『囚人のジレンマ』リチャード・パワーズ【6】


「6」の章。
父親が病院に行くと宣言した日の夕食。しかし、ホブソン家の食卓では誰もそのことに触れないうちに、またしても父のクイズが始まります。その名も「酔っ払いと街灯」、別名「ランダムウォーク」。

「ひとりの酔っ払いを街灯に寄りかからせてみよう。そしてその酔っ払いが、ランダムな歩数を歩いたのちランダムな角度で曲がる、という行動をつづけると仮定しよう。どこに行きつく?」
「最初の位置からどんどん遠く、ランダムな方向に離れていくんじゃないかな」父を喜ばせようとエディ・ジュニアが精いっぱい努力する。
「いずれは街灯に戻ってくるんだよ」とアーティ。どこかで読んだことがあるのだ。
「リハビリセンターよ」。レイチェルが無表情に言ってのける。この一言が騒動を巻き起こした。ペッパーステーキをほおばっていたリリーがむせはじめた。

四者四様の子供たち。父の「ランダム」という言葉を引き継ぐエディのチャーミングさは、いかにも末っ子という感じです。淡々といなすアーティは、やっぱり長男ですね。そして、辛辣なジョークを口にするレイチェルは、奔放な次女。誰もが避けていた病院の話題を、何も気にしていない振りして蒸し返します。真面目なリリーはそのことに驚き、むせてしまいます。
リリーにとって、レイチェルは無神経に映ったのでしょう。腹を立てた彼女は、席を立って自分の部屋へと閉じ籠ってしまいます。しばらくして、レイチェルがリリーの部屋を訪れるシーンでも、この姉妹のキャラクターの違いが浮かび上がります。

数時間後、夜の戸締りも済んでから、レイチは飲み屋から戻ってきて、リリーの部屋のドアをノックした。姉の「どうぞ」という声はほとんど陽気に聞こえた。何もなかったのよ、リリーはそうふるまう気なのだ。レイチは部屋に入って、アンティークのひじ掛け椅子に坐った。ニヤッと、慰める気か傷つける気かわからないたぐいの笑顔をつくった。そしてやっと、唯一自分が知っているやり方でレイチは許しを乞うた。「何かして遊びましょ」。

夕食での出来事を自分の中に呑み込んでなかったことにしようとするリリーと、ふざけながらでしか許しを乞うことができないレイチェル。僕はどちらかと言えば、リリーに近いタイプかな。蒸し返したくないわけですよ。「許すとか許さないじゃなくて、私とあなたは違う、それでいいじゃない」という感じ。
結局、二人はタイプライターで交互にきっちり2行分の文字を打って会話するという遊びを始めます。この2行タイプの会話は、本文とは違うフォントで表記されています。文字数を2行きっかりに収めなきゃならないから、訳者は苦労したんじゃないかな。
二人の会話はゲームのルールに縛られているため、なかなか真意が掴みづらい。その上、どの行がリリーでどの行がレイチェルの発言なのか絶えず見極めながら読まなきゃならなりません。このあたりは、いかにも現代文学という感じで、「語りの仕掛け」が凝らされています。
それはそれで面白いんですが、僕が気になるのは、この家族がコミュニケーションを図るときいつもゲームやクイズをしてるということ。これまでにも、カードゲームやキャッチボールが出てきましたが、会話は常に遊戯と共にあります。レイチェルの言う「何かして遊びましょ」とは、「お話しましょ」ってことなんですよ。
次に、二人はタイプをやめにして、ウィジャーボードを始めます。軽く指を乗せたポインターを文字の書かれたボードの上ですべらせる、日本で言う「こっくりさん」。二人は精霊に様々な質問をするんですが、別にスピリチュアルなものを信じてるわけじゃなく、これもどこか遊び気分のようです。
精霊の答えは、カタコトだったり文法がおかしかったりぶつ切れだったりして、なかなか意味が読み取りにくい。さらに、精霊が答えを出してるのか、リリーかレイチェルのどちらかがポインターを動かしてるのかによって、答えの意味合いも変わってきます。つまり、これまた真意が読み取りづらい仕掛けになっているんですよ。さっきのタイプ遊びもそうですが、これはある種のクイズですね。真意を探るクイズ。
ウィジャーボードには、途中から父親も参加することになり、レイチェルはついに禁断の質問へと踏み込みます。「要するに、父さんのどこが悪いの?」。その答えは、とても不吉なものでした。「MORE TO ANY THAN ANY SUSPECTS(誰にも思っている以上のもっとある)」。文法が変ですが、言わんとすることはわかりますね。父は思っている以上に悪いと。


「7」の章。
この章で、クローズアップされるのは、ホブソン氏の妻であり4人の子供たちの母親であるアイリーン。家族が寝静まった夜、アイリーンは一人ダイニングテーブルに座り、物思いにふけります。彼女は、「人々は物事を実際よりも複雑にしてしまっている」と思っています。人々とは、もちろん、彼女を除く家族みんなのこと。「複雑にしてしまっている」こととは、例えばゲーム、クイズ、食卓で繰り広げられる議論などなど。彼女は、大学に行かなかったことにコンプレックスを抱く半面、大学で学んだとしてもそれが人生の問題を複雑にするだけだと思っているようです。

無邪気さの至福を生きるには、彼女は生まれつき知性が備わりすぎていた。とはいえ、いまさら学位を取ろうにも混乱を招くだけなので、結局彼女が求めたのは、互いの敬意に支えられ利害が衝突しない、耕作可能な、世界のほんの一画だった。その目的に沿って家庭も設計した。夫と子どもたちには損得抜きの、尽きることない愛情を注いだ。下着を漂白剤に浸け、彼らが汚した物を洗い、買い物リストをつくり、食料を買い込む。これらすべてを不平ひとつ言わずに、家族みんながいつの日か彼らなりのやり方で、必要になったら、彼女が注いできた信頼の恩返しをしてくれるだろう、そう信じてこなしてきた。そして今夜、彼女には恩返しが必要だった。

キーワードは「信頼」でしょうか。「囚人のジレンマ」の議論の際、アイリーンは「必要なのはお互いが相手を信用することだけ」と答えました。物事を複雑にする必要はない。「私か」「私たちか」の選択では、皆が「私たち」を選べばいいのです。だから彼女は、いつか家族が「信頼の恩返し」をしてくれると信じている。でも、そんなに上手くいくんでしょうか? そう思っちゃう僕は、考え過ぎの病に侵されているんでしょうか?

三十年ほど前、彼女が結婚生活に慣れてきたばかりのころ、夫はギザギザのピンキングばさみ――もうずっと前に交際もとだえたアイリーンの女友達から贈られた結婚祝いだ――を取り出し、彼女がようやく手に入れたクレジットカードにジョキジョキと手際よくハサミを入れた。(中略)彼は単に、信用(クレジット)という傘の下で生きること、まだ支払っていないものを所有することができない人間だったのだ。日増しにつのる驚嘆の念とともにアイリーンは思い知らされた。自分はアメリカ最後の、借金ができない男と結婚したのだ。それが彼の黄金律だった。あらかじめ存在しないものを当てにする権利は誰にもない。エディが実践したすべての営み、食卓での議論、教育的なぞなぞ、悪意のない冗談、はったり、働いたり働かなかったりの就業パターン、そして失神さえも、すべてがまったく同じことを伝えていた。ホブズタウンとは、完全な自給自足の原則を実践する唯一の独立国なのだ。

これは20年前に書かれた小説ですが、サブプラム・ローンのことを考えると、アメリカはまさにクレジットの傘の下で生きる国だと腑に落ちます。そんなアメリカにいながら、クレジットカードにハサミを入れるというのは、ほとんど反社会的行為なんじゃないでしょうか。
ここでも問題になるのは「信用」です。「あらかじめ存在しないものを当てにする権利は誰にもない」からこそ、ホブソン氏は誰にも助けを求めず無害に卒倒し続ける。社会と「信用」の契約を交わそうとせず、一人ホブズタウンに避難します。
「信用」から遠く距離を置くホブソン氏は、「物事は単純である」というアイリーンの経験則に当てはまらない。ですから、そんなホブソン氏が病院に行くことを承知したのは、アイリーンにとってとても大きな出来事でした。

エディは彼女にゴーサインを出したのだ。彼女の信頼に信頼が返されたのだ。(中略)今夜、彼女にはニュースがあった。夫の症状一つひとつが、「私を看病してくれ」を意味する、手の込んだホブソン語であることを彼女は知っている。だから、いま、彼女はそうするのだ。

ドキッとしますね。ホブズタウンからホブソン家へ、ただ一人の独立国から自分たちだけのやり方で会話をする小さな家族へ、ホブソン氏は助けを求めている。「彼女の信頼に信頼が返されたのだ」。それが、夫の病の行き着く先だと思うと、何とも言えない痛ましさのようなものを感じます。


ということで、今日はここ(P145)まで。もうちょっとペースを上げていきたい気もしますが、まあ慌てずにやりましょう。