『バーナム博物館』スティーヴン・ミルハウザー【2】


この短編集、収録作の長さがまちまち。「シンバッド第八の航海」はそこそこ長めの短編だったんですが、今回は、短めの小品も含め3編分いきます。ただし、短いからってあっさり読めるとは限らないのがミルハウザー


「ロバート・ヘレンディーンの発明」
主人公の青年ロバート・ヘレンディーンは、類い稀なる想像力の持ち主。その場にはないモノを、空想の中で細部に至るまでありありと思い描くことができるという、まあ、一種の天才ですね。やがて彼は成長し、就職もせずに部屋に引きこもって、「夢の女」を生み出す作業に没頭するようになります。想像力のみで作られた、妄想の中の女…。って何だか、シオドア・スタージョンあたりが書きそうな話ですね。
「夢の女」といっても、単に好みの女性を思い浮かべるだけじゃないんですよ。想像の中で彼女の筋肉や骨格を組み立て、微妙な表情や衣服の細部を描き出し、歩き方を詳細に詰めていく。それでもまだ足りないってことで、彼女にオリヴィアという名前を与え、さらには彼女の暮らす家や両親までも生み出します。この細部へのこだわり! ロバートは、細部こそがリアリティを生むと信じているんでしょう。これは空想なんて生易しいものじゃないですね。微に入り細をうがち、念入りに編み上げられた妄想。何ら実体を持たない、想像のみの創造。
ロバートは、やがて彼女と共に夏の夜の静かな街を散歩するようになります。このシーンはとても美しいです。

どの街並も僕たちを楽しませた。平屋住宅の並ぶ一画では、どこも決まって同じ形のバスケットボールのゴールがあって、細長い精緻な、平行四辺形に終わる影を投げかけていた。のどかな裏道は、背の高いスズカケやノルウェーカエデの影に包まれていた。小さな繁華街のウィンドウには、赤と黄のディスプレーが並んでいる。明るい緑のセロファンに包まれ、バスケットに入ったチーズ。華やかに陳列された、バレーボールやきらびやかなテニスラケットやエクササイズ用自転車。コップの水のなかで上ったり下ったりをくり返している腕時計。きつく止めた巻き毛の黒髪、黄色いビキニ、それに銀色のサングラスをかけたマネキン人形。これらのディスプレーに、オリヴィアは食い入るように見入った。

おなじみ、ミルハウザーのショーウィンドウです。ひっそりとした街並み、夜に灯るガラスの中の世界がありありと目の前に浮かびます。なんて魅力的な夜の散歩。僕もこの通りを歩きたい。でも、ちょっと待って。描写の細かさのせいでつい忘れそうになりますが、これは実際の街じゃなくて、ロバートの想像の産物、架空の光景です。にもかかわらず、読んでいてわからなくなる瞬間があるんですよ。これって、現実…じゃないんだっけ?
これは、この作品がロバートの一人称で描かれているせいだと思います。告白手記風のスタイル、つまりロバート目線で描かれているわけ。彼の中では、想像世界も現実と同じくらいリアルなんですよ。そのせいで、まるで見てきたような描写になる。ついでに言えば、細部にこだわるミルハウザーの文体は、緻密な想像力の持ち主によるこの一人称にぴったり合っています。
ロバートは、就職という現実から逃げ続け、妄想の世界へとのめり込んでいきます。引きこもりの空想オタク。しかし、ミルハウザーの他の作品同様、天才的な能力はやがてその人を追いつめていくことになる。ロバートが頭痛に悩まされるようになる場面は、そんな彼の運命を暗示しているような不穏さに満ちています。

僕が言う頭痛とは、頭蓋骨をぎりぎりと締めつける鋼(はがね)の輪のことだ。僕が言うのは、焼け焦げた、いまだ煙の上がる場所をあとに残していく、内なる炎の燃え立ちのことだ。そしてまた、鼠のようにもぞもぞと齧(かじ)る頭痛、白く甘く柔らかな脳味噌を噛み進み、やがてそのふさふさの背中を頭蓋の内部にぴったり押しつけてくる頭痛も忘れてはならない。あるいはその名も高き有翼の頭痛、あでやかな赤と緑の羽根から成る重い翼がその羽ばたきを進めてゆくなかで金色がかった黒い爪が脳をつかみ、絞る、かの壮麗な頭痛も忘れてはならないし、さらにはまた、数々の枝を持つ頭痛、とめどもなく増殖していってやがては頭蓋全体を覆いつくし、ぎらぎら光る棘(とげ)を眼球の柔らかな裏面に突き刺し、しまいには血まみれの眼窩から表に飛び出してくる、あの茨(いばら)の頭痛も――これらの頭痛こそ僕が言う頭痛であって、そこらの頭痛とは訳が違う。それらは創造の暗い姉妹であり、輝かしい夢の影にほかならないのだ。

頭蓋骨の内側で蠢く鼠の毛! 目玉を裏側から突き破って出てくる茨の棘! そりゃあ、たまらないですよ。頭痛にこうしたイメージを与えてしまうことこそが、彼の才能であり、彼の病なんじゃないかという気がします。本当は、そこらの頭痛と変わらないのかもしれないのに、、鼠や茨の姿を与えられてしまったことで、特別な頭痛となってしまう。彼の想像力が、彼を苦しめる。
ミルハウザーは、現実を嫌悪しているかのように、魅力的な空想世界ばかりを描く作家です。でも、単なる空想賛歌で終わる作品は、実はそう多くない。ミルハウザーの小説は空想世界の危うさをも、同時にあぶり出します。甘美な世界を生み出すだけが、想像力じゃありません。突出した想像力は、同時に不穏なものも生み出すんですよ。


「アリスは、落ちながら」
これは、キュート! 「アリス」ってのはもちろん『不思議の国のアリス』ですが、「ウサギの穴に落ちたアリスが底にたどり着かなかったら?」ってのを描いたのがこの作品です。本歌取りというか、「シンバッド第八の航海」と同様の趣向ですね。ただし、知的に構築された「シンバッド〜」に比べ、こちらはもうちょっと感覚的でお茶目。余談ですが、僕は安野光雅の『手品師の帽子』という童話を思い出しました。
下へ、下へ、下へ。この作品で、アリスはただひたすらに落ちていくだけ。それなのに、とっても面白いんですよ。穴の側面には何段も続く食器棚や本棚、壁に掛けられた地図や絵があり、それら諸々が例のごとく一つひとつ列挙されていきます。そしてアリスはそれらを眺め、穴の外にいるお姉さんに思いをめぐらせ、現在の状況についてあれこれ考える。「わたしは冒険へ向かう途中なのかしら、それとも冒険のただなかにいるのかしら?」「いっそのこと思いっきり落ちられたら! ひと思いに落ちることができたら!」「もしかしたら、落ちること自体が休息なのかしら?」などなど。これが、いちいちナンセンスで楽しいんですよ。好き好き、こういうの。

こんな高いところにある棚に、下からどうやって手がとどくのかしら、とアリスは思案する。まずは彼女は、非常に長い梯子を想像してみる。でもこれには問題がある。だって、かりにトンネルに底があるとしても、どうやってそんな長い梯子をこんな狭いところに入れることができるだろう? つぎに、壁に小さな抜け道がいくつも作ってあるのかもしれない、とアリスは考える。その抜け道を通って、召使いたちがトンネルに出入りするのだ。でもそんな抜け道も、ドアらしきものも、どこにも見あたらない。ひょっとして小さな鳥たちが、下から、あるいは暗闇のどこかに隠れた巣から、ここまで舞い上がってくるのだろうか? と、アリスの頭にもうひとつの答えが浮かぶ。壜も、絵も、地図も、ランプも、はじめからずっとここに、変わることなくあったのだという答えが。でもそんなことってあり得るかしら? アリスは、落ちながら、自分の眉間に小さなしわが寄るのを感じる。

面白いですねえ。ロジックを詰めていくとナンセンスになるという、いかにもルイス・キャロル的な展開。「長い梯子」のくだりは、「地下鉄はどこから入れたんでしょう?」にも似た可笑しさです。さらに面白いのが、誰かが置いたのではなく、遥か昔からずっとそこにある棚の上の壜…。どんな因果関係ともつながらなず、壜として置かれ続けるためにある壜、落ち続けるためだけにある穴。これまで同様、これから先もずっと永遠に…。
こうしたアリスの脳裏をよぎるあれこれや目に映るモノたちの描写が、短い断章を積み重ねる形式で描かれます。それに加え、ところどころに、ミルハウザーの『不思議の国のアリス』自体に関する考察が挿入される。以下は、実際には描かれたことのない、テニエル画伯による「落ちているアリス」の挿し絵を想像する場面です。ちなみに、テニエルっていうのは、アリスの挿し絵で有名な画家です。

さし絵には枠がなく、ページの大半は各行の言葉が絵と並んでその右側を下っていく格好になっているが、いちばん下の六行では絵はなく言葉が全スペースを占めている。したがってアリスは、彼女の落下を描写するテクストと並んで落ちているわけであり、と同時にテクストによって囲いこまれてもいる。もしこれ以上落ちたら、言葉にぶつかってしまうだろう。落ちるという行為のさなかを描かれながら、アリスは動かないままだ。落下のさなかに永遠にとじ込められている。

これ、横書きの原書をイメージする必要がありますね。文字の連なりに尻餅をつく寸前で静止しているアリス。まるで、最初っからずっと食器棚にあった壜みたいです。永遠のストップモーション。ずっと落下し続けるってことは、宙吊りになっているのと変わりません。アリスは穴の外の現実に戻ることも、底に下り立ち不思議の国に行くこともできない。どっちつかずの宙ぶらりん。
これは夢を見ているのかもしれない、とアリスは思います。でも、夢を見ているアリスもまた誰かの夢の産物かもしれない。『鏡の国のアリス』を連想させる夢の入れ子構造を思い出します。夢から覚めてもまた夢の夢。永遠に夢から出られない。
いや、夢と割り切れればまだいいんですが、そもそも夢と現実をどうやって区別したらいいんでしょう? 「シンバッド第八の航海」に出てきた老人のように、アリスもまた木の下でまどろみ、現実と夢のあわいに浮かんでいます。「アリスは、落ちながら」では、最後まで「ながら」のまんま、どこにもたどり着きません。そして遥か彼方で、現実の草原がゆらゆらとゆらめいています。


「青いカーテンの向こうで」
これは、短いお話。映画が終わったあとのスクリーンの裏には何があるのか? 好奇心にかられた少年は、スクリーンに垂れた青いカーテンの向こうへと足を踏み入れます。確かに、立ち入り禁止のロープで区切られた場所や、どこに続いているのかわからない階段なんかは、そそるものがありますね。それが古い映画館ならなおさらのこと。そして少年は、神秘の世界を覗き見ることになる。
この展開は、「イン・ザ・ペニー・アーケード」の映画館バージョンですね。少年が主人公というのも、「まなざし」がキーになっているところも、エロティックな妄想をかき立てられるのも、外で父親が待っているという構図もそっくり。
少年がこの映画館で見た映画については、本文中には一切描かれていません。にもかかわらず、スクリーンの向こうで見たものから、なんとなく映画の内容が想像できるところが面白いです。どうも、黄金時代のハリウッド映画っぽいんですよ。このあたりも、ミルハウザーの趣味なんでしょうね。


ということで、今日はここ(P138)まで。スタイルの違う三種類の短編を読みました。濃密な幻想性をたたえた「ロバート・ヘレンディーン〜」もいいんですが、僕は「アリス〜」の諧謔に魅かれました。ルイス・キャロルへのオマージュとしても、最良の部類なんじゃないかな。