの作品で、直接的な死のシーンは描いていません。でも、死は痛いんじゃないかと想像してしまう。そんな死を体験した子供に、何が言えるでしょう? うーん、切ない。
犀星のこうした繊細なタッチは、父親が近所で童子らしき影を見るシーンからも窺えます。ちなみに「笏」は父親・笏梧郎のこと。

と、すぐ垣根にそうた暗みへ犬の足豆が擦れるような音がして、小さい影があるいて行った。からたちの垣根ばかりだからそのとげにでも手足を引っかけはしないかと思うているうち、小さい影は笏の方へ向いてあるいた。なるべく気づかれないように笏は足音をひくめながら、その子のあとについて、垣根のきわをあるいてゆくうち、いつの間にか自家の前へ出ていた。が、小さい影は、そこにもう無かった。

「犬の足豆」って肉球のことでしょうか? よく知りませんが、「豆」という字から連想させられる小ささが、童子の小ささやその姿の幽かさを思わせます。柔らかな肉豆がとげだらけの垣根に沿って歩いていく。このとげは、お魚を引っかけた針のイメージにもつながります。
ここに「童子」という言葉は出てきませんが、それはこの段階では父親が「小さい影」としか認識していないからですね。でも、心の底でこの影が童子であることを知っている。だから、垣根のとげに手足を引っかけはしないかと、心配しているわけです。こういう微妙な感触を、犀星はぼかしを入れた独特の言葉づかいで見事に描き出します。

「こうしていてもあれがやはり来ているのかも知れない、ただ、目に見えないだけかも知れないのだ。」
「そうね、わたしもそんな気がしますの。」

「あれ」と表現される、姿形のないもの。か弱いもの、ものさびしいもの、幽けきもの、はかないもの、そうした捉えどころのないものたちが、犀星の筆致でぼんやりと立ち現れてくる。「童話」「童子」「後の日の童子」を貫く得も言われぬ雰囲気は、そんなところから来ているのでしょう。得も言われぬ雰囲気、それはもう「あれ」としか言いようがないもので。


「みずうみ」
犀星は「何となく人間の老境にかんじられるものを童話でも小説でも散文でもない姿であらわそうとしたもの」と書いていますが、これは妙な作品でした。決してつまらないということではありません。ただ、何がどうなっているのかよくわからない。
湖のほとりで暮らす父・母・娘の三人家族。何故かその地には彼らしかいません。湖の向こうには桃花村という村があり人々が暮らしているようですが、こちら岸から眺めるだけです。

一(いつ)たい此処はどういうところであろうか、湖と島と、それを隔てた桃花村と、いつも曇色ある日かげとそれにつづいた月明の夜と、そうして交(かわ)る交るに囁(ささや)いていた三つの心と、それより外のものは何一つ見当たらない――かれらがどうして此処(こんな)ところに住んでいるかということ、それが何時(いつ)から始められているかということは、ほとんど朧(おぼろ)げな記憶を過っても、なお夢見ごこちだとしか考えられないのである。――かれらは或る時ふいに別々な三人が寄り集まっているのではないかと考えるときにも、なお眠元朗は女につづいた深い永い過去をもっていることを感じた。――が、どうして此処にかれらの生活が置かれているかということの、その最初が分らなかった。――しかし彼らの生活がこの湖べりに来てから、何も彼もあたらしくされたことは実際であった。

此処はどこなのか? 美しい桃花村とは対称的に、グレーのトーンで覆われた砂浜が広がっている。何故ここにいるのか、そもそもの始まりもわかりません。本人がそう言ってるんだから、読んでる僕にわかるわけがない。本当にこの三人は家族なのか? これは怖い問いですね。そのあたりも実際のところはどうなんでしょう? わけありっぽい過去がうっすらとほのめかされたりもしますが、確かなことはわからない。ああ、わからないづくし。
過去がわからないということは、今がいつなのかもわからないということです。とろとろとした似たような日々が続くだけ。同じような会話をくり返し、目に見えないかすかな倦怠が降り積もっていく。この湖のほとりでは、まるで時間が止まっているかのようです。
実際この作品の描写は、スローモーションの映像を見ているようなもどかしさがあります。そのゆるゆるとした時間の中で、三人の関係がゆっくりと蝕まれていく。ところが、最後の章で急に時間が流れ出すような感覚があります。え? と思ってるうちに、まるで玉手箱を開けたかのように、父親と娘の印象ががらっと変わってしまう。
わけがわからないまま、不気味なような哀しいような感触が残るばかりです。


ということで、今日はここ(P166)まで。
ちなみに、犀星の長男は豹太郎という名前だったそうです。「童子」で子供に「豹」と呼びかけるシーンがあったので、念のため。