『昨日のように遠い日 少女少年小説選』柴田元幸 編【3】


少女少年小説」と銘打っているわけですから、少女が出てくる話もないとね。ということで、少女を主人公にした作品が二編続きます。
では、いきます。


「修道者」マリリン・マクラクフリン
主人公は、第二次性徴を迎えようとしている女の子。彼女は、自らの体に丸みを帯びた肉がついてくるのを拒絶し、食べるのを止めてしまいます。自らを修道者に例え、「あたしは棒みたいに痩せてるのが好きだ」と言う。そして、それを心配した両親によって、アイルランドに住む変わり者の祖母のところに彼女を預けられることに。そんなひと夏の経験を描いた作品です。
おばあちゃんは変わり者だけあって、あれこれうるさいことは言いません。少女をありのままの形で受け入れ、放っておいてくれる。両親を「あの人たち」と呼ぶようなひりついた冒頭に比べると、祖母の下で暮らす日々は幸福感に包まれています。

放っておかれるのは嬉しかったし、その夏は天候も過ごしやすかった。あたしは毎日外を歩き回ることができた。ポケットをくだものでいっぱいにしたり、ときには台所のテーブルからスコーンをひとかけくすねたりして出かけた。岩だらけの海岸を探検して、登れるところはすべて制覇した。挑戦する気にもならない絶壁もあった。天使になるのはまだ早い。だけど一番楽しかったのは、波打ちぎわ近くのいい岩を見つけて座り、海をぼんやり眺めることだった。生まれては消えていくあぶくや、濡れた岩からぽたぽた垂れるしずく、どっと押し寄せる海水や、いろんな色をした波。そのうち、あたしはだんだん人魚のことを考えるようになった――とくに、沈んでいく夕日を見ようと腰掛けているときなんかに。

他人から女として「見定められる」ことへの拒絶が、彼女を拒食へと走らせているということなんでしょう。だから、彼女は一人になれる時間が必要だった。そして、そのことを認めてくれる人が必要だった。それにより、徐々に彼女は自分の体の変化を受け入れていきます。子供から大人へ。あんなに嫌がっていたその境目を、ふうわりと越える。
僕がいいなあと思ったのは、主人公と祖母のこんなシーン。

ときどき、あたしたちは夕闇のなかに座って、月が出るのを待った、ときどき、夕暮れはとても静かになって、こんな離れたところからでも、確かに波の音が聞こえる気がした。あるときおばあちゃんが、夜露の落ちる音が聞こえたと言った。あたしは、草のあいだをカタツムリが歩む音が聞こえたと言った。おばあちゃんは、懐中電灯とレンガを取ってこなきゃ、あたしの花にたどり着く前に殺さないと、と言った。

実際にそんな物音が聞こえたかどうかはわかりません。でもこのささやかな会話に、深いところでつながっているような二人の親密さを感じる。おばあちゃん特別に何かをしてくれるわけではありません。でも、少女の不安定な心が聞こえるし、それをこんな風にして受け止めてきたんだろうなと想像します。いざというときは、懐中電灯とレンガを持ってね。


「パン」レベッカ・ブラウン
レベッカ・ブラウンも柴田訳でこれまで何冊か出ていますが、僕は初めて読みました。このアンソロジーの中で、最も長い作品。そして、ここまで読んだなかでは、最も不穏な作品です。
舞台は少女たちの寄宿学校。主人公である「私」の一人称で、そこでの暮らしが語られるんですが、話題はもっぱらカリスマ的な少女「あなた」と毎朝食卓に出る「パン」のことばかり。このロールパンには「精白粉(ホワイト)」と「全粒粉(ホイート)」があって、ホイートのほうが上等なようです。でも…。

誰かがバスケットをテーブルに持ってきて、真ん中に置く。みんなが手をのばしてロールを、ホワイトロールを一個とる。みんながそうし終えたところで、一個が残っていて、あなたがそれをとるのだ。それはいつも最後の一個、ホイートの一個だった。あなたは席に座ったまま身を乗り出し、右腕をバスケットの上にのばして、手全体を折り曲げてパンを包み込むようにしてとり上げ、それをお皿に置いてナプキンを膝にかける。そこまで来て、誰かがバターを回し、私たちは食べることができるのだった。
あなたはその一個の茶色いホイートロールの横に、腹にナイフを突き刺すみたいにして切れ目を入れた。そうして上半分とした半分を切り離すのだけど、ときどきナイフがつっかえて、切った面に生地が片寄っていた。
あなたはテーブルの一番端に、中庭を見晴らす窓に背を向けて座っていた。ときどき、窓を背景にして、あなたが切断したばかりのロールから湯気が上がるのが見えた。二つに切ったロールをあなたがお皿に置くのを私は見守った。上の面と下の面を下に、あらわになった柔らかい中身を上にしてあなたは置く。そして共通の皿に載った黄色い長方形のバターから三角形を切りとり、自分のお皿に押しつけ、次にマーマレードをほんの一さじすくう。それからロールの下半分を右手でとり上げ、左手に持ったナイフでバターを塗る。それからその半分を置いて、もう半分をとり上げ、そっちにはマーマレードを塗る。それからナイフを置いて、下半分を左手でとり上げて、二つを元通りにくっつける。そうやって貼り合わせたロールを自分のお皿に戻してから、あなたはナプキンで両手を拭い、ロールを手に取って、噛んだ。あなたの歯はまっすぐで、ほんの少し黄色かった。

長い引用になっちゃいましたが、この文体の特異さが伝わるでしょうか? ひたすら「あなた」とパンにのみフォーカスが合っている。あなた、ロール、あなた、ロール、あなた、ロール…。毎回決まりきったやり方で、「あなた」はパンを食べる。それを、「それから」でひたすら追っていく文章。これはもう、凝視です。
ホイートロールは「あなた」のものなんですよ。だから誰も手を出さない。しかも、「あなた」がそのパンを取るまで、誰も自分のパンを食べようとしない。何なんでしょうか、これは? 凝視しているのは「私」だけじゃありません。「私たち」みんなが「あなた」の一挙手一投足を息を飲んで見守っている。
そこから、「あなた」と「私たち」という構図が浮かび上がってきます。同じ制服を着て同じパンを食べる少女たちの中で、「あなた」だけが輝いている。作品の中盤には、「大事な人はあなただった。私たちが愛したのはあなただった」というフレーズも出てきます。「私たち」は私たち自身よりも「あなた」を愛している。でも、「あなた」は私たちの誰かを選ぶことはありません。すべての「私たち」から等距離にいる。
なぜ「あなた」がそれほどまでに崇拝されているのかは、よくわかりません。そもそも「あなた」がどんな人物なのか、そのパーソナリティが伝わってこないんですよ。その人物が素晴らしいのは素晴らしいからだ、というような感じでしょうか。わからないと言えば、「私」のことも「私たち」のこともわからない。わかるのは「あなた」を崇拝しているということくらい。
個性なんかはどうでもいいんです。ただ、「あなた」対「私たち」という関係性だけがあればいい。彼女たちは、日々の暮らしの隅々までもを、蜜のうよに絡みつく関係性で満たそうとしている。読んでいると息苦しくなってきますが、当の「私たち」は半ば陶酔しているように見えるのがまた恐ろしい。この権力構造の得体の知れなさに、ぞわぞわきます。そして…。

やがて、あれはあなたの誕生日だったのだという噂が広まった。誰もそれについてあなたに訊かなかったし、寮母に訊いてみようとも思わなかった。あなたのいろんな謎について、私たちは訊かなかった。
噂を広めたのは私だった。

「私たち」から「私」へ。「私たち」の均衡を崩したのは「私」です。「私たち」の輪の中からこっそり抜け出し、さらに距離を詰めようとしたのは「私」です。「あなた」には気づかれないようなやり方で。
「あなた」という言葉が頻出するこの作品の一人称は、まるで狂おしい手紙のようです。私はこんなにあなたを見つめていますよ、という必死の呼びかけ。でも、「あなた」はその呼びかけには応えてはくれないでしょう。応えたら「あなた」はあなたじゃなくなってしまう。だから気づかれちゃいけないんです。ああ、何という行き場のなさ。
寄宿学校という閉鎖空間に、「あなた」「あなた」「あなた」と言葉にならない呼びかけが濃密に渦巻いている。そのことが文体からじわじわと伝わってきます。ああ、恐るべき少女たち。そして、恐るべしレベッカ・ブラウン


ということで、今日はここ(P174)まで。少年を主人公にした作品は、「ああわかるなあ」という気持ちにさせられますが、少女を主人公にした作品は謎めいた気分にさせられますね。