『マルコヴァルドさんの四季』イタロ・カルヴィーノ


マルコヴァルドさんの四季 (岩波少年文庫)
「読み終えたので書いておく」第4弾。これは、再読本。関口英子さんによる新訳が出たので、そちらで読んでみました。
『マルコヴァルドさんの四季』イタロ・カルヴィーノ
です。
カルヴィーノは僕の大好きなイタリアの作家。もっと言っちゃうと、海外の作家の中で一番好きかも。様々なタイプの小説を書いている人ですが、この『マルコヴァルドさんの四季』は、岩波少年文庫に入っていることからもわかるように、児童文学という体裁になっています。挿絵もたっぷり入っていて、シャレたコミック風のタッチが魅力的。ちなみに、僕が最初に読んだのは、中学生くらいだったと思います。
主人公は、イタリアの都会で暮らすマルコヴァルドさん。彼を狂言回しにした連作集となっていて、それぞれの物語は春→夏→秋→冬の順に並べられ、それが5年分、つまり、春夏秋冬×5=20話のお話が収録されています。
でも、よく考えると、児童文学の主人公がさえないおじさん、っていうのは珍しいんじゃないでしょうか。まあ、あまり子供向けということにはこだわらず、子供にもわかるような言葉づかいで書かれたユニークなお話、というくらいの捉え方のほうがいいのかもしれません。


さて、新訳版では、巻末に「作者による解説」が収められています。これがよくある解説と違って、子供にもわかるような語り口で、この作品集のテーマをさらさらと解きほぐすという、とてもオシャレな文章です。
その解説によると、マルコヴァルドさんは、「そぼくな心の持ち主」で、「子どもがたくさんいる父親」で、「どこかの会社で作業員か力仕事をしている」人物。なんとも輪郭のぼんやりとしたキャラクターです。僕はこの作者の要約から、誰でもありながら誰でもないような人物を思い浮かべます。任意のひとり、僕らの隣人エヌ氏。
さらにカルヴィーノは解説で、この作品集すべてに共通するパターンを、あっさりと明かしてしまいます。

大都会のまんなかで、マルコヴァルドさんは、
1. 身のまわりのできごとや、動物や植物など生きもののかすかな気配に、季節のおとずれを感じとる。
2. 自然のままの姿にもどることを夢見る。
3. 最後には、決まってがっかりさせられる。

つまり、マルコヴァルドさんは、都会の暮らしにどこか居心地の悪さを感じていて、自然への憧れを持った人物なわけです。しかし、自然に帰ろうとすると必ず失敗する。都会人とは、このように、田舎に憧れながら、田舎では暮らせない人を言うのかもしれません。

公園のかたすみの、マロニエの枝がしげり丸天井のようになっているところに、ベンチがひとつ、ぽつんと目立たないようにおかれていました。マルコヴァルドさんはそのベンチがお気に入りで、自分の場所と決めていました。夏の夜、家族みんなでひと部屋に寝ている家ではなかなか寝つけないとき、まるでホームレスの人がりっぱなお屋敷のベッドを夢見るように、マルコヴァルドさんは公園のベンチを夢見るのでした。
(中略)
公園ならば、すずしくて静かなはずです。マルコヴァルドさんは、木でできたベンチの、やわらかく包みこむような寝心地(そうに決まっているという確信がありました)を、早くも味わっていました。家のベッドのぼろぼろのマットレスよりも、あらゆる点でいいにちがいありません。一分ほど星をながめたら、たちまちまぶたが重くなり、一日のうちに起こった腹立たしい出来事をそっくり忘れさせてくれる眠りにおちることでしょう。

「夏 別荘は公園のベンチ」より。
わかる! わかるなあ。野宿ってちょっと憧れるでしょ。夏の暑い夜、外で眠るのはどんだけ気持ちいいだろう。そして、それにうってつけの公園のベンチ! そこを秘かに「自分の場所」と決めているところも、いいですね。ピンポイントのお気に入りの場所。そんなベンチで眠りにつくため、マルコヴァルドさんは夜更けの公園で孤軍奮闘します。
奮闘? というのも、実は快適な睡眠が思うようには得られないんですよ。眠りたいのに、あれこれがんばらなくっちゃいけない。ああ、本末転倒。これがカルヴィーノが言うところの「最後には、決まってがっかりさせられる」です。
自然に憧れるマルコヴァルドさんですが、結局、手に入れられるのは、都会の真ん中の公園、つまり人工的に作られた自然です。とは言うものの、本当の剥き出しの自然の中では、ひ弱な僕らはたぶんやっていけない。いや、やっていけないことはないかもしれませんが、何だかんだ言って都会の暮らしも欲しいんです。

「そうか! 森へ行けばいいのか!」とミケリーノは言いました。「森になら、たきぎがいっぱいあるぞ!」
とはいっても、都会で生まれ育ったミケリーノは、遠くからでさえ、森というものを見たことがありませんでした。
(中略)
街灯のともった町を歩きまわりましたが。どこへ行っても家しかありません。森なんて、影も形もないのです。ごくたまに通行人とすれちがいましたが、森がどこかたずねる勇気はありませんでした。こうして、家並みがとぎれるところまでやってきました。その先は高速道路です。
そのとき、子どもたちは高速道路の両側に森を見つけました。ふしぎな形をした木が何本もかたまって生えていて、むこうにあるはずの平原が見えません。どの木も、幹は細く、まっすぐか、ななめにのびていました。幹のうえに、色も形もものすごくおかしな枝が平らにひろがっていて、車がとおるたびにヘッドライトで照らしだされます。歯みがき粉、人の顔、チーズ、手、かみそり、びん、牛、タイヤなど、じつにさまざまな形をした枝があり、アルファベットの文字のような葉っぱがちりばめられているのです。
「ばんざい!」とミケリーノは言いました。「森に着いたぞ!」

「冬 高速道路ぞいの森」より。マルコヴァルドさんの息子、ミケリーノがたきぎを集めるために森を探すシーン。
ミケリーノが見つけた森とは、高速道路の脇にずらーっと並ぶ、大きな広告板のことです。つまりはやっぱり、人工の自然。意外な展開ですが、わからなくはない。僕も子供の頃、野原の代わりに駐車場やビルの屋上で遊んだりしてました。そう考えると、広告板を森と捉えられなくもない。
この広告板をたきぎにしちゃうあたりに、カルヴィーノの風刺の針が光ります。とは言うものの、通り一遍の文明批判ではなく、森を知らない子供たちのたくましさを感じるんですよ。では、この作品集で都会の暮らしがどのように描写されているのか、見てみましょう。

暑苦しくてなかなか眠れない夏の夜、あけ放した窓からは、いろいろな都会の音が入ってきます。ただし、ほんものの都会の夜の音というのは、一定の時刻をまわり、正体不明の車やバイクの騒音がまばらとなり、ようやく静まるころに聞こえてくるものです。静けさのなかから、距離によって大きさこそ異なるものの、ひかえめな音がくっきりと浮かびあがってきます。夢遊病者の足音や、夜間警備員の自転車がキーキーという音、遠くにぼんやり聞こえる口げんか、上の階からひびいてくるいびき、病人のうめき声、一時間ごとに時を告げる古い柱時計……。やがて夜明けがおとずれ、工場につとめる人々の家で目覚まし時計の大合奏がはじまり、路面を電車が走りだすのです。

夕方の六時、町は消費者のものとなります。昼のあいだじゅう、生産者は物をつくることに専念しています。消費財を生産するのです。そして、決まった時間になると、スイッチが切りかわったかのように生産するのをやめ、よーいドンとばかりに消費をはじめます。毎日、高いところからぶらさげられた赤いサラミや、天井にとどくほどに積まれた磁器のお皿、クジャクの尾のようにひだをよせた生地などが、イルミネーションのかがたくショーウィンドーの内側に、花のつぼみがひらくようにならべられたかと思ったとたん、消費者が群れをなしてなだれこみ、山をくずし、かじりつき、いじくりまわし、とりつくすのです。はてしない列が、歩道やアーケード街からヘビのようにくねくねとつづき、ガラスのドアをとおって店内へのびてゆき、陳列棚という陳列棚をとりかこみます。そして、まるでピストンで次から次へとおし出されるように、おたがいに相手のわき腹をひじでおしあいながら、少しずつ動いてゆくのでした。

それぞれ、「夏 牛とすごした夏休み」「冬 スーパーマーケットへ行ったマルコヴァルドさん」より。
「目覚まし時計の大合奏」とか「相手のわき腹をひじでおしあいながら」というあたりに、ちょっぴりスパイスが利いていますね。みんながいっせいに目覚ましを鳴らし、みんながいっせいにスーパーマーケットへ向かう。都会の生活は、このように滑稽なプログラムで動いているのかもしれません。
しかし、カルヴィーノは、その滑稽さをバカにしたりはしません。そんな都会人たちを切って捨てるのではなく、むしろ愛らしく思ってるんじゃないかな。彼らの日々の営みを、どこかあたたかな共感の目線で見つめている。ちょっと、ジャック・タチの映画を思わせたりもします。こうした都市生活を見つめるカルヴィーノの描写に、僕はとても魅力を感じます。
そんな都市生活のプログラムにも、ときに綻びが生まれます。大雪が降ったり、バカンスで町から人々がいなくなったりすると、町はいつもと違う表情を見せる。そればかりか、以下のお話ではちょっぴり不思議なことが起こったりもします。

土曜の午後と日曜、マルコヴァルドさんは、植木を荷台にくくりつけたモーター付き自転車のサドルにまたがってあちこちまわりながら、空もようをながめ、雨を降らせようと意気ごんでいる雲を見つけると、雨にあたるまで、その方角に走りつづけました。ときどき後ろをふりむいては、まえより少し背ののびた植木をちらりと見ます。最初はタクシーぐらいの背たけだったのが、やがて軽トラックほどになり、とうとう路面電車と変わらない高さになりました。葉っぱの幅もどんどんひろくなり、表面にたまった雨粒が、マルコヴァルドさんのレインコートのフードに、まるでシャワーのように落ちてきます。

橋の下流に、滝のように流れが急になっているところがありました。川の水が滝にさしかかるあたりで、泡はいったん消えてなくなるのですが、滝つぼでふたたび水面にあらわれ、最初よりはるかに大きな泡となり、底のほうからおしあいへしあいしながらどんどんとふくらんでゆきます。せっけんの泡は波のように高くなり、巨大化し、滝の高さを優にこえてしまいました。ひげそり用のブラシで泡立てたように、白い泡がもこもことたっていたのです。ライバル会社の洗剤に負けてたまるかと、洗剤たちがお互いに意地をはって泡立ちのよさを競っているかのようでした。川は、船着き場まで泡だらけ。日の出とともに、長ぐつをはいて川べりに来ていたつり人たちは、つり糸を巻いて退散しました。

「秋 雨と葉っぱ」「春 けむりと風とシャボンの泡」より。
これのお話では、予想外の出来事が、ファンタスティックな光景へとなだらかにつながっていきます。雨を浴びみるみる大きくなっていく鉢植え、川を埋め尽くす洗剤のあぶく。それぞれ秋の雨・春の川という自然を描きながら、鉢植えや洗剤という文明社会ならではのアイテムが効いているところがミソです。つまり、都会だからこそ起きたファンタジーなのです。
プログラムにないことが起きるというのは、都市側からすれば困った事態です。でも、そのせいで街はちょっとしたお祭りのようになる。これは、うんざりしながらも都会で暮らしているマルコヴァルドさんのような人への、プレゼントです。心が踊るじゃないですか。それがたとええ、シャボンの泡のように、ほんのわずかな時間で消えてしまうとしても。
この手のパターンで、僕が一番好きだったのは、「冬 まちがった停留所」というお話。霧深い夜、映画を観た帰り、マルコヴァルドさんは路面電車の停留所を間違えて降りてしまい、そこがどこなのかわからないままさまよい歩くという話です。最後にマルコヴァルドさんがどこへたどり着くのかは、読んでのお楽しみにしておきますが、この霧の街の描写が、すごくいいんですよ。日常が、いつの間にか非日常になってしまう。

マルコヴァルドさんは、少し先の、反対側の歩道からもれてくるうす明かりを目当てに歩きはじめました。ところが、じっさいにはかなり遠くにあるようです。そこまで行くには、中央に草むらのある広場をとおりぬけなければなりませんでした。ただひとつ読みとることのできる標識には、自動車は広場の周囲をぐるりとまわって進まなければならないことを意味する矢印が書かれていました。ずいぶんとおそい時間でしたが、まだ営業しているカフェや居酒屋がどこかにあるにちがいありません。なんとか読めるほどまで近づいたイルミネーションに「カフェ」と書かれている……とわかった瞬間、明かりが消えてしまいました。光のもれるガラスがあった場所に、シャッターがおりたかのように、闇のとばりがおりました。どうやらカフェは閉店してしまったようです。しかも、ずいぶん遠くにあることが、光が消えてからはじめてわかったのでした。

ぼーっと光る明かり、ふいに現われる標識…。何しろそこは知らない街で、しかも視界がまったく利かない霧の中です。心細いし、体もくたくたになってしまうでしょう。でも、ある意味、これはささやかな冒険でもあるわけです。映画に出てくるジャングル探検のように、この先に何が待っているのかわからない冒険。
我らが隣人マルコヴァルドさんのように、僕もまた都市生活というものに、アンビヴァレントな想いを抱いています。だから、都会にうんざりしながら、たまには霧の中で迷子になるような冒険をしてみたいなと思ったりするわけです。
都会にも四季はあります。それは、人工的で、ときに僕らを「がっかりさせ」るかもしれません。そのギクシャクとした季節の変化を、「自然がない」と嘆きながらも、マルコヴァルドさんは存分に味わっています。そしてそのことが、決まりきった毎日のプログラムを、少しだけ揺さぶるのです。さんざん嘆いておきながらそりゃあないよと思うかもしれませんが、都会の四季だってそう捨てたもんじゃないんです。


ということで、『マルコヴァルドさんの四季』は、これでおしまい。
再読して改めて思いましたが、児童文学という枠にだけ閉じ込めておくのはもったいない作品ですね。この作品が、やはり我らが隣人パロマー氏を主人公とした『パロマー』につながっていくんでしょうけど、それはまた別のお話。
さてさて、キリがないので「読み終えたので書いておく」は、ひとまずこれにて終了にします。来月からはまた「読んでる途中で〜」に戻ろうと思っていますが、さあ、何を読もうか。