『バーナム博物館』スティーヴン・ミルハウザー【1】


バーナム博物館 (白水uブックス―海外小説の誘惑)
はい、ミルハウザーまつり第二弾、
『バーナム博物館』スティーヴン・ミルハウザー
です。
ミルハウザーの第二短編集で、90年に出版されたものです。10編の短編を収録。巻末には、訳者・柴田元幸による気の利いた注釈、「訳者ノート」が付いています。
この邦訳はそもそも、現ベネッセの福武書店から出ていたもので、むかーし図書館でそれを借りて読んだことがあります。まあ、例のごとくほとんど覚えていませんが。今回は、「白水Uブックス」版で読みます。


では最初の作品「シンバッド第八の航海」から。
「シンバッド」ってのは、『アラビアン・ナイト』に出てくるシンドバッドのこと。英訳版『アラビアン・ナイト』では、英語表記が「Sinbad」と「Sindbad」の二種類あるらしく、そのうち「シンバッド」を採用しているということらしいです。ちなみに『アラビアン・ナイト』に出てくるシンバッドの航海は「第七の航海」までで、シンバッドはその最後で冒険から引退してしまいます。というようなことが、巻末の「訳者ノート」に書いてあります。非常にツボを押さえた注釈で、ありがたいなあ。
要するにこの作品は、その後のシンバッドを描いた、「ミルハウザー版シンバッドの冒険」ということでしょう。とは言うものの、話はそう単純じゃありません。
冒頭、まずは、中庭でまどろむ老いたシンバッドの様子が描かれます。

午後遅く、斜めにさす日ざしは明るく、空は青い炎。商人シンバッドは中庭の花園北東の角、オレンジの暖かい木陰に座っている。

何をするでもなくただ庭でぼんやりと過ごすシンバッド。老人の日なたぼっこといった風情です。ところが、次の段はいきなり、こんな風に始まります。

アラビアン・ナイト』をヨーロッパではじめて翻訳したのは、フランス人東洋学者アントワーヌ・ガランである。

いきなり、翻訳史蘊蓄? 『アラビアン・ナイト』翻訳以前のヨーロッパ人は、シェイクスピアもミルトンもダンテもセルバンテスも、シンドバッドの航海を知らなかったとか。そしてさらに次の段で、また調子が変わります。

わしはしばらくのあいだバグダッドの都で暮らし、わが身の繁栄と幸福に浸りきって、過ぎし日の千苦万難を耐え忍んだこともすっかり忘れてしまいました。ところがそのうち、またしても旅への憧れがわしを捉え、何としても異郷の国々が見たくなって、居ても立ってもいられなくなりました。

これは、どうやらシンバッド自身の語りです。いざ、出港! このあと彼は、第八の航海と思われる冒険へと乗り出します。
と、このようにまったくレベルの異なる3つの語りが交互に出てくるのが、この作品の仕掛けです。最初はちょっと戸惑いますが、3つのパートを整理すればこんな感じかな。
A 老いたシンバッドの様子と彼の脳裏に浮かぶ諸々
B 『アラビアン・ナイト』及びシンバッドの文学論的考察
C シンバッドが語る第八の(?)航海
次々と不思議な冒険が語られるCパートは、いかにも『アラビアン・ナイト』風の語り口。これだけを続けて読めば、そのまま魅力的な第八の航海の物語となります。それに比べると、似たような描写がくり返されるAパートは展開がほとんどなく、Bパートは次々披露される蘊蓄がちょっとうっとおしい。ところが読み進めていくうちに、Cパートをブツブツと分断するAとBのパートが、ぐんぐん面白くなっていくんですよ。

ともすれば、シンバッドに思い出せるのは、かつてみずからが物語ったことだけである。たとえば、見上げるばかりにそびえ立つ白い丸屋根の館のまわりをひとまわりして、いっこうにその入口が見つからなかったこと。だがまた、一度も物語っていないことを思い出せるときもある。白い丸屋根の館と見える怪鳥の卵のまわりを歩きながら、日なたから日蔭へ、日蔭から日なたへと出たり入ったりしたこと。彼の足が踏みしだいた草が、背後でゆっくりと起き上がっていったこと。汗が突然、たらりと頬に流れ落ちたこと。

最初のほうに出てくるAパートより。この怪鳥の話は「シンドバッドの冒険」の有名なエピソード。でも、その物語からはこぼれてしまうものもあるんですよ。ストーリーには直接関係のない、語られなかった細部。「草が起き上がっていった」がいいです。ミルハウザーのミクロを捉えるまなざしに、シビれますね。

シンバッドの七つの航海は一人称の語りの形式をとっており、主人公(シンバッド)によって物語られることになっている。だが忘れてならないのは、シンバッド自身も、さらに大きな物語のなかの一人物だということである――「すぎし遠い昔に」(バートン版)シェヘラザードがペルシャ王シャリハールに語った物語のなかの。そしてそのシェヘラザードもやはり、『アラビアン・ナイト』という物語のなかの一人物にほかならない。『アラビアン・ナイト』全体の、名を与えられていない全智の語り手によって、大臣の娘、博識なるシェヘラザードの物語が語られるのである。

こちらはBパートより。『アラビアン・ナイト』は、語り手シェヘラザードが王様に千一夜かけて語った物語、という設定になっています。「シンバッドの冒険」はその中のひとつ。語りの中の人物による語りの中の人物による語り。入れ子になった物語。では、シンバッドの物語をコントロールしているのは、いったい誰なのか? 果たしてそれは、本当にシンバッドの身に起きた出来事だと言っていいのでしょうか?
このあたりから、この作品は「物語ること」についての物語、といった様相を呈してきます。Bパートでは、様々な翻訳、様々なバリエーション、口絵に描かれたシーン、別の文学作品への影響などなどの蘊蓄が語られます。それを読んでいると、シンバッドの物語がいくつも枝分かれし、拡散していくような気分になる。ならば「第八の航海」があったっていいじゃないか、という気になってくる。
ではAパートはどうでしょう? 老いたシンバッドの脳裏にはいくつもの航海の記憶が切れ切れに浮かびますが、それがどの航海の出来事なのかもはや判然としません。いやそもそもそれは、現実に起きたことなのか、ただの作り話なのか、それとも夢の中の出来事なのか、まどろみのなかで混沌としています。このようなA・Bパートで分断されることによって、Cパートのありえたかもしれない「第八の航海」も、誰の語る何の物語なのか、わからなくなってきます。その存在基盤が揺らぐというか。ひょっとしたら、すべては庭でまどろむ老人の見た夢なのかもしれない…とか。
後半のAパートで、シンバッドは別の世界に住むもう一人のシンバッドを夢想します。仮に「シンバッドα」と名づけましょう。シンバッドαが暮らすのは、不思議な生き物が闊歩し宝石の散らばる川や谷のある世界。そう、シンバッドが航海で訪れたような不思議の国です。そこからやって来たシンバッドαにとっては、こちら側のバグダッドが驚異の世界であり、そこでの出来事は冒険となる。

ある日、彼は船に乗り込み、怪鳥や巨人の国に帰っていく。そして、不思議にみちた物語を、すっかり感心して聞き入る友人たちに向かって語る。扉を開け放した玄関の先で、怪鳥が青空を滑降し、棕櫚の木ほどもある蛇の体が日を浴びて光る。どこかで巨人が身を横たえて、疲れた目を閉じる。

ひょっとしたら、反転した世界のシンバッドαもまた、こちら側のシンバッドを夢に見ているかもしれません。そのシンバッドは、かつてシンバッドαの世界を航海し、今では年老いて庭でその冒険を思い出しているところかもしれません。怪鳥はかつてシンバッドをぶら下げて運んだ怪鳥かもしれないし、巨人はかつてシンバッドに目をつぶされた巨人かもしれない。巨人が目を閉じるとき、その夢の中にシンバッドが現われるかもしれない。
語られなかった物語、語ることによってズレていく物語、語りを聞かされた人々の中で新たに育っていく物語。いくつもの物語の、いくつもの航海。8の字を横に倒せば∞です。この無限に分裂していく物語に、くらくらします。
もちろん、『アラビアン・ナイト』の読者の脳裏にも、それぞれの物語が生まれます。それこそが、「第八の航海」なのかもしれません。ミルハウザーは、最後のBパートにも素晴らしいシーンを用意しています。これぞ、読書の快楽。すっかりやられてしまいました。見事です。


ということで、まだ1編しか読んでませんが、今日はここ(P47)まで。しょっぱなからややこしい作品ですが、僕はこれ、好きですね。僕の基準では、たいていの場合、「くらくらする作品=面白い作品」なんですよ。