『囚人のジレンマ』リチャード・パワーズ【1】


囚人のジレンマ
リチャード・パワーズ、好きなんですよ。と言っても、まだ2作しか読んだことないんですが。これまでに読んだ2冊『舞踏会へ向かう三人の農夫』と『ガラテイア2.2』は、小説を読む醍醐味をたっぷり味わわせてくれました。ただし、軽く読める小説じゃないことも確か。一冊の中に詰め込まれた情報量が膨大で、一筋縄ではいかないということも、この2冊で経験済みです。その上、長い。まあ、長い本を読みたくて、このブログをやってるんですけどね。
ということで、今回は、
囚人のジレンマリチャード・パワーズ
です。
この作品は、『舞踏会へ向かう三人の農夫』に次ぐ長編第二作。1988年の作品で、2段組で400ページ以上あります。扉を開くと、ただひと言だけ「パワーズ家」とありますが、「家族」をテーマにした作品のようです。『ガラテイア2.2』でも、これまでの作品を振り返るパートで自分の父親に絡めて言及されていましたっけ。
それにしても、この表紙のポップさはなかなかいいですね。みすず書房の本とは思えない。ショッキングピンクにお茶目なシルエット。スタンプで押したようなかすれた英字。これだけで、ちょっと手に取ってみたくなります。


では、本文にいきましょう。
まずは、「なぞなぞ」と題された章から始まります。

どこかで、父が僕たちに星座の名前を教えている。僕らは寒いなか、暗い裏庭で、十一月の堅い地面の上に仰向けに寝ころがっている。僕たち子どもは、ハンカチを散らしたみたいに父の大きな体の上に散らばっている。父は僕らの重みを感じていない。安物の六ボルト懐中電灯の光を操って、父は空を覆う黒い殻に点々と空いた穴を指し示す。凍りついた地面に横たわる僕たちの前に、冬の空という、挿絵入りの教科書が広がっている。六ボルトの光が世界でただ1か所、ほのかに暖かい場所を作り出している。
父は自分が最も得意なことをやっている。この世で唯一、やり方を知っていることをやっている。自分の子供たちにクイズを出し、質問を浴びせるのだ。

冒頭部分から引用。ああ、いいなあ。早速いいなあ。冬の夜、地面に横たわり星座を眺める、父と子供たち。「ハンカチを散らしたみたい」ってのがいいです。小さな子供たちを受け止める父親の大きさが伝わってくる。しんしんと冷えた夜気。懐中電灯のわずかな明かりがぬくもりを感じさせるのは、そこに漂う幸福感のせいでしょう。
これは、語り手による回想シーンですが、「どこかで」と始まるところを見ると、どうも明確な記憶というよりは、幸福だった頃の家族のイメージという類いのものだと思われます。頭上に広がる巨大な星空と、小さな懐中電灯の明かりに寄り添う家族。彼らはまるで宇宙空間にぽつんと浮かんでいるかのようです。そこには、あたたかな幸福感とともに、どこか外界から切り離されたような寄る辺なさが漂っている。
この父親は、マッチョな父親というよりも、知性を重んじるタイプのようです。何かと言うと子供たちをクイズ責めにする。「父は僕たちになぞなぞでしか話さない」。身の回りのすべてが父親のクイズのネタとなります。星空の観察もまた、父親の授業の一種です。「冬の空という、挿絵入りの教科書」。
なかなかユニークなお父さんですが、自分の親だとしたらちょっと面倒くさいですね。そのクイズも様々で、パズルのように答えが明快なものもあれば、哲学問答のようなものもある。曰く「ドアはどうなったらドアでなくなるか?」「なぜ人は、空を絵で埋め尽くさずにはいられないんだと思う?」「隣り合う州が同じ色にならないよう地図を塗りわけるには、最低何色必要か?」などなど。
父の与える叡知。でも、これらのなぞなぞの根底には、さらに深い意味がありそうな気もします。

僕たち一人ひとりの内部には、壮大な叙事詩の原稿が小さなスケールで書き込まれている。その世界地図にびっしりと書き込まれた政治的関係は僕らの体を埋め尽くし、そのあまりの濃密さに僕らは破裂してしまいかねない。父が問いかけていたのは、それらすべてを通り抜けて、ひとつの協定に達するすべをどう見出すかということなのだ。

うーん、わかるようなわからないような。もうちょっと読み進まないとなんとも言えないですね。


続いて「1」とナンバーの振られた章。前章の語りは一人称でしたが、ここでは三人称の語りが使われています。

単なる神経過敏の産物以上のものを父さんが長年ずっと見ていたことを示す最初の徴候は、終わりが訪れる何週間か前に現われた。秋の晩、父さんは玄関ポーチでアーティのほうに身を乗り出し、はっきり「カラマイン」と言ったのだ。

父はエドワード・ホブソン・シニア、アーティはその息子です。夕食後、ポーチでのくつろぎの時間。そのとき、父が口にしたひと言。でも、「カラマイン」って何? 出だしから謎めいていますが、それもそのはず、これはホブソン氏から息子への謎かけです。アーティは、このたったひと言から、父の言わんとすることを読み解かなければならない。いや、「ならない」ってことはないんですが、この親子の間ではこうしたやりとりが習い性になっているんでしょう。言ってみれば、家族間でしか通用しないゲームのようなもの。

「どうした、息子?」サディスティックで小賢しい笑いで言葉を肉付けして父さんが訊いた。息子の胸に、父への憎悪が満ちた。アーティが自尊心を保つのに必要な千の見せかけ、その一番些細なものまで父さんはいつだって見抜いてきたし、これからも見抜きつづけるだろう。そう思い知らされるたびに、静かな嫌悪感が湧いてくる。長く一緒に暮らしすぎたのだ。父さんはアーティのリズムをつかんでいる。いや、もっとたちが悪い。アーティのリズムは、父さんのリズムなのだ。お下がりのリズム。なのにいまアーティは、自分にドリブルを教えた男を振り切ろうとしている。

確かにこういう父親の態度は、イラっときますね。ホブソン氏は高校の歴史教師だったようですが、この態度はいかにも教師然とした憎たらしさがあります。それにしても、アーティには、「答えない」という選択肢はないんでしょうか? ないんでしょうね。そのことからも、父親の息子に対する影響力の大きさがわかる。「お下がりのリズム」とはよく言ったもんです。父を越えられない息子の屈折。
アーティは、「カラマイン」の謎を解こうと、あれこれ思いをめぐらせます。ページをめくってもめくっても、なかなか答えにたどり着かない。そして、どうやら家族の記憶に関わるものだということがわかってくる。

何もかもがいっぺんによみがえる。摘出する痛みのほうが、あのもはや取り戻せない瞬間がかつてもたらした喜びよりもはるかに大きかった。アーティの目の前にそっくり浮かんだもの、彼がかかわるべきでなかった一騎討ちを通してセカンドストリートの玄関ポーチに持ち込まれたのは、ホブソン家の過去から切りとられたある夏の映像、何年も前の海辺での休暇の情景だった。

「摘出」という言い方が気になります。思い出すことに痛みが伴っている。11月の夜、ふいに訪れる少年時代の幸福な夏。幸せなあの頃が甦るときに痛みを感じるのは、それがもはや手の届かない遠いものになっているからです。
「カラマイン」が何かはここでは書かないでおきますが、このあと、海辺の夏を描き出し最後に「カラマイン」へとたどり着く、パワーズの筆致は見事です。まるまる1章かけて、この一語から家族の思い出を甦らせる。思考の流れを再現したような、鮮やかな着地。
ところで、現在、ホブソン氏は病気のようです。そのため、すでに大人になって家を出ていた子供たちは、母親から連絡を受け、休暇を取って実家に集まっている。アーティが思いをめぐらせる中で、このあたりの事情が少しずつ見えてきます。それと同時に、この父と子の関係も浮かび上がってくる。「カラマイン」の謎で引っぱりながら、これだけのことを盛り込んでいるわけです。上手いなあ。引き込まれるなあ。
そして、この章の終わり、ポーチでの謎かけのあと、父親は発作を起こして倒れてしまいます。このあと話がどう進んでいくかはわかりませんが、章の冒頭に出てきた、「終わりが訪れる何週間か前」というのは、おそらく父の死を意味してるんでしょう。そう考えると、父親の謎かけに付き合ってあげて正解だったのかもしれません。


ということで、今日はここ(P24)まで。まだほんのさわりですが、やっぱりパワーズは面白いです。「ドアはどうなったらドアでなくなるか?」、難問ですね。