『エコー・メイカー』リチャード・パワーズ【おまけ】


リチャード・パワーズ『エコー・メイカー』、思いのほかじわじわとくる作品で、読み終えてから何日も経ってるんですが未だにいろいろ考えちゃったりします。それを前回はとりあえずえいやっとまとめてみたんですが、様々な要素が複雑に絡み合った作品なので、どうしても言い足りないことが残る。
昏睡状態のマークの脳内を表していると思われる文章が、前半に何度か登場します。最初は、非常に混乱したイメージの羅列のように思えるんですが、すべて読み終えてからこの部分を読み返すと、様々な意味が浮かび上がってくるでしょう。
パワーズの作品はどれもそうですが、『エコー・メイカー』もまた多様な読みを促す作りになっています。登場人物たちそれぞれに様々な問題があり、多角的に読み解いていくとテーマが立体的に立ち上がってくる。その上で、鶴をどう捉えるか、脳の問題をどう捉えるか、アメリカの状況をどう捉えるかなどで読みがいろいろと変わってくるはずです。
あとは、文体かな。これまで読んできたパワーズの作品に比べると文体はシンプルになっていますが、とは言うもののそこはパワーズ、あちこちにユニークな言い回しが出てきます。前回、ざっくり大枠をまとめたときには、それがほとんど拾えなかった。それがちょっと心残りだなあと。
そこで、オマケとして細部における『エコー・メイカー』の面白フレーズをいくつか挙げてみます。直接本筋に関わらないような部分にも、ひねった言い回しや独特の比喩が出てくる。それもまた、小説を読む愉しみだったりするわけで。


まずは、カリンが入院中のマークの家に入るシーン。男の一人暮らしの家に肉親が勝手に入るとなると、お互いしょっぱい思いをすることになります。

バスルームは理科の自由研究を実施中といった趣だった。マークが持っている清掃道具は排水詰まり用のパイプクリーナーと黒革用石鹸だけだ。せめて酢かアンモニアでもないかと台所を探したが、汚れ落としに近いものはオールド・スタイルくらいだ。

「オールド・スタイル」ってのは、ビールのことらしい。汚れまくったバスルーム。「理科の自由研究」ってことは、カビとか生えてるんだろうな。あーあ、って感じですが、僕も他人事ではない。なるほど、親が見たら俺の家もこんなことになるんだなと、ちょっとしょんぼりしてしまいます。

背後の芝土の家の壁に取りつけられた雄鹿の角には金色の鳥籠が吊るしてあった。東部で買った高価な鳥籠は、千数百キロの旅をした牛車に積んできた。道具や薬を積めるスペースを犠牲にしてのことだった。鳥籠のほうが切実に必要だったのだ。肉体はどんな寂しい場所でも生き延びるが、心の問題はまた別だということだろう。

これは、曾祖父の写真に映る鳥籠についての考察。何故、鳥籠が必要だったのか? 写真からそれを読み解いていくというのは、パワーズの処女作『舞踏会へ向かう三人の農夫』を思わせます。「心の問題はまた別だということだろう」か。いいなあ。
次は911以降を感じさせる部分。

ウェーバーは自分の身体を引きずるようにしてマンハッタンへやってきた。(中略)影の射し方がとても変だ。八ヶ月以上たった今でも感覚が狂わされてしまう。見えるはずのないところに空が見えている。この前このあたりにきたのは春先で、巨大なサーチライトの光の太い柱が空に向かってそびえ立つとう不穏な気分を掻き立てる光のショーを見たものだ。それはまるで自分がほんに書いた幻肢のようだった。

「八ヶ月以上たった今でも」とは、2001年9月11日から数えて、ということです。ビルが消えちゃったから影の射し方が変なんですよ。「巨大なサーチライトの光の太い柱」とは、WTCがあった場所で行われた追悼式の模様を指しています。幻のビルが今でも人々に痛みをもたらす。なるほど「幻肢」ですね。

近頃のアメリカ人は何のテストをしても平均以下のはずだ。抑鬱の傾向は少しあった。なければ驚いただろう。二〇〇二年の夏において、軽い抑鬱は正常な反応の指標だった。

アメリカ中が傷ついている。「軽い抑鬱は正常な反応の指標だった」とするならば、マークが壊れてしまったように、アメリカもずたずたに壊れてしまっているんでしょう。
メディアについて書かれたパートも引いておきましょう。

バーバラは顔を桜色にした。「いつもケーブルテレビに注意してるのよ。昔からの癖で。今はもう観られるものは少ないんだけど。何も爆発しないもの、ここで笑えと合図が入らないもの。そういうのでないと見てられないのよね」

「昔からの癖で」というのは、実は伏線だったりするんですが、まあそれはいいでしょう。「何も爆発しないもの」「ここで笑えと合図が入らないもの」というのは、よくわかりますね。テレビはそういう番組ばかりになってしまったという反面、僕らはそれに疲れてしまっている。バラエティ番組のテロップとかをイメージしてください。

ウェーバーはインターネットに接続するたびにアマゾンのカスタマーレビューをチェックするようになった。(中略)新聞や雑誌の書評は業界的な利害を計算したりもするが、読者評にはそれがない。一つ星評価の例――「この著者って何さまのつもり?」。五つ星評価の例――「アンチは無視してよし。ジェラルド・ウェーバーはまたやってくれた」。賞賛のほうが毒が強かったりもする。

これは可笑しい。ウェーバーは、自分の著書が相も変わらず同じことを繰り返していることに気づいて自信をなくしているんです。そこへこのカスタマーレビュー「またやってくれた」。それこそが問題なんだよなあ。「賞賛のほうが毒が強かったりもする」ってのは、言いっ放しのレビューさとウェーバー著書の両方に対する皮肉になっています。
次は、鶴の飛来する川を開発しようとしている業者による公聴会のシーン。ダニエルとは「鶴保護協会」のメンバーです。

開発業者と環境保護団体が応酬を繰り返す戦闘は超低速のパントマイムに似ていた。ダニエルもそこに飛びこんで二、三発強打をお見舞いした。(中略)ダニエルの言葉は一言一言が福音だった。だがあまりにも救世主めいた情熱をこめて説くので、結局は悲観論に凝り固まって世を指弾する預言者の一人にすぎないのではないかと割り引いてしまう。

「超低速のパントマイム」という比喩も面白いんですが、問題は後半です。震災以降反原発を説く人たちを僕らは数多く見てきました。僕も原発にはきっぱりと反対の立場を取っていますが、それでも「救世主めいた情熱」が人々をしらけさせるという場面に、何度も直面しました。対話ではなく戦闘になっちゃうと、しばしばこうしたことが起こります。互いがパントマイムをしているだけという状態。むー。

学生たちは例年と同じで、ロンコンコマやコマック出身の白人上層中流階級の子弟が多く、刑務所で入れるようなタトゥーからラコステの鰐に至るまでさまざまなアイデンティティー確認物を身に帯びているが、今学期は嘲笑的な態度を示すという変化を見せていた。

これは、ウェーバーの授業シーン。「刑務所で入れるようなタトゥー」と「ラコステの鰐」が並列されているのが可笑しいですね。ウェーバーはそれを冷ややかに「アイデンティティー確認物」と呼ぶわけですが、この作品はまさにそのアイデンティティーが不確かだという話なんですよね。
最後に、こんな場面を。

バーバラはウェーバーの手首を持って宙で振る。手の震えはほとんどとまっていた。「もうたくさん。鞭打ちの苦行はここまで。踊りましょう」
ウェーバーはびっくりして身を縮め、仕切り席の背もたれに背中をつけた。「私は踊れない」
「何言ってるんですか。生きてるものはみんな踊るんですよ」バーバラはウェーバーの怯えた顔を見て笑った。「いいからこっちへ出てきて、身体をくねくねさせて。身体の蚤をとってるみたいに」

前回もチラっと引用しましたが、生きてるものはみな踊るというフレーズが最初に出てくるシーン。「身体の蚤をとってるみたいに」というのが可笑しいですね。別の箇所に書かれていましたが、僕らの脳には猿の脳みそを入ってるんだそうです。


というわけで、引用をつらつら並べましたが、ここから何か結論めいたことを引き出すつもりはありません。ただ、至るところに仕掛けられたこういう文章が、パワーズの魅力であることは間違いない。
最初に「直接本筋に関わらない」なんて書いてしまいましたが、よく読むとそうではないことがわかります。作品のテーマが、こうした細部にもエコーとして響いている。この作品がひたひたと沁み込んでくるのは、細部のこの豊かさのおかげだろうな。
ふう。ため息をついて本を閉じる。僕の脳内で「何十人もの迷える斥候がちゃちな懐中電灯を振りながらさまよっている」のを感じます。