『ガラテイア2.2』リチャード・パワーズ【1】

ガラテイア2.2
あんまり暇がないんで、ちょっと更新を休もうかなと思ってたんですが、やっかいそうな本を読み始めちゃいました。
『ガラテイア2.2』リチャード・パワーズ
です。
パワーズは、デビュー作『舞踏会へ向かう三人の農夫』が素晴らしくよくって、他の作品も読んでみたいと思ってたんですよ。ただし、読みやすい小説じゃありません。いわゆる「現代文学」の最もややこしくておいしいところが詰まってる小説、といった感じ。この『ガラティア2.2』も、ぶ厚いし、集中力がいりそうで、買ったはいいけど、積んでおいた一冊。
でも、ちょっとぱらぱらっとめくったら、いきなり冒頭の一節が目に飛び込んできて、やられちゃいました。

僕は三十五歳と別れてしまった。

年齢が引っかかったんですよ。僕は現在36歳なんですが、「三十五歳と別れてしまった」ってどういうことなんでしょう? 36歳になったってことかな? だとすれば、この小説の語り手は、僕と同い年だってことになる。
急に、この小説に何が書かれているのか、気になってきました。今、読もう。今、読まなくちゃ。今しかない。そんな気持ちになって、読み始めちゃったわけです。


では、いきましょう。
もう一度、冒頭の部分から。

言ってみればこんな話だが、本当はそうじゃない。
僕は三十五歳と別れてしまった。言葉も耳慣れず、官憲も愛想が悪い、異国の町に来てうろうろしていたときのことだ。悪かったのは僕だ。僕はこう言った、「ちょっとここで待ってて。両替してくるから。パスポートとかに気をつけてくれよ。どんなことがあっても、ここから動くんじゃないぞ」。その瞬間を狙って、カオスが襲ったのだ。

まったく、何が書いてあるのかわかりません。どうやらこれから始まるのは、「三十五歳と別れてしまった」って話のようです。でも、「本当はそうじゃない」って宣言している。しょっぱなからかましてくれます。
物語は、作家である「僕」が、35歳のときにアメリカのUという町にある母校へ、客員研究員として招かれるところから始まります。「僕」の研究室は、最先端科学研究所のどでかいセンターにあり、そこで研究者のような顔をしながら執筆活動を行っています。
それにしても、パワーズの文章は情報量が多いです。

Uで僕は、絵画に政治がコード化できるのを初めて知り、ソナタが生けるヒエラルキーのように幾層にも分かれていくのを初めて聞き、文章がリズミカルに連動していくのを初めて感じた。他人の肉体の濡れたシャミーレザーに初めて自分自身を埋め込んだのもここUだ。ここのはかない四年間で、初恋は溶解し、昇華して、蒸発した。
僕はこの町で最愛の物理学を裏切り、文学と寝た。弟が電話をかけてきて、おやじが死んだことを知らせてくれた。僕はUでCと生活を共にした。一緒にUを出て、このけちくさい場所からずらかり、世界中をひやかしてまわり、これからの人生を一緒に過ごそうと誓い合ったが、その冒険は三十五歳で終わった。こんな片田舎には、僕に投げつける石もおそらくもう残ってはいないだろう。

かつてUで暮らしていた若かりし頃について語っているわけですが、この情報量の多さはどうでしょう。大学生ってことは、20歳くらいでしょ。そこから数えて15年間を、だだーっと要約しちゃってる。理系文系に渡り感受性豊かな青春時代を送ったことや、家族関係や恋人との関係などなど。これだけで、主人公の人物像が浮かび上がってきます。
あと、気になるのが、固有名詞の表記。町の名前は「U」、恋人の名前は「C」です。何でこんな記号めいた書き方をしているのか? 作者が何か企んでる気がしますね。
続いて、最先端科学研究所センターの描写です。

センターでの研究分野は高度に専門化していて、名前を見ただけではどんな研究なのかわからない。分野名の半数にはハイフンが付いていた。創造力が境界からあふれだし、交配期の雑種トウモロコシみたいに他家受粉している。センターの公の空間での会話は国連のピクニックさながらで、興奮して、わあわあわめいて、互いにまったく話が通じない。ある人間が何を専門にしているのか、説明してもらってもよくわからないというのは気分がいいものだ。
大方の関心の的になっているのは複雑系だった。人工知能認知科学、視覚化と信号処理、神経化学といった、数本の光線が交差する頂点に、長い冒険をしてきた意識に対する究極の褒美が待っている。それは脳の持ち主のためのマニュアルだ。それぞれ独立していても大きく並行している無数のサブシステムを持つセンターは、それが研究対象にしているニューロンの集まりを一区画の広さにまで拡大したみたいに思えた。

これまた、あれもこれもといろんな情報が詰め込まれています。次々と繰り出される魅力的な比喩に、ひねった物言い。決して難しくはないんだけど、すっと読み流せないような文体になっています。「複雑系」についても「ニューロン」についても、僕はよく理解してませんが、センターが脳の比喩になっているということは何となくわかります。コニー・ウィリスの『航路』っていうSFにも、そんな描写があったような気がします。
「僕」は、研究室で執筆をしながら、インターネットであちこちのサイトを巡って気晴らしをします。ウェブもまた、脳のアナロジーで語ることができるものですね。全世界を覆う脳。ちなみにこの小説が書かれたのが95年。今となってはもうずいぶんと昔のような気がしますが、こんな一節は、今でも通用すると思います。

ウェブというものは新たな近隣であり、従来の近隣よりも能率的に孤独だ。その孤独感はいっそう大きくて速い。とどまるところを知らない知性がついにその計画を完了し、とうとう最後の一人となった、裸足の虐待されていた子供が、端末のドロップボックスでオンラインに結ばれ、誰もが生きている他の誰もに対してすぐに何か話しかけられるようになったとしても、僕たちはまだお互いに何も言うことがないし、それを言わずにすませる方法もまだたくさんあるんじゃないだろうか。

果たして僕らに言うべきことなんかあるんだろうか? 僕らはそうまでして喋らなきゃいけないんだろうか? この問いは、おそらくネットの話に留まらないでしょう。「小説」というものに対する問いのように思えてなりません。


ということで、今日はここ(P11)まで。まだたったの11ページ。ほんのさわりですが、いちいち引用したくなって困ります。これは、期待していいんじゃないかな。