『昨日のように遠い日 少女少年小説選』柴田元幸 編【2】


柴田セレクションだからといって、英米文学だけから選ばれているわけじゃないんですね。ロシアのナンセンスな作家が登場します。そして、そのあとに続くミルハウザーもかなりトリッキー。
では、つづきを。


「トルボチュキン教授」ダニイル・ハルムス
ハルムスは、ロシアのアヴァンギャルド芸術から出発したソ連の作家だそうです。そのせいか、彼の書く児童文学もなかなかユニークです。
「どんな質問にも答えることができる」というトルボチュキン教授が、子供向けの雑誌の編集部を訪れます。でも、この教授、いかにもうさん臭い。わけのわからない言葉で詩を書いてみせたりするんですよ。

「何ですか、これは?」と編集長は叫んだ。「意味が全然わかりません」
「フィストル語で書いたのだ」とトルボチュキン教授は言った。
「そんな言葉があるんですか?」と編集長が尋ねた。
「もちろん。フィストル人がしゃべる言葉だ」とトルボチュキン教授は答えた。
「フィストル人って、どこに住んでいるんです?」
「フィストリアだよ」

だから、それはどこよ? 「どんな質問にも答えられる」って、答えがこれですか? こういうナンセンスなやりとり、好きだなあ。ペテン師っぽいけど、なかなかトンチが利きますね、教授。
そしてラスト、「教授の正体は?」というオチも面白かったです。どんなにぼんくらな読者にもわかるように書かれているんですが、編集部の面々はそれ以上にぼんくらだという可笑しさ。こういうおトボケも僕好みです。


「アマデイ・ファランドン」「うそつき」ダニイル・ハルムス
この二編はマザーグースみたいな詩。「アマデイ・ファランドン」はちょっとピンとこなかったんですが、語呂の楽しさを味わえばいいのかな? 「うそつき」は、まさにナンセン詩。これだけ取り出してどうこうという感じじゃありませんが、この手の詩が三十編くらい並ぶと楽しいと思います。


「おとぎ話」ダニイル・ハルムス
まだまだハルムスは続きます。男の子が「おとぎ話を書こうよ」と提案。王様の話を書き始めようとすると、女の子が「そういうおとぎ話なら、もうあるわ」と自分の知ってるおとぎ話を語り始めます。

「ええとね、王さまがりんごを食べながらお茶を飲んで、りんごをのどに詰まらせたの。それで王妃さまは、のどにひっかかったりんごが取れるように、王さまの背中をたたいてあげたのよ。でも王さまは、王妃さまが自分をひっぱたいたと勘違いして、コップで王妃さまの頭をなぐったの。すると王妃さまは怒って、王さまをお皿でなぐりました。王さまは王妃さまをサラダボールでなぐり、王妃さまは王さまをいすでなぐりました。王さまは立ち上がって、王妃さまを机でなぐり、王妃さまは王さまを食器棚にむかって突き飛ばしました(後略)」

以下、延々とエスカレートしながら続く。面白いなあ。仕方なしに男の子が別の話を書こうとすると、女の子はまたしても却下して自分の知ってる話を始める。これが何度かくり返されるんですが、「もうあるわ」と言いながら、彼女の語る話はかなりナンセンス。思わず「あるって言うけど、そんな話ないよ!」とツッコみミたくなります。
ラストのトリッキーな展開は「すごく意外」というほどではありませんが、きれいなオチだと思います。


「ある男の子に尋ねました」ダニイル・ハルムス
これは、わずか1ページの小品。ナンセンスはこうでなくっちゃ、というねじれた理屈が面白い。これも、三十編くらい集めるとアルフォンス・アレーみたいな感じになるんじゃないかと。


「猫と鼠」スティーヴン・ミルハウザー
いよいよきました。僕の大好きなミルハウザー! 柴田さんと言えばミルハウザー! 翻訳されているミルハウザーの短編集は全部読んでいるんですが、この「猫と鼠」はお初にお目にかかる作品。登場するのは猫と鼠のみ。少女も少年も出てきません。冒頭から引用します。

猫は鼠を台所じゅう追い回している。鼠を追って、青い椅子の脚のあいだを抜け、早くも大きな波を描いてずり落ちはじめている赤白チェックのテーブルクロスが掛かった食卓を越え、左側に倒れつつある砂糖壺と右側に倒れつつあるクリーム入れの真ん中を過ぎ、青い椅子の背もたれを渡り、椅子の脚を下って、ワックスをかけたバターっぽい黄色の床を横切る。彼らの完璧な鏡像を映し出しているつるつるのワックスの上で、猫と鼠は止まろうとして身をうしろにそらす。かかとから火花が上がるが、もうどう見ても手遅れだ――大きなドアが迫ってくる。鼠はドアを突き破り、鼠型の穴を残していく。猫もドアを突き破り、鼠型の穴をもっと大きな、猫型の穴で置き換える。

描写マニアのミルハウザーの文章は読んでいると陶然としてきちゃうんですが、これも素晴らしいですね。台所にあるモノたちが次々と列挙されていくだけで、たまらないものがあります。「かかとから火花が上がる」ってのはちょっとオーバーじゃないかと思っていると、ドアにあいた鼠型の穴というところでああそういうことかとわかる。これ、「トムとジェリー」じゃん。
いや、どこにも「トムとジェリー」ということは書かれていないんですが、青い椅子、赤白チェックのテーブルクロス、黄色い床という畳み掛けも、あの時代のアニメーションの色彩の乱舞を想起させます。つまり、いかにもよくあるカートゥーンミルハウザーが再構成し文章にしたという仕掛けなんですよ。これを「少女少年小説」としてチョイスするというのが、ニクいですね。
ミルハウザーの流れでいうと、この作品は元ネタを批評的に換骨奪胎するという「シンバッド第八の航海」「アリスは、落ちながら」なんかの系譜。アニメーションを文章で書くという意味では、「J・フランクリン・ペインの小さな王国」や長編『エドウィン・マルハウス』にもつながっています。
ミルハウザーの批評性の大きな特徴は、その世界を成り立たせているメカニズムを明らかにしようというところにあります。この作品でも、カートゥーン的な様々な場面をくり返し描きながら、その本質的な構造に迫っていく。

滑稽なまでに間抜けな猫が、何度も何度も失敗する自由を有していることを鼠は認識している。そのぶざまな生涯の長きにわたって、猫は何度でも失敗できるのに、翻って自分は、ただの一度もあやまちを犯す自由を与えられていない。

自分が絶対に鼠をつかまえられはしないことを猫は知っているし、自分がのばす爪を半インチの差で鼠が逃れ、永久に鼠の穴のなかへ避難しつづけることも知っている。だが猫はまた、鼠をつかまえることによってのみ己のみじめな人生は意味を獲得するのだということも知っている。

カートゥーンは残酷です。絶対つかまらないとわかっていても鼠は一時たりとも油断することはできないし、絶対つかまえられないとわかっていても猫はそれをあきらめることはできない。そして、終わりのない追いかけっこは続く。そう、くり返しもまたカートゥーンの特徴ですね。猫は何度も何度もぶっ倒れ、ぺちゃんこに潰され、黒こげにされる。それでもまた復活し、性懲りもなく鼠を追い回す。
そしてミルハウザーの描く猫と鼠の世界は、徐々に残虐度を増し、シュールな様相を呈してきます。これですよ、これがミルハウザーの真骨頂。カートゥーンらしさを押し進めた結果、単にアニメーションを文章に置き換えただけじゃなく、冴え渡る描写の力で文章でしか表現できないアニメーションへと到達する。
では、ミルハウザーは終わりのないカートゥーンをどうやって終わらせるんでしょうか。それは読んでのお楽しみ。まさに、文章のマジックのような素晴らしい幕切れが舞っています。

閉まりゆくカーテンの上に、黒い手書き文字がひとりでに浮かび上がる――「終」。


ということで、今日はここ(P107)まで。ひとまず幕を引きます――「終」。