『アウステルリッツ』W・G・ゼーバルト【1】


アウステルリッツ
さあそろろ読もうかな。ということで、久々の「読んでる途中で書いてみる」。歯ごたえのある小説をということで、これにしました。
アウステルリッツW・G・ゼーバルト
です。
ゼーバルトは、ドイツ生まれの作家。イギリスで執筆活動をしていたらしいので、イギリス文学ってことになるのかな。まあ、そういう区分けがどこまで意味があるのかは、ちょっとわかりませんが。ちなみに、初めて読む作家です。
パラパラっとページをめくると、あちこちに写真や図が出てくるのが目を引きます。でもそれ以外の部分では、改行なしの文章がびっしり。なかなか企みのありそうな小説じゃないですか。
では、早速、いきましょう。

六〇年代の後半、なかばは研究の目的で、なかばは私自身判然とした理由のつかぬまま、イギリスからベルギーへの旅をくり返したことがある。一日か二日のときもあれば、数週間にわたることもあったが、いつのときも遠いはるかな異国へいざなわれていく心地になったそのベルギー旅行のうち、ある輝くような初夏の一日に私が訪れたのは、それまで名前しか知らなかったアントワープの街であった。

いつ、どこで、どうしたといった、いかにも物語然とした始まりです。あまりに普通で素っ気ないくらい。このあとページをめくると、早速、見開きの上半分を占める横長の4点の写真が現われます。右ページにはリスザルのような獣とフクロウの両目玉のアップが上下に配置され、左ページには同じレイアウトで皺の刻まれた人物二人の両目のアップが置かれている。左上の人物は、ちょっとジャン・コクトーに似てる気もしますが、どこにもキャプションがないのでわかりません。
写真の下には、語り手である「私」がアントワープの街にある夜行獣館なるものを訪れたときの記憶が綴られています。

今くっきりと脳裡に灼きついているのは、一匹の洗い熊の姿だけだ。私はその洗い熊を長いあいだ見つめていた。真剣な面持ちで小さな河のほとりに蹲り、くり返しくり返し一切れの林檎を洗う。そうやって常軌を逸して一心に洗いつづけることで、いわばおのれの意志とは無関係に引きずりこまれた、このまやかしの世界(ファルシュ)から逃げ出せるとでも思っているかのようだった。そのほかの夜行獣については、何匹かがはっとするほど大きな眼をし、射るような眼差しを注いでいたことだけが記憶にとどまっている。その眼差しは限られた画家や哲学者たちの、ひたすらに眼を凝らし、ひたすらに考えることによって、周囲を取り巻く闇を透かし見ようとする眼差しと同じものであった。もうひとつ脳裡をよぎったのは、観客が去って園が閉まったあと、本当の夜がはじまりをつげたときに、この夜行獣館の住民のために電燈は灯されるのだろうか、それならばこのさかしまの小宇宙にも昼が来て、彼らもいくらかなれ心穏やかに眠りにつけるだろうに、ということだった。

これを読んで写真が何を意味しているのか、わかるという仕掛け。要するに、夜行動物と画家や哲学者の眼差しを比較して見せてるわけです。言わば文章の絵解き、挿絵といったところでしょうか。いやいや、そう簡単に決めつけないほうがいいような気もします。写真と文章の関係は、もうちょっとややこしいものかもしれません。そのあたりは、おいおい考えていきましょう。
洗い熊のエピソードは、何かひやりとしたものを感じさせます。可愛らしい行動が、神経症的というか、どこか痛ましいもののように思えてくる。いや、洗い熊だけじゃありません。夜行獣館の動物たちはみな、この「まやかしの世界」から逃れられないということを知っているかのようです。闇に目を凝らす動物たちの眼差しは、そんな世界の謎を解こうとしているかのかもしれません。
昼でも暗い夜行獣館が、夜になると明かりを灯されるというのは、ちょっと面白いですね。まさに、外の世界と切り離された「さかしまの小宇宙」です。動物たちがここから逃れられないのは、檻があるからだけじゃなくて外界とは別の時間を生きているからなんですよ。
さて、タイトルになっている「アウステルリッツ」ですが、次の見開きで、これが人名であることがわかります。場面は、アントワープの駅における、語り手とアウステルリッツとの初対面の様子。駅の待合室でしきりとメモやスケッチをとっている男がいるんですが、その男がアウステルリッツなんですよ。何の前触れもなく、あまりにあっさり登場するので、逆にびっくりです。
アウステルリッツは建築史を研究しているらしく、このアントワープ駅の歴史や様式について滔々と語ります。その話の中に、「ルツェルン駅」という固有名詞が登場するんですが、面白いのは、そこに語り手による注釈が※印付きで挿入されていること。ん? 小説に注釈? 注にはこんなことが書かれています。

※この手記を読み直していて記憶を喚び覚まされたのだが、一九七一年の二月、私はスイスに短期滞在したおりにルツェルンの街も訪れている。氷河博物館を観てから駅へと帰路をとり、湖上(ゼー)橋を渡りかけてしばし足を止めた。そこから駅舎の天蓋と、抜けるような冬の青空に雪をいただいて白くそびえる背後のピラトゥス山を眼にして、四年半前、アントワープ中央駅でアウステルリッツが語ったことを思い起こさずにいられなかったからである。

あ、これ、手記だったのね。正確に言うと、手記という体裁の小説。ということは、あちこちに挿入されている写真は、語り手がスクラップしたものということなのでしょう。ちなみに、この注釈にまでしっかり写真が添えられています。このあたりも、なかなかに周到です。
この小説は、思いのほか複雑な時間構造を持っているのかもしれません。語り手が過去に経験した時間。それを思い出しながら手記を書いた時間。それを読み直した時間。そこからさらに呼び起こされる過去の別な経験の時間。それをもとに注釈と写真を添える時間。いろんな層の時間がレイヤーのように重なっています。
さて、アウステルリッツの語る建築話はまだまだ続きます。彼はかなり知的な人物らしく、その話は単なる蘊蓄に終わらず文明論まで広がっていく。この手の話は、僕は大好きなのでとても興味深く読みました。

時計はアントワープ駅の中心点であり、そこからは全旅行客の動きを見渡すことができ、逆に旅行客はひとりのこらず時計を仰ぎ見て、いやがおうにも時計に合わせた行動をとらざるを得なくなる。(中略)そして十九世紀の半ばに統一時間が導入されてからというもの、時間は疑いもなく世界を仕切っているのです。

もっとも、けた外れに巨大な建造物は、往々にして人間の不安の度をなによりも如実に写しているものなのです。要塞の建設を見るとはっきりとわかります、たとえばアントワープ要塞がうってつけの例ですが、あらゆる外敵の侵攻を防ごうとするならば、自分たちの周りにつぎつぎと防御設備をめぐらしていかざるを得なくなり、その結果、同心円がとめどなく拡大していって、最後に自然の限界に達して終わるまで続くのです。

もういちいち面白い。しかも言い方がカッコいい。「時間は疑いもなく世界を仕切っているのです」「最後に自然の限界に達して終わるまで続くのです」。こんな感じのセリフが次々と出てくるんですよ。くぅーつ、シビれる。
おそらく、語り手である「私」もシビれちゃったんでしょう。アウステルリッツの言葉に刺激を受けて、たまたま近くにあったブレーンドンク要塞を見学に行ったりします。この建物、後にドイツ軍が強制収容所として使用し、現在は歴史的建造物として保護されているとか。そして今度は、この建物をめぐる語り手の思索が延々と繰り広げられます。
この建物を回りながら、語り手の頭の中では、連想が連想を呼び次々と様々な思いが浮かんでは消えていく。これ、改行なしで綴られているせいか、今どこを歩いているのかわからなくなるような、ちょっとした迷宮感があります。カニのような建物の形に始まり、そこに人々がいた痕跡、幼い頃の記憶、書物で読んだアルファベットの「A」ばかりを描く画家のエピソードに至るまで、うねうねと続く思考の迷路。
語り手は、「われわれが記憶しておけるものがいかに僅かであることか」とつぶやきながら、見学時の様子を思い出しつつ手記にしたためている。その複雑な時間構造も、迷宮感の原因のひとつでしょう。見学時の目線で書かれているかと思えば、手記を書いているときの目線になったり。つまり、いつ目線の記述か、ふっとわからなくなるんですよ。
このあとも語り手は、旅の途中で何度もアウステルリッツに遭遇し、会話を楽しみます。劇的な出会いというわけじゃないんです。初対面のときのように、ふっと出くわす感じ。この情景描写が、またいいんですよ。

十一月の午後のしじま、テルヌーゼンのビリヤードカフェでのひとときもそうだった――ぶ厚い眼鏡をかけて萌葱色の靴下を編んでいた女将の姿が、今でも私の眼に浮かぶ。暖炉にまるい炭が燃え、湿ったおが屑が床に散らばり、チコリの苦い匂いがただよっていた――ゴムの木に縁を飾られたパノラマ窓から外を見やると、スヘルデ河の河口が霧に煙ってどこまでも遠く広がっていた。クリスマスが近いころには、黄昏が降りはじめ、人っ子ひとり見あたらないゼーブルッヘの遊歩道をこちらに向かって歩いてくるアウステルリッツに出くわした。じきにふたりとも同じフェリーを予約していたことがわかって、私たちはいっしょにぶらぶらと港までの道を引き返した。左手に北海が渺々と広がり、右手には砂丘に造成された高層のアパート群がそびえて、その窓々にテレビの青白い光が妙にちらちらと不気味に踊っている。フェリーが出る時分には日はとっぷりと暮れていた。私たちは後方のデッキに肩を並べて立った。航跡の白い筋が闇にのまれていき、灯影に雪がちらほらと舞ったのを見たような気がしたことも記憶に残っている。

記憶しておけるものは僅かだと言いながら、この鮮明な記憶。こういう描写は、じっくり味わいたい。まるで映画のシーンのように、情景が目に浮かびます。カメラアイとなった語り手の目線は、まず部屋を舐め、望遠レンズとなって窓から外を眺め、ゆっくりとパンをしながらその先にアウステルリッツの姿を捉えます。そして場面が変わって、外へ。前半の暖かな室内と後半の冷たい外気の対比が素晴らしい。僕が「おっ」と思ったのは、アパートの窓から漏れるテレビの光の描写。夕暮れから夜にかけての雰囲気がありありと伝わってくるでしょ。いいなあ。すごくいい。
そしてこのシーンのあと、ようやく最初の改行があります。


ということで、今日はここ(P31)まで。ストーリーでぐいぐい読ませたり、登場人物に感情移入をさせるタイプの小説ではなさそうですが、不思議と吸引力のある文章です。これ、好きかも。