『アウステルリッツ』W・G・ゼーバルト【3】


この作品がアウステルリッツについて書かれた手記だと考えた場合、ページのあちこちに挿入された写真は、語り手がそれを補強するためにスクラップしたものと考えることができます。やけに古びた写真があるかと思えば、記念写真風のものやニュース記事から切り抜いたと思しきもの、望遠鏡で撮った天体写真なんかも出てくる。写真だけじゃありません。銅版画や設計図もあったりして、そのバラバラ具合が、いかにもスクラップっぽいんですよ。


ということで、アウステルリッツ自身が語る生い立ちの続き。
あちこちに写真が配されているせいか、写真について言及している箇所が気になってきます。例えば、学生時代に写真を撮ることを覚えたというくだり。

写真のプロセスで私を魅了してやまないのは、感光した紙に、あたかも無から湧き上がってくるかのように現実の影が姿を表す一瞬でした。それはちょうど記憶のようなもので、とアウステルリッツは語った。記憶もまた夜の闇からぽっかりと心に浮かび上がってくるのです、けれど掴もうとするとまたすうっと暗くなってしまう。それもまた、現像液に浸しすぎた印画紙によく似ています。

「記憶」は、この小説のテーマかもしれません。アウステルリッツは、自らの幼少期の記憶を封印してしまっている。そしてそれに目を凝らすのは、まるで闇を見つめるようなものだと。ここで、冒頭の夜行獣館を思い出したりするわけですが、彼はいったい何に囚われているというのでしょうか。
暗室での現像作業を手伝ってくれたのは、ジェラルドという友人。この友人は、歴史教師のヒラリーと並んで、学生時代のアウステルリッツの心に深く残る人物として語られます。アウステルリッツは、彼の実家をたびたび訪れるようになり、ジェラルドの母親や伯父たちと交流を深めていく。その家の名前がいいんですよ。「アンドロメダ荘」。これもまたひとつの小宇宙。
アンドロメダ荘での思い出を語るとき、描写はこれまでとうって変わってカラフルになります。館を取り巻く様々な種類の植物、そこで飼われている様々な種類の鸚鵡、飾られた様々な種類の標本、明かりに群がる様々な種類の蛾…。そうしたものが、次々と列挙されていきます。

われわれの眼に映じるあらゆるものは色褪せていく。もっとも美しい色はつとにこの世から失われてしまったか、もはや人眼に触れぬ海中庭園にしか見つからないだろう。子供の時分、デヴォンシャーやコーンウォールの、白亜岩の岩礁を波が何百万年と洗ってつくった岩の空洞や窪みに、植物とも動物とも鉱物ともつけがたい無限の多様性を見せていた生き物を、自分は吸い寄せられるように眺めたものだった、とアルフォンソは語るのでした。たとえば個虫、珊瑚、磯巾着、海団扇(うちわ)、海鰓(えら)、花虫綱や甲殻類――一日に二度の満ち潮に沈めば長い海藻が周りをひらつき、潮がひけばふたたび陽光と大気にさらされる岩の萼(うてな)の中で、それらの生き物は緑青色、緋色、鶏冠色、硫黄色、漆黒と、まさしく極彩色にきらめいていた。かつては南西の海岸一帯が潮の満ち引きとともに上下するあでやかな裾に縁どられていたというのに、わずか半世紀もたたない今では、人間の収集熱やもろもろのはかりしれない悪影響によって、この絢爛たる美しさは完膚なきまでに破壊されてしまった、と。

ジェラルドの伯父さんアルフォンソが語る「海中庭園」もまた、色彩にあふれています。僕は子供の頃、『海の生き物』っていう図鑑が大好きだったんですが、それをふと思い出しました。海の底の生き物って、奇妙な色や形、不思議な生態の生き物のオンパレードでしょ。それだけで、別世界気分が味わえるというか。
ただ、僕が引っかかるのは、その前に出てくるこの一言。「われわれの眼に映じるあらゆるものは色褪せていく」。これは、ドキリとさせられます。博物学的な見地からの言葉なんですが、これが「記憶」のことを言っているように思えてならない。モノクロの写真のように、色褪せていく記憶…。
というところで、この本に登場する写真に思いを馳せたりするわけです。この本では、すべての写真がモノクロで印刷されています。もちろん、小説の挿絵がモノクロであることは、さほど珍しいことではありません。でも、この小説の写真のどこか古びた感じは、「色褪せていく記憶」そのもののようにも思えてくる。
そうなると、「時間」とはいったい何なんだということになります。アウステルリッツの時間に対する見解は、なかなか面白いです。彼は、時間は「われわれの発明の中でも飛び抜けて人工的なもの」だと言います。そして、そんな時間から切り離されてしまうこともある。アウステルリッツは、死者や病人、そして大きな不幸に見舞われた人は「時の外にある」と言い、そのあとこう続けます。

げんに、とアウステルリッツは語った。私は時計というものを持ったことがありません。振り子時計も目覚まし時計も懐中時計も、ましてや腕時計など論外です。時計というものは、私にとってただもう莫迦らしいものでしかなかった。どこからどこまで嘘としか思えなかった。おそらくそれは、私自身にも判然としない衝動から、私が時間の力に逆らいつづけ、いわゆる時代の出来事に心を閉ざしてきたからなのでしょう。今にして思えば、とアウステルリッツは語った。私は時間が過ぎなければよい、過ぎなければよかった、と願っていたのです、時間を遡って時のはじまる前までいけたらいいのに、すべてがかつてあったとおりならばいいのに、と。もっと正確に言うなら、私はあらゆる刹那が同時に併存してほしいと願っていました、歴史に語られることは真実なんかでなく、出来事はまだ起こっておらず、私たちがそれを考えた瞬間に起こるのであってほしい。もちろんそうなれば、永遠の悲惨と果てのない苦痛という、絶望的な側面も口を開けてしまうのですが。

時計を一切持たないなんてことが可能なのか? って思ってしまうのは、僕が時間に捕らえられているからなんでしょう。時間なしでは、僕らは暮らしていけない。この小説の最初のほうに出てきた駅の時計のように、時間は世界を支配している。
アウステルリッツが若々しい姿を保ち続けているのは、時間の外にいるからかもしれません。でもそれは、あんまり幸せなことではなさそうです。すべてが起こる前までいきたいというのは、何か大きな不幸が彼の身の上に起こった、ということですからね。それが何かはまだ語られませんが。
学生時代に訪れたカントリーハウスで、アウステルリッツはこんな光景を目にします。

その部屋の一切は、百五十年前にはさだめしこうであったに違いないという気配をただよわせていました。重たいスレート盤を嵌めこんだ重厚なマホガニーの代はどっしりとして微動だにしていません。得点表示器、金縁の壁鏡、キューとシャフトのスタンド、あるいは象牙球やチョークやブラシや磨き用クロスなどビリヤードゲームの必需品をおさめた抽き出し付きのキャビネット、いずれもが、かつて触れられたことも、変えられたこともないけしきでした。マントルピースの上にはターナーの《グリニッジ公園からの眺め》から起こした銅版画が掛かり、高机には、かの月面研究者が自分相手にしたゲームの勝敗を流麗な飾り文字で記した記録簿が、ページを開いたままに置かれていました。内側の鎧戸は四六時中閉ざされ、陽の光はついぞ射しこめたことがありません。そのようにほかの部屋からつねに切り離さていたために、とアウステルリッツは語った。一世紀半が過ぎてなお、飾り縁にも白黒の方眼の石の床にも、それ自体がひとつの宇宙をなしているかのような緑の羅紗(らしゃ)にも、うっすらとすら埃の積もることはなかったのでした。それはまるで流れ去ってもはや取り戻しようのない時間が、そこだけ止まってしまったかのような、私たちが後にしてきた歳月が、まだ未来の中に存在しているかのようなたたずまいでした。

まさに「時の外にある」部屋です。こういうじっくりとした描写、いいなあ。部屋を舐めるように眺めていく感じですかね。多様なものがあるべき場所に置かれている、時の止まった小宇宙。
結びの一文もすごくカッコいい。「私たちが後にしてきた歳月が、まだ未来の中に存在しているかのようなたたずまいでした」。これぞ、アウステルリッツが夢見る、「あらゆる刹那が同時に併存」している状態ではないでしょうか。
このページをめくると、見開きでビリヤード台に乗った玉のアップの写真が現われます。これは、ハッとしますね。まるでこのビリヤード玉は、時が止まった惑星のようです。この写真がどんな瞬間を撮ったものかはわかりませんが、写真というのはすべて、死者たちと同じように「時の外にある」にあるんだということに、気づかされます。
さて、アウステルリッツは、ひとしきり友人ジェラルドの思い出を語り終え、彼が後に飛行機事故で亡くなったと話したあと、こう言います。

そしておそらくは、その日が私自身の下降のはじまりなのであり、時ともにしだいに病的になっていく私自身の自己への引き籠もりのはじまりだったのです。

うわ、気になるなあ。というところで、ようやく改行。


ということで、今日はここ(P114)まで。約半分といったところでしょうか。
このあたりまで読んでくると、写真が単なる挿絵ではなく、小説の構造に関わっているんじゃないかという気がしてきますが、さあどうなんでしょう?