『昨日のように遠い日 少女少年小説選』柴田元幸 編【1】


少女少年小説選 昨日のように遠い日
『ノーホエア・マン』がすごくよかったのでアレクサンダル・ヘモンの他の作品も読みたいなと探してみたら、アンソロジーに一編収録されているとか。ということで、そのアンソロジーを入手。まだ、ヘモン作品にはたどり着いてませんが、これ、すごくいいんじゃない?
ということで今回は、
『昨日のように遠い日 少女少年小説選』柴田元幸
です。
翻訳家の柴田元幸が「少女少年小説」をチョイスしたアンソロジー。「少年少女」じゃなくて「少女少年」というところに、ちょっとしたこだわりを感じますね。
柴田さんが素晴らしい選択眼の持ち主であることは、これまで訳してきた作品からも想像がつくでしょう。しかも、子供の世界というのは柴田さんの物の見方と非常に親和性が高いような気がします。このブログでアンソロジーを取り上げるのは初めてですが、まさに柴田セレクションのおいしいところがぎゅっと詰まっているんじゃないかと。
ちなみに、表紙の装画はウィンザー・マッケイの「リトル・ニモ」で、上品な装丁はクラフト・エヴィング商會。ああ、いいなあ。このあたりも、僕の好みにぴったりくるところ。
では、いきましょう。


「大洋」バリー・ユアグロー
最初の作品は、バリー・ユアグロー。夢の中のようなシュールなイメージを紡ぐのが得意な短編作家、という印象がありますが、この作品はその上でちゃんと「少年小説」になっている。

私の弟が大洋を発見する。夕食の席で、弟はそのことを報告する。

冒頭です。これ以上ないシンプルな書き出しですが、「大洋の発見」と「夕食の席」のちぐはぐさに好奇心がそそられます。ところが父親はさっさと飯を食えと言わんばかりに、こう言い放ちます。

「この子の大洋だの山脈だの、原始の何たらだの、もうほとほとウンザリだ! そんなことよりまず、皿をきれいに片付けるべきなんだ。こいつの阿呆な発見とやらのせいで、我が家の暮らしは台なしになりかけてるんだ!」

どうやら弟の発見はこれが最初ではないらしい。そして実際に、食事のあとで兄である「私」が弟の部屋の窓から眺めると、裏庭があった場所に大きな海が広がっているんですよ。なんと、ファンタスティックなイメージ。
ユアグローは何故そんなことになっているのかを、一切説明しません。ただ、家族のある一日を切り取ってみせるだけ。奇妙な出来事の因果関係を示さず、ごく当たり前の日常のように描くことで、逆に夢の中のような感触が生まれる。夢の中ではたいていの場合、説明がないですからね。
ただわかるのは、弟だけが「発見」することができるということです。子供の妄想があっさり実現してしまうかのように、裏庭に大洋を見つけてしまう。でも、それは父親にとっては、何の役にも立たないくだらないことに思えるのでしょう。そこに大きな断絶がある。
この作品が素晴らしいのは、それを弟の兄である「私」の目線から描いていること。同じ少年期にいながら、わずかな年齢の差でもう見えるものが違ってしまっている。「私」はそのことをうっすらと自覚しているんですよ。弟に寄り添いながらも、自分は弟のように「発見」できないことを知っている。
「私」が、眼鏡を外してベッドに横たわる弟の「鼻柱に赤い跡」がついているのを描写するシーンが出てきます。ああ、グッときちゃうなあ。僕は、こういう微細な描写に弱いんですよ。弟の鼻の跡を見つめる兄。そこから、兄弟の近しさと遠さが伝わってくる。
そしてすとんと断ち切られるようなラストシーン。兄と弟のわずかな、そして決定的な距離感が、余韻となってひたひたと胸を打ちます。


「ホルボーン亭」アルトゥーロ・ヴィヴァンテ
まったく未知の作家でしたが、これはすごくよかった。少年時代、家族とともにレストランを探してロンドンの街をさまよった出来事を回想形式で描いています。

ぼくらはラッセル・スクエア近くのホテルの、長い、長い廊下の突き当たりにある小さな三部屋をとっていた。巨大なホテルで、いつでもまず確実に部屋がとれた。このホテルの取り柄はそれくらいだったと思う。だからぼくらもここを選んだのだ。陰気な薄暗い明かりのともったホテルの中は、外の闇とほとんど変わらなかった――というより、外の闇と溶け合っていた。ロビーのランプにかかったシェードはまるで頭巾みたいで、ランプの真下でようやく新聞が読める程度だった。暗い街から中に入ってくると、闇もいっしょについてきて、重苦しいランプシェードの間を縫い、少しも薄まることなく廊下へ、客室の入り口へ、そしてさらに中へと滲みわたっていくのだった。それは難民が泊まるたぐいのホテルで、実際ぼくらは難民だったのだ。

最初のほうに出てくるこのホテルの薄暗さの描写に、掴まれてしまいました。「闇もいっしょについてきて」か。いいなあ。図体ばかり大きな古びたホテルなんだろうなあ。時は1939年の12月。冬の日はあっという間に落ちてしまうし、街だって今みたいに明るくなかったんでしょうね。
闇がホテルに「滲みわたっていく」様子をカメラのように追っていくと、最後には「実際ぼくらは難民だったのだ」という一文にたどり着く。1939年、第二次世界大戦が始まる頃です。難民であることを告げるまでの、ちょっと言いよどんで遠回りするような屈折に、暗雲が立ちこめる時代背景がほの見える。薄暗い時代。
さらに、一家がようやく見つけたレストランの描写も素晴らしい。ホテルの薄暗さと対照的に、光あふれる世界として描かれているんですが、少年がこの眩い世界に目を輝かせている様子が生き生きと伝わってきます。暗い時代の中に見つけた、ささやかなユートピア。そして、家族の幸福な記憶。
ラストには、軽いひねりがあります。詳しくは書きませんが、少年に見えている世界と大人に見えている世界は別物だという、ユアグローの「大洋」につながるテーマが浮かび上がってきます。こういうところは、アンソロジーの妙ですね。


灯台」アルトゥーロ・ヴィヴァンテ
これもヴィヴァンテによる、少年期の回想もの。「ホルボーン亭」は冬の薄暗いロンドンでしたが、こちらは1937年の夏のウェールズです。少年はこの夏のある日、灯台に潜り込み灯台守と出会います。冒頭から引用しましょう。

板張りの遊歩道が尽きて、桟橋がはじまるところに、古い灯台は立っていた。白くてまるい塔で、小さなドアがあり、てっぺんはぐるりと窓になっていて、巨大な灯りがついている。ドアはたいてい半開きになっていて、中のらせん階段が見えた。いかにも誘っているような風情に、ぼくはある日、思い切って中へ入っていった。中に入ると今度は、階段を上ってみずにはいられなかった。当時ぼくは十三歳、黒い髪をした元気のいい少年だった。あらゆる意味で、ぼくの歩みは今の半分の重さしか運ばずにすんでいた。今では入れないような場所にも、ぼくは入ることができた。どこにでもするっと入って、歓迎されないんじゃないかなんていう不安はこれっぽっちも感じなかった。

これまたいいですねえ。少年の夏。僕はこんな経験ないはずなのに、「ドアはたいてい半開きになっていて、中のらせん階段が見えた」ことがあるような気がしてくるから不思議です。ヴィヴァンテのドアは、誘うドアですね。「ホルボーン亭」でレストランのドアを開けるシーンもよかったし、この「灯台」のドアもいい。
「ぼくの歩みは今の半分の重さしか運ばずにすんでいた」というもの、面白いですね。それだけ体が小さく軽やかだったということですが、どこにでも入り込めちゃう理由はそれだけじゃありません。この少年は、世界から拒絶されるということを想定していないんですよ。何の不安もなかった黄金の日々。輝くバカンス。
もちろん、そんな時期はいつまでも続くわけではありません。ごくごくわずかな少年期にだけ訪れる時間なんですよ。夏休みは終わるし、少年は大人になる。いや、大人とまでいかなくても、たったひとつ年をとっただけで彼らの世界は大きく変わってしまいます。スイッチが入ってしまったかのように、少年はかつての少年ではなくなってしまうんです。
ああ、これまたユアグローの「大洋」で描かれた兄と弟の決定的な距離感を思い出させるなあ。そして、ラストはちょいビター。


ということで、今日はここ(P36)まで。短い話ばかりなので、読もうと思えばすぐ読めちゃいそうですが、あめ玉をしゃぶるように、ちまちま味わいながら読みたいと思います。