『ガラテイア2.2』リチャード・パワーズ【3】


前回、積み残した「神経回路網」についてですが、どうやらレンツはこの研究によって、脳をシュミレートする人工知能を作り出そうとしているようです。自ら学習するマシン。言葉を学び、やがて喋リ出す箱。


ということで、続きにいきます。
「僕」は、例の一行目から先に進めず、「誰かに物語を読んで聞かせること」について思いを巡らせます。Cと同棲していた頃の幸福な記憶。このカップルは、寒い夜にはお互いに本を朗読し合っていたようです。もしくは、窓の外の光景から物語をこしらえてみるとか。ちょっとロマンチックすぎて恥ずかしいですね。でも、恋人同士ってのは多かれ少なかれ、こういう恥ずかしいことができちゃうんじゃないかな。

音楽学校の生徒が十二月でも窓を開けてサックスを吹いている。危なっかしくそろそろと半音ずつ一オクターブ上がっていく、船酔いみたいなコミック音楽だ。僕がもうすぐ書くとはとうてい思えない本の中では、とにかくそういうふうに描くつもりだ。演奏者は必ず、本当に必ず、上がっていくときにAフラットを外してしまうが、下がってくるときには偶然うまく吹ける。「何か重力と関係があるんじゃないの」とCが冗談を言った。

ドラマティックなラブシーンよりも、僕はこうした他愛もない日々の冗談に、恋人同士の親密さを感じます。例えば、街ゆく人を見てあれこれ冗談を言い合うなんてことがあります。この冗談がぴたりとハマる瞬間の、あの感じ。周りは誰も気づかず、二人だけに通じ合うジョーク。そんなことを思い出します。そして、このシーンが切ないのは、これが失われた過去の回想として描かれていることですね。「僕」は、未だオランダの言語から逃れられないように、いちいちCとの思い出に立ち戻ってしまう。
そして、書こうとしている「南行きの列車」の続きは、頓挫したままです。

何度も朝が過ぎるうちに、胃袋が痛くなってきて、僕は二度と書けそうにないことを思い知った。自分の中にはなにも残っていない。あるものはと言えば、最初から考える気もしなかった自伝だけだ。僕の人生は三カ月前のコンピュータ雑誌みたいに役立たずになりつつあった。

ん、「自伝」? 小説内の「僕(=パワーズ)」は、次の作品は自伝になるという可能性を示唆しています。この『ガラティア2.2』がそれに当たるってことでしょうか? 文学的仕掛けとしての「自伝」。
小説が書き出せない「僕」は、センターにあるバーへと向かいます。読んでいてまず目が留まったのは、こんな一節。

バーが混みだした。堅物ふうな学生が、死んだピッチャーをなんとかして生き返らせたいとでも思っているのか、僕の肩にぶつかった。「すみません、先生」と彼はいかにも商業専攻らしい謝り方をした。
その言葉は、まるで平手打ちを食わされたようで、若者の独りよがりがコード化されていた。二十一歳以下の人間は、その事実を会話の中に織り込みたがるものだ。たとえ二言でしかない会話でも。この国では、若さというのは社会的に認められた自慢の現れなのである。
ここに来たのはとんでもない間違いだった、この大学のバーに、この大学の町に来たのは。ここにいるのは、僕があくせく勉強しているあいだ、毎晩酔っぱらっていた連中と同じ人種だ。むこうはずっと二十歳のままなのに、こっちはいつのまにか中年になってしまった。

中年、ですか。年齢の問題が、またここで登場します。「若さ」ってのは根拠のない自慢で、気づけば失われているものだと。20歳と35歳の違いは、この「喪失感」じゃないかという気がしてきます。もう戻らないものがある、っていうのを知っているかどうか。
さて、このバーで「僕」は、レンツ博士と同僚が議論しているところに出くわします。レンツは、神経回路網の可能性についてまくしたてている。レンツの横柄で皮肉っぽい態度に、みんな辟易しているようです。そして会話に加わるうちに、いつの間にか「僕」は、レンツと同僚の賭けに巻き込まれてしまいます。レンツは、10カ月間で文学を読み解釈できる人工知能を作ってみせる、と宣言します。そして、その研究助手として小説家の「僕」を任命する。さあ、いよいよ物語が動き始めました。
ところで、このバーのシーンでは、セルバンテスの『ドン・キホーテ』について何度も言及されます。これは意味ありげですね。「魅力的な書き出し」や「異国の言語」といったこれまでのテーマとリンクしているし、レンツと「僕」がこれから取り組む試みは、風車に向かうドン・キホーテのようなものだ、と暗に示しているようにも見えます。
ちなみに、モーツァルトクラリネット協奏曲を「芸術作品の中で最も苦痛に満ちた痛み止め」と評したパワーズですが、この有名な小説に対しては、本の表紙に書かれたこんな惹句をクローズアップしてみせます。

「どんな人間でも、人生で最低三度は『ドン・キホーテ』を読まなくてはならない――若年、中年、そして老年に」

35歳、中年の「僕」は、どんな風に『ドン・キホーテ』を読むんでしょうか? そして老年のレンツは?


ということで、今日はここ(P58)まで。35歳は「中年」だそうですが、僕には、今ひとつ中年にもなりきれないような、微妙な年齢に思えます。この小説の主人公のぼやんとした寄る辺なさ、身につまされます。