『ガラテイア2.2』リチャード・パワーズ【2】


知らばっくれててもアレなので書いちゃいますが、この小説の語り手である主人公「僕」は、どうやらリチャード・パワーズらしいです。本文中で、過去の自作についてしばしば言及していますし、作者パワーズも「僕」同様にそもそもは物理学を志していたそうです。つまり、作者と同じ名前を持つ似たような境遇の人物を主人公に据え半自伝風に書かれた小説、なんですよ。ただし、あくまで「風」ですよ。どこまで自伝的要素が入っているのか、ホントのところは僕には確かめようがありません。まあ、作者が作品中に登場するってのは、「仕掛け」の一つだと思っておいたほうがいいでしょう。


では、続きです。
「僕」は、ある夜更け、モーツァルトクラリネット協奏曲に導かれ訪れた研究室でフィリップ・レンツという研究者に出会います。レンツは、いかにも気難しそうな異貌の人物で、研究内容は「神経回路網を使った認知経済学」だとか。
「神経回路網を使った認知経済学」? このあたりは、理系用語がわらわらと出てきて、ちんぷんかんぷんです。

神経回路網は演算やマシンの特定のふるまいを記述したりはしない。総合的なフローチャートや命令なしですませているのだ。むしろ、使用するのは個々のプロセッサの集まりで、それで連結した脳細胞をシュミレートする。そしてこのような独立した行動決定ユニットの共同体に、その回路を変更する仕方を教える。それから一歩退いて、合成ニューロンが外的刺激を選り分け結びつけるのを眺めているというわけだ。

つまりは、プログラミングされた命令を実行するんじゃなくて、それぞれのユニットの関連性から自らのふるまいを決定するというようなことでしょうか。「僕」がせっせとネットで調べたことによれば、神経回路網では記憶や学習が可能になるとのことです。うーん、わかったようなわからないような。まあこの辺は、読んでいくうちにわかるだろうということで、先へ行きます。
レンツは、2度目に「僕」に会った際に、彼の小説に何故いつもオランダ人が登場するのか、と噛みつきます。何でそんなにオランダ人を嫌うのかよくわかりませんが、レンツ、とっつきにくい人物です。
そこから、「僕」は、オランダに対する複雑な想いをめぐらせます。それは、かつて恋人だったCのイメージと深く結びついているようです。オランダからの移民の娘だったCと共に、「僕」はアメリカを離れオランダで暮らしていたんですよ。そして今でも、そのオランダの言語が体に染みついている。

僕はまだあの言語で夢を見る。おかげで英語が台無しになってしまった。もう半年もたつのに、センターのタワーの下を通るときにはユトレヒト・ドーム教会の尖塔を思い浮かべてしまう。落ち着いたことのない場所を、まだ払拭できないでいるのだ。

僕は、「合衆国に戻ってきても、そこに見憶えがなかった」と言います。この小説のあちこちに喪失感みたいなものがチラチラとほの見えますが、これもその一つ。ここで注目したいのは、それが言語の問題として捉えられていることです。「僕」は、オランダの言語を学ぶことによって、アメリカ人でもオランダ人でもないものになってしまったように見えるんですよ。これは、ちょっと気になりますね。
さて、「僕」は4作目の小説をほぼ書き上げ、次の作品の構想を練ります。

次の作品の書き出しは絶対にこうだ。「南に向かう列車を思い描いてほしい」。

確かに魅力的な書き出しです。しかし「僕」は、それ以上書き進めるとこの魅力が失われてしまうんじゃないかと恐れて、先へ進めなくなってしまいます。パワーズの小説は、理系用語が山ほど出てくるかと思うと、こんな風にリリカルなイメージがふい打ちのように現れる。こういうところに、僕は、クラッときちゃうんですよ。
「僕」は、その一行がどこからやってきたかを知ろうとします。それは、母親にかつて読んでもらった本の一節かもしれない…。

母親でないとすれば、いったいその一行はどこから来たのか想像もつかなかった。のんびりと南へ伸びている線路を想像してみてほしい。すがすがしい日だ。まだこれほど身が引き締まるような、肌寒く乾燥している天気ではない。列車はゆっくりと生気を帯びる。蒸気がたちのぼる。そして石炭をくべ、最初の大きなカーブへと車体をひろげて、去りながら現実となる。
疑問の余地はない。それは何か胸がきゅっとなるものを残して、嘲るような地平線へと向かっていったのだ。僕が書きたい本、僕が幼児期のどこかで聞いたに違いない本は、蒸気機関車から危なっかしい恰好で身を乗り出しても、視線のとどかない先にひろがっている。その一文は愛よりも長く、逃避よりも長く、この世界の一員となることよりも長く伸びている。初めて受けた授業みたいにいつまでも消えない。こわれた記憶をつきとめて発見したいという僕の欲求よりも長く続いている。

ふう。ため息が出るような、美しい一節です。レールをたどりながら、記憶をたどろうとしている。遠いところにある、「誰か」の言葉。走り出してしまえば、どんどんそこから遠ざかってしまうであろう、「誰か」の言葉。


ということで、今日はここ(P31)まで。ちなみに、訳は若島正。文章のみずみずしさは、この訳者の力によるところも大きいと思われます。