『昨日のように遠い日 少女少年小説選』柴田元幸 編【4】


この本を読もうと思ったそもそものきっかけはアレクサンダル・ヘモンだったわけですが、終盤にきてついにヘモンが登場。カモン、ヘモン。
さあ、いきます。


「島」アレクサンダル・ヘモン
ヴィヴァンテの「灯台」同様、これまた少年の一人称で語られる「子供時代の夏の日」もの。主人公の少年は両親と共に、伯父さんの暮らすムリェト島を訪ねます。島へと向かうシーンから引きましょう。

僕たちは上の方のデッキに座り、船はつつましい波の上を、喘ぎ、ゲップを吐きながら跳ねていった。一直線に連なった、道路脇に並ぶ事故車みたいな小さな島々の前を船は通り過ぎ、僕が両親に「これってムリェト?」と訊くたびに「違う」と言われた。石化した島々の陰から、鬼火に削られた風が出てきて僕たちに襲いかかり、僕の頭から麦わら帽子をもぎ取って海へ放り投げた。帽子がふらふらと遠ざかっていくのを僕は見守った。髪が頭蓋に、ヘルメットみたいにべったり貼りついた。もう自分が絶対、二度とその帽子を目にしないのだということを僕は理解した。僕は時間を逆戻りしたかった。陰謀を企てたつむじ風が僕の顔を襲う前に、帽子をがっちり押さえつけたかった。船は見るみる帽子から離れていき、鼻汁みたいな緑色の海の上で帽子はベージュ色のしみに変わっていった。僕は泣き出して、しくしく泣いたまま眠りに落ちた。目が覚めると、船はもう桟橋に入っていて、その島がムリェトだった。

いいなあ。風に飛ばされる麦わら帽子から、時間は二度と巻き戻せないということを知る。それはもちろん、少年時代も同様です。でもそれは、麦わら帽子が飛ばされてから気づくようなもので、振り返ってみて初めて「ああ、もうあんな夏は訪れないんだな」と知るんです。
いつの間にか眠っちゃってて、気づいたら目的地に着いていたというのもかわいいですね。これって「子供あるある」でしょ。僕も経験ありますよ。家族旅行なんかで車で出かけるときとか、起きてたいんですよね、子供は。でも、起きてらんないの。
それにしても、やっぱりヘモンは描写に長けてますね。特に比喩が巧みなんですよ。「道路脇に並ぶ事故車みたいな小さな島々」なんて、目に浮かぶようじゃないですか。そこから、主人公の少年がサラエボに暮らす「都市の子供」だということもうっすら窺える。他の場面でも、「階段はねじれたタオルみたいに上昇する螺旋を描いていた」などなど、僕好みの比喩がいろいろ出てきます。
この作品はこのムリェト島での夏の数日間を、断章形式で描いています。一つの章に一つのシーン。これがヘモンの素晴らしい描写とあいまって、思い出の写真を1枚1枚めくっていくような効果を生んでいます。こんなこともあったね、あんなこともあったよねという夏のアルバム。
とは言うものの、この島での日々に、格別大きなドラマがあるわけではありません。アルバムに収められた写真は、他愛もない場面ばかり。大きなドラマは、実は少年が体験した夏の日々ではなく伯父さんの口から語られる話の中にあります。伯父さんが語る子供時代の過酷な出来事は、彼らが暮らすボスニアの歴史の暗い一端を覗かせます。まばゆい夏の日に差す濃い影のように。

「そういう話、この子の前ではやめてくださいな。怯えて眠れなくなってしまいます」
「いや、聞かせなさい。知っていた方がいいんだ」

これは、誰の言葉なんでしょうか? 一人称である地の文に記されていないということは、少年にとっては誰が言ったかは重要じゃないということです。その言葉だけが、彼の耳に残ったということです。大人たちの話を聞いているんですが、そこにこの眩しい夏からは想像もできないような世界が口を広げている。

陽もそろそろ沈むころ、僕たちは来た道を戻っていった。何もかもが真鍮のような色合いを帯びて、時おり、細い、黄金色の光の筋が槍みたいに地面から飛び出していた。蝉の声は勢いを増してきて、地面の温かさが道に落ちた乾いた松葉の香りを高めていた。高い松の木の影に覆われたあたりに入っていくと、突然の涼しさに、自分の肩がどれだけ熱くなっているかを僕は意識した。一方の肩を親指でぎゅっと押して離してみると、青白いしみが浮かんだが、それも少しずつ縮んで、赤みのなかに戻っていった。

夏が終わろうとしています。同様に、彼の少年時代もすぐに終わりを告げるでしょう。美しく幸福な夏の日々を描きながら、そんな予感が遠くにこだましています。


「謎」ウォルター・デ・ラ・メア
最後の作品は、有名な怪奇短編。この珠玉の作品を、僕はまさに少年時代に読んだことがあります。確か、荒俣宏が子供向けにセレクトした怪奇小説集に収録されていたはず。
恐ろしいことが起きているんですが、誰も騒がず叫ばず怖がらない。童話のような柔らかな文体で静かに静かに描かれていて、それが不気味な余韻を残します。この不気味さは子供心に非常に印象深かったんですが、今回読んでみて、ちょっと違った感想を持ちました。
祖母と一緒に暮らすことになった七人の子供たち。祖母は子供たちに、客用寝室の隅にあるナラの木の収納箱には近づいてはいけない、と言います。その寝室に子供の一人が入り込むシーン。

そうやって中を見ているヘンリーの耳に、下の子供部屋から、こもった笑い声や、カップがかちんと鳴る音が聞こえてきた。窓の外に目を向けると、日は暮れかけていた。そんなこんなで、なぜかヘンリーの胸に、母親の記憶がよみがえった。ほのかに光る白いドレスを着た母は、夕暮れどき、ヘンリーに本を読んでくれたものだった。

夕暮れていく薄暗い部屋に一人いて、階下のざわめきから遠く隔たっているという感覚。ああ、この感じ、覚えがあるなあ。さみしいようなドキドキするような。かくれんぼにも似ていますね。自分がここにいることは誰も気づかないまま、世界が遠ざかっていく。
そして、このあと子供たちに不思議な出来事が起こるんですが、昔読んだときは恐ろしく思えたその出来事が、今になって読み返すととても甘美に思えてくる。僕もそっち側へ行きたいよ、という気持ちになる。でも、もう行けないんですよ。お祖母さんと同じように、こちら側に留まるしかない。
その意味では、これは冒頭のユアグローの「大洋」と対になった作品と言えるかもしれません。そう、向こう側に行けるのは、子供だけなんです。


ということでこの本はおしまい、と言いたいところですが、この本には付録がついています。折りたたまれた2枚の紙に、ウィンザー・マッケイの「眠りの国のリトル・ニモ」とフランク・キングの「ガソリン・アレー」というアメリカの新聞マンガ2種が掲載されているんですよ。どちらも非常に美麗で面白い。裏表で1話ずつしか収録されていないのがもったいないくらいです。ここに収録されているのは、中でもわりと実験的な回。この辺は、柴田さんの好みでしょうね。
特に、「眠りの国のリトル・ニモ」は僕の偏愛するコミックでもあります。洋書を持っているんですが、英語がわからなくても絵を見ているだけでうっとり。本当に素晴らしいです。この本の表紙にもニモのイラストが使われていますね。あと、「ガソリン・アレー」のコマ割りの遊びは、現代アメリカ最高のコミック作家クリス・ウェアがマネしてます。


ということで、これで『昨日のように遠い日』は本当におしまい。デ・ラ・メアを再読することになるとは思わなかったし、オマケのコミックまでついていて、セレクトの妙を存分に味わえる、非常に満足度の高いアンソロジーでした。僕にもあった昨日のように遠い日々を、ちょっとだけ思い出してしまったりして。