『囚人のジレンマ』リチャード・パワーズ【7】


この小説は、3つのパートに分かれているっぽいんですが、これからは、ナンバリングされた章を「ホブソン家パート」、ナンバーなしの一人称の章を「回想パート」と年号が章題になっている章を「年号パート」と呼ぶことにしましょう。
で、今回は、「年号パート」から。


「一九四二年 春」の章。
真珠湾攻撃を受け、アメリカは戦時体制に入ります。そして、アメリカの国民感情は、一気に日系アメリカ人排斥へと雪崩れていく。日本人の血を引くアメリカ人は破壊行為をする可能性があるとして、強制収容所へ入れられることになります。
パワーズは、こうした国民感情を、「高潔でいてやられてしまうより、生きのびて名誉を失うほうがましだ」と表現しています。これは、911以降のアメリカの状況によく似ています。いや、アメリカだけじゃないですね。この手の意見は、今の日本でも、ちょいちょい見かけます。例えば、オウムや北朝鮮に対する感情は、まさにここに描かれているようなものじゃないでしょうか。
よくある「理想主義より現実主義を」というような物言いは、僕たちが「囚人のジレンマ」に囚われていることを示しています。お互いを信頼すれば、被害は最小に留められる。でも、信頼できないならば、「やられる前にやれ」というヤツです。これは何かが間違っている。予断によって罪を犯していない人が排斥されていいはずがない。でも、このジレンマをどうやって乗り越えたらいいのか、正直僕にはよくわかりません。
こうした第二次大戦下のクロニクルに、またしてもディズニーが登場します。前の章に出てきたように、ディズニーは戦意高揚映画を作り続ける。『空軍力の勝利』という作品はノルマンディ侵攻に影響を与え、反ナチ映画『総統の顔』はアカデミー賞を獲るほどのヒットを飛ばします。
しかし、ディズニーはそれだけじゃ満足しません。この努力家で野心家のアニメーション作家は、もっと多くの人に訴えかける誰も作ったことのないような作品を夢見ます。現在をそして世界をそのまんま実感として伝えるような、「鋼(はがね)のようにタフなおとぎ話」を。
そんな中、ディズニーはある日、スタジオの日系人スタッフが姿を消していることに気づきます。そのことに彼はショックを受ける。

彼はハッと目を上げる。しばらくのあいだ、テーブルの周りで顧問団の姿が揺らめいて、スタジオの飯のタネたるアニメーションのキャラクターに変化する。彼らは漫画の裁判所に、陪審員団に変貌する。彼の右には手袋をはめた、子どもじみた手を顔の前で物憂げに組むミッキーがいる。ミニーは尻尾の先でテーブルをとんとん叩いている。ドナルドの耳から煙が出てくる。マヌケ犬グーフィはとことん打ちひしがれた様子でぼんやり前を見ている。じきにその光景は薄れていき、気がつくとディズニーはふたたび、やはり同じように意気消沈している彼のアイデアマンたちを見ていた。

現実の中にアニメーションが侵食してくる。この世界は、アニメーションのように気違いじみている。ディズニーの中で、フィクションとリアルがせめぎ合っているかのようなシーンです。まるで、ミッキーと現実の指揮者が握手をしたように。
そして、彼はアニメーションと実写を融合させた新たな映画の着想を得ます。その「鋼のようにタフなおとぎ話」のタイトルはこうです。『きみが戦争だ』。


続いて「ホブソン家パート」。「8」の章はわずか2ページ。
朝、玄関ポーチにいるアーティに父が話しかけるシーン。

アーティは思う。人はどうやって、自分の人生を揺るがす出来事をおぼろげに予感しながらも打ちのめされることなく生きられるのだろう。が、答えが見つかる前に後ろから声が聞こえて、思いをさえぎった。「人間誰にでも、誰もが……」
アーティは思わず、父さんの格言を締めくくった。「思っている以上のものがある」。だが、振り返って父と顔を合わせることはしなかった。

おっ、この格言は、前の章でウイジャーボードが出した答えじゃないですか。「人間誰にでも、誰もが思っている以上のものがある」。でも、ホブソン氏の格言は、いつも謎めいていて、何を言わんとしているのかがよくわからない。解釈次第でどうとでも取れそうな気がします。この家族は、こういう多義的な格言を日々浴びてきたわけです。
では、「9」の章。
ホブソン氏は、クリスマスの感謝祭を迎えたあとじゃないと病院には行かないと主張します。もちろん、せっかくの決心を翻されたくない家族は、それに従うしかありません。ということで、ひとまず、アーティとレイチェルは、それぞれ自分たちの家に帰ることにします。両親と共に住んでいるリリーとエディ・ジュニアは、ディカルブの家に残ります。

二人が家を発つ前に、ここ数年クローゼットの奥にフィルムなしでしまい込んであったカメラをリリーが引っぱり出してきてみんなを驚かせたレイチェルとアーティの出発という、およそパッとしない情景を彼女は律義に記録した。こんなふうにしてリリーは、「宴(うたげ)か飢饉か」とも言うべきホブソン家長年の伝統を守りつづけてきた。一家のアルバムには、干魃と豊作が交互に生じていた。何年ものあいだ一枚の写真も加えないかと思えば、玄関付近をぶらぶらする五人を誰かが一ダースばかり撮影して、かりに何か意義があったところでそれもじきに忘れられてしまう程度の瞬間に、いかにも大切な瞬間であるかのような誤った印象を付与するのである。

写真って、被写体を記録するだけじゃなくて、カメラを向ける側の記録でもあるんだと思います。僕は実家を出ちゃってるんで余計にそう思うのかもしれないんですが、家族写真はそれを撮ろうと思った家族の思いが込められているような気がして、ちょっとキュンとなります。
ホブソン家の場合、撮影されるのがなんてことない場面というのが面白い。「干魃と豊作」とは、上手いこと言いますね。たいした意味もなく、思い出したように撮られる写真。それが、この家族のあり方を示しているような気がします。お互いを気にかけているんだけど、気にかけてないような顔をしてる。
この家族写真は、ホブソン家特有の儀式のようにも思えます。いや、儀式というほど大げさなものじゃありませんが、長年くり返されてきて「うちの家族っていつもこうだよね」というささやかな行動様式。こういうシーンに、僕は魅かれます。これが、家族を家族たらしめているような気がするんですよ。僕が実家に帰ってお茶を飲むとき、必ず僕が高校時代の修学旅行で絵付けをした湯飲みが出されます。「これ、あんたが描いたのよねえ」と、毎回言われる。そんなささいなことに、「家族」を感じるんですよ。
もう一つ、家族の儀式めいたシーンが登場します。レイチェルの主導で、「みよやエサイ」という聖歌を合唱するシーン。徐々に家族みんなが声を合わせはじめ、自然にハーモニーが形作られます。

と、誰もが何とか回避しようと頑張っていた瞬間が、そっくりそこに出現した。テノールが半音の狭い階段を降りてファのシャープに移るそのとき、優しい訪れの瞬間が彼らの上を漂った。つかのま、誰もがそれを感じた。そして、そのつかのまの感覚に、ほかのみんなも囚われたことが彼らにはわかった。皮肉、ウィット、不安、はぐらかし、すべて剥ぎとられて、六人全員がひとつの場所に見入っていた。表面が掻き消え、その下のひそんでいた静止点のなかに彼らは見る、家族の誰にとってもあまりに明白な事実を。長年、彼らはそれを否定しつづけてきた――家族みんなが、互いのことを、どうしようもなく気にかけていることを。互いを気遣うそうした思いが、立候補者の犯罪記録のように、呼びもしないのに彼らのあいだに大きく浮かび上がっていた。なすすべもなく、彼らはそれに自分たちの和音を合わせるしかなかった。呆然として立ちつくし、落とし穴になだれ込み、自分たちのあいだの絆を、ゆるゆると彼らをとらえ破壊してしまいかねない絆を思い知らされた。荘厳な合唱に囚われ、互いの顔から読みとった数々の事実に囚われながら、じきにみんなが感じた。もろい、危うい、美しい亀裂はいまやふさがり、私たちはいつもの、救いがたい声に呼び戻され、主音に戻っていこうとしている。すくいぬしこそ、あましけれ。

とても美しいシーンですね。ピタリと合ったハーモニーが、家族の絆を露にする。そのことを家族みんなが同時に気づく。このホブソン家が面白いのは、そうした家族の絆から何故か目を逸らそうとしていること。なのに、この合唱がそれを知らしめてしまう。パワーズの巧みな比喩によれば、「立候補者の犯罪記録のように」。
絆は、「彼らをとらえ破壊してしまいかねない」。つまり、思いやりの心が彼らを苦しめるわけです。だから、それぞれが「個」であろうとして、その心をジョークやゲームやクイズで覆い隠しているんでしょう。
にもかかわらず、この合唱のシーンで家族が一つになる。「すくいぬしこそ、あましけれ」はこの聖歌の一節ですが、家族の思いがそこに結実する。音楽がその思いとシンクロしているところが素晴らしいです。バラけた思いがハーモニーとなって、「すくいぬしこそ、あましけれ」の合唱へと着地する。いいなあ、このシーン。
さて、レイチェルとアーティーが家を去ったあと、エディ・ジュニアとホブソン氏はポーチで語り合います。ジュニアとシニア、二人のエディの会話は、例によって「囚人のジレンマ」について。丸めた靴下と灰皿でお手玉をしながら「火には火を」「僕の背中を掻いてくれたら君の背中も掻いたげる」と言うジュニアに対し、それは解決にならないということを論証するエディ・シニア。
このあとのジュニアの答えが、父親の心を動かします。その答えは、ここには書きませんが、この末っ子らしいチャーミングさは、ちょっといい。お手玉と議論という、ホブソン家らしいシーンですが、やはりその底には愛情が流れている。そして、父が徹底的に隠そうとしてきた感傷も。


ということで、今日はここ(P176)まで。読んでいると、僕も自分の両親を思い出して、何とも言えない気分になります。家族ってのは、他人じゃないから難しいんですよ。