『パンク侍、斬られて候』町田康


パンク侍、斬られて候 (角川文庫)
ホントは読んでる途中で書きたいんですよ。でも、もうちょい続けます。「読み終えたので書いておく」第3弾は、これ。
パンク侍、斬られて候町田康
です。
『告白』以前に書かれた、町田康の長編時代小説。と言っても、町田康ですからね。普通の時代小説になるわけがない。何より、可笑しいのがいいです。ページをめくるたびに笑えるポイントがある。町田康風に言うと、「ああ、おもろ」。


峠の茶屋で休んでいる父娘。この父親が、いきなり牢人に斬られるという出だしは、いかにも時代小説といった感じです。ですが、すぐにおかしな感じになっていく。この最初のシーンでの、牢人・掛十之進のセリフを例に見てみましょう。
はじめ、十之進の口調はこんな感じでした。

「あなたが腹ふり党についてなにも知らぬのは無理からぬところだ。説明いたそう」

おお、時代小説。ところが、しばらくするとこんなことを言い出します。

「それはそうでしょう。この藩に腹ふり党が侵入したのは別に私のせいではないし、それを教えてやったのはまあいわば親切だ。私は最初から知らん顔をしていてそのままいってしまってっもよかった。つまり私がほんの少ししか教えなくてもあなたにとってそれはプラスなのだ。それを、ほんの少ししか教えないと言ってあなたは怒っている。それは親切が少ないと言って怒っているのと同じです」

うわ、面倒臭そうな男だなあ。いやですねえ、慇懃無礼というか、「物分かりの悪いあなたにもわかるように順序立てて話してあげますよ」って感じ。そして、口調はさらに変わります。

「苛々する奴だなあ。泣くなっ、つうの。だいたい俺はさあ、最初はいろいろ教えてやろうと思ってたんだよ。だけどあんたの態度がなんか依存的っていうかさあ、俺の親切はもう既に織り込み済みっていうか、やってもらって当然、っていうその甘えた態度がむかついてやめようと思ったんだよね。そしたらなんだよ。逆ギレして斬りかかってくる。こっちはむざむざ斬られて犬死にするわけにはいかないからやり返したら今度は被害者的に泣くのかよ。まったくどうしようもないね」

「逆ギレ」とか、そこらの兄ちゃんのような口ぶり。つうかさあ、むかつくっつうの、みたいな。かと思うと、しまいにはこんなイヤミったらしい口調になったりもします。

「まあ、そういう事情なら別にいいですよ。僕も無理に仕官したいとか思ってるわけじゃないし。この条件がのめないのであればこの話はなかったことにしましょう。なにも腹ふり党対策で苦しんでいる藩はおたくだけじゃないんだ。まあ僕の素性も怪しいことだし、いいんじゃない? 召し抱えなくても。ね。それで腹ふり党が蔓延して滅亡すればいいじゃない。そしたら、あんたも、ははは、浪々の身の上ってことだよ。まあ牢人しても僕のようなスペシャリストはいくらでも仕官の口はあるけど、あんたなんだっけ? ま、いいや。とにかくこの話はなかったってことで。御免」

一連の会話の中で、「拙者」から「私」へ、さらに「俺」へ「僕」へと、一人称がくるくる変わる。しかも、その口調はまるっきり今風じゃないですか。キャラクターを思い浮かべながら読んでいると、面食らいます。マゲを結ってた人物が、いきなり長髪で茶髪になったような感じ。最後は時代小説らしく「御免」で締めてますが、今さらそんなことをしても、より嘘臭さが増すばかり。
この掛十之進が、おそらくは「パンク侍」ってことになるんでしょうが、ニヒルなヒーローという感じは、まったくありません。何というか、いい加減なんですよ。相手を丸め込み、ごまかし、その場その場で世の中を渡っていくインチキ臭い人物。でもって、超人的剣客だったりもするあたりが、人を食ったご都合主義なんですが、町田康はこういう人物を美化しませんね。十之進は、自分が弱い立場になったかと思うやいなや、言い逃れをし、へいこらするのも辞さない。悪の美学とか、無頼の美学とか、破滅の美学とか、そういった美学や志とは無縁のその場しのぎのキャラクターです。
この美学のなさは、文体にも表われています。時代小説と言えば、「拙者」とか「〜でござる」とか「左様」とか、まあそんな言葉づかいなわけです。ところが先ほどの例でもわかるように、この小説では、そういった時代小説風の言い回しに混じって、現代のいい加減に崩れた口語がじゃかすか出てくる。『告白』でもそうでしたが、このチャンポン具合がとにかく可笑しい。
まあ、時代劇に現代の風俗を取り入れるという手法は、これまでも例がないわけじゃない。しりあがり寿の『真夜中の弥次さん喜多さん』なんかもそうですね。でも、それを文体でやっているところが、興味深いところです。舞台や道具はまったくの時代ものなのに、セリフはとても現代的。町田康は、やっぱり耳の人だなあと。
例えば、こんなセリフはどうでしょう。

「うむむ。なるほど。それで金の出所を調べられたら内藤殿と拙者の雇用関係が露頭するかんしらんな。やむをえぬ。散財は諦めてテレビ時代劇で牢人ものかなんかが入っていって、おやじ、めしと酒だ、かなんか無用に威張って言うような腰かけの飯屋に行こう。破れ提灯がさがったような。表は腰高障子でそこに、めし、と書いてあるような店。っていうのは、あれ前から疑問だったんだけど、おやじ、めしと酒だ。といってなにが出てくるのだろうか。飯というのは食事という意味で適宜お新香やぶた汁などもついているのだろうか。それにしては、ここにおくぞ、かなんか言って、ぴしゃって銭おいてるけど五文とか六文とかいっても十文くらいしかおいていない気がするんだよね。いま、ここいらでそんくらいくったらまあぶた汁は十五文、お新香はそうだなあ店にもよるけど、ま十文かそれくらいは絶対するでしょ。ライスが五文だとして酒は二十文するでしょ。じゃあそれだけでもいくらだ? 五十文でしょ。いっやー、そんなしない感じするんだよなー」

最初こそ時代小説風の口ぶりですが、現代風のずるずるとした口調につられて、話がどうでもいいほうに脱線していきます。随所に出てくるこういう脱線が面白いんですが、それもこの語り口があってのこと。最後には「ライス」ですからね。「めし」じゃなかったの?
しかも、その内容は、「テレビ時代劇」について。ねじくれてます。登場人物がテレビを見るシーンなんかひとつもないのに、セリフの中では、時空を飛び越えちゃう。十之進は、時代劇のカツラをつけながら、内心では、本気で侍なんかやるわけないじゃんって思っているんじゃないかと、心配になります。
時代劇の侍なんて、美学の塊じゃないですか。武士道なんて言っちゃって、その美学のために死んだりもする。もちろん、十之進にはそんな気配はみじんも感じられません。なんせ、いい加減ですからね。カツラを取ったら、自堕落なパンクということでしょうか。
いや、侍の美学からほど遠いのは、十之進だけではありません。この小説には様々な人物が登場するんですが、誰一人として武士道なんてことを考えちゃあいない。武士といっても、組織の一員。サラリーマンであり、役人なわけです。ですから、出てくるのはサラリーマン根性、役人根性が染みついた俗物ばかりです。
こうした俗物っぷりを、町田康は得意のぐだぐだした口語を駆使して、これでもかというくらい描き出します。使えない部下について延々「四百字詰め原稿用紙四枚分」も喋る家老や、わけがわからなくなって「ザ・ハーダー・ゼイ・カム」の替え歌を歌い出す侍や、甘えと言い訳が混じり合ったようなうっとおしい報告書を書く密偵や、頼みごとをするときも上目線でしか話せない用心などなど、イライラさせられる口調のオンパレード。僕らの周りにいる誰かさんを連想させたりもしますが、考えてみたら、僕だってそんな喋り方をしているかもしれません。要するに、出てくる人物が、揃いも揃って自意識まみれなんですよ。
さて、最初の引用にチラチラ出てきていた「腹ふり党」ですが、これは、「世界は巨大な条虫の胎内にある」と信じる宗教団体。その肛門から胎外へと脱出することを目的とし、そのためにひたすら腹を振って踊り狂うというバカバカしい教義を持っています。この宗教団体の幹部・茶山という男もまたかなりの俗物で、教義の名の下に人殺しだって平気でするような人物。このあたりは、日本人なら誰もが連想するあの宗教団体のイメージが重ねられているんでしょう。
この新興宗教イカレっぷりは、茶山の語り口にも表われています。わけのわからない言葉がちりばめられた、意味不明のセリフ。ところが、バカバカしい教義や、うさん臭い指導者にも関わらず、この「腹ふり党」に町中の人々が魅了され、腹をふりはじめる。武士が武士なら、一般市民、というか町人だってバカばっかりです。以下は、腹を振ったヤツらの感想。

「気持ちいい空間を共有してるって感じ? 素晴らしい仲間に出会えたことに感謝」
「腹ふりありがとう! 腹が減ってたから様霊河原で食べた粥がおいしかった。ぶっ飛んだ。オサムさんろんさん縄次さんありがとうございました。嬉しくて腹、振りまくり。みんな、おおっ、って叫んでましたよね」
「こういうこと毎日起こって欲しい」
「楽しい。最高。自由でキモチイイ奴らが出会ってる」
「酔った百姓が若い娘にからんでた。腹を振ってるのかと思ったら単に酔ってふらついているだけだった」
「こんなに楽しい腹ふりをいままで知らなかった自分が口惜しい」
「腹ふり最高。まだ改善点はあるけどね。やっぱり飯食いながら振ったりとかは駄目ですね」
「変粉の前で仲間うちで指差しあって変な腹ふりしてた奴ら死ね」
「腹を振らない人の気持ちが信じられない」
「煙管、紙屑、馬糞、汚泥などが散乱して汚い。落ち着いて腹が触れない」
「茶山さんはじめスタッフの努力には頭が下がる。こんな楽しいイベントをありがとう。最高キモチイイ」

まるで掲示板のカキコミです。カジュアルな、というか、はっきり言っちゃうと頭の悪そうな口調。「イベント」なんて言ってますが、河原で大勢の町人たちがトランス状態で腹を振るシーンは、宗教儀式というより、まるでどこぞの夏フェスやレイヴのようです。

茶山が先導するまでもなかった。河原に参集しているのは木偶同様の付和雷同分子である。行列があればなんの行列かわからなくてもとりあえず並ぶし、売れていると聞けば買わなきゃと思う。芝居を真実だと思いこみ、著名人を敬慕しつつ憎悪する。絶対に自分の脳でものを考えないが自分はユニークな人間だと信じている。
そんな人間がこのリズムのうねりのなかで腹を振らないわけがない。

ああ、まさに現代。時代小説を通して現代を描くということなのか。それとも、江戸時代から日本人はこんなもんじゃないかと言いたいのか。登場人物の一人は、世の中は「インチキなペンキ絵の世界」だと言います。自意識が誇大した侍も、大勢に付いていくばかりの町人も、ぺらっぺらの現代語が描き出す、薄っぺらい世の中に生きています。もはや、時代小説の言葉を使っても、ヅラにしか思えません。
これは、他人事じゃありません。自分かわいさにあれこれ言い訳をする自意識も、うわっと流れに呑み込まれ腹を振っちゃう愚かさも、僕を含め現代人が多かれ少なかれ持っていることでしょう。かと言って、「今さら、武士道?」みたいな気持ちもあるわけで…。
十之進は、最初のシーンで一人称を次々と変えていったことからもわかるように、芯となるような中身のない人物です。「パンク」とは、つまりそういうことなんだと思います。虚無を抱えてヘラヘラと世を渡る、「インチキなペンキ絵の世界」を生き抜く手立ては、それしかないのでしょうか。
頭上には、ただただ書き割りのような青い空が広がるばかりです。


ということで、『パンク侍、斬られて候』はおしまい。
町田康の「笑い」がイヤミな感じがしないのは、くだらない世の中を笑う一方で、自らもまた卑小な存在だという視点が貫かれているからだと思います。表紙の写真は町田康本人ですが、「斬られて候」ですからね。パンク侍が向けた刃は自らにも返ってくるのです。