『囚人のジレンマ』リチャード・パワーズ【8】


「回想パート」は、おそらく子供たちの一人だと思われる人物が、一人称で父のことを回想しています。その時点では父親はもう亡くなっているらしく、語り手は、思い出からもう父親の人生を組み立て直そうしているようです。そのせいか、どこかセンチメンタルな気配が漂っているところが、このパートの読みどころだと思います。
では、そんな「回想パート」からいきましょう。


章題は、「目には目を」。

父は僕たちに話をするとき、もっぱらお気に入りの格言を使った。それらはいわば、どんな状況にも合うよう調教された馬でいっぱいの厩舎だった。よく聞かされたフレーズはいまも僕の耳に、アルファベットと同じくらい染みついている。使い古された警句から、父がいかなる新たな錯乱をしぼり出そうとしているのか、それらにいかなる異質の状況を詰め込もうとしているのか、僕たちにはっきりわかったためしがなかった。父はそれらの言葉で、すべてのことと、その反対のすべてを表わそうとしたのだ。僕たちにもあらかじめわかっていたのは、僕らが世界に押しつぶされそうになっているときでも、まだ今後人生は組み立て直せるんだと父に言ってほしくて仕方ないときでも、いつだって父は十八番の格言をひとつふたつ口にするだけで、すべてをそれらに託してしまうということだった。父親とはそういうものなんだ、とずいぶん長いあいだ僕は思っていた。誰もが知っているように、すべてのインディアンは一列で歩くのだから。

冒頭部分です。父親の格言は謎めいていて、何を言わんとしているのかよくわからない。これは、例の答えのないクイズと同じパターンですね。おそらく、父親は答えを与えることをわざと避けているんでしょう。「あとはお前たちが考えなさい」と。そのせいで、語り手は父の死後もこの格言の意味を考えつづけることになる。
「自分で考えろ」と突き放しているものの、「俺の背中を見て学べ」的なマッチョな父親とは違います。僕には、当の父親にも答えを出せないんじゃないか、って気がするんですよ。世界は複雑で、答えは一つじゃない。だから、多義的な格言を口にしてすべてを表わそうとする。あらゆる一般論を信じてはならない。「すべてのインディアンは一列で歩く」、世の中はそんな風にはできていないわけです。
以下、このインディアンの格言を始めとした、父の格言が次々と挙げられていきます。面白いので、ちょっと書き写しましょう。「人間誰にでも、誰もが思っている以上のものがある」「好きなだけ取れ、でも取ったら残さず食べろ」「われわれはときに、自分の意志で行動するように他人にけしかけてもらう必要がある」「もし君が安物のバケツで波を汲み出してやれば、きみと月とで多くを為すことができる」「世界がすでに失われていると仮定してごらん」「運命とはわれわれがタイムカプセルに詰め込むガラクタである」「ここは私たちがここへ着くに至った過程である」などなど。
うーん、全部にコメントしたくなるけど、長くなるので省きます。この格言一つひとつが語り手の心に深く根づき、亡き父を考えるよすがになる。「タイムカプセル」がまた出てきましたね。父の教え通り、語り手は父のタイムカプセルを掘り起こし、その人生を読み解こうとしているのです。
父のタイムカプセルとは、数多くの格言だけではありません。これまで父が家族に語ってきた自分史もその一つ。ただし、語り手が再構成した戦時中のエディ・ホブソン少年の姿は、これまで読んできた章と響き合いながらも、何となく微妙なズレがある気がします。スッと腑に落ちるようなつながり方をしないんですよ。どこかに断絶があるのか? それとも語り手のバイアスがかかっているのか?
例えば、エディ・ホブソンが戦闘機のパイロットに志願するシーン。彼は、戦闘機乗りだった兄を亡くしてしまい、その替わりに出兵しようとします。

それほど空を飛びたがる理由を訊かれて、誰もが口にする動機を父さんは口にした。国家首脳ですらそれ以上の答えは出しようのない解答。火には火を。復讐。

「火には火を」。これは、前章でエディ・ジュニアが口にした言葉です。その際、ホブソン氏は、それは問題解決にはつながらいということを、いささか意地悪く指摘していました。そんな彼が、若かりし頃に同じ言葉を口にしていたわけです。ここに、後のホブソン氏とのズレがある。こういうところ、気になりますね。
または、後に結婚することになるアイリーンとのなれそめのシーン。二人は、「子供は何人欲しい?」というような会話を交わします。

そのあと父は慎重になった。一分後、こっそり付け加える。「子どもっていうのは唯一、確実に護ってくれるものだからね」。それはとうてい僕たちのことではありえなかった。

これまた、「あらかじめ存在しないものを当てにする権利は誰にもない」という、後のホブソン氏の黄金律とのズレを感じますね。実際、語り手も父を護ることができたとは思っていません。「それはとうてい僕たちのことではありえなかった」というひと言が、痛切に響きます。
さて、この章のおしまい近くに、面白いフレーズが出てきます。曰く「タラはトラより記憶に残る」。

タラはトラより記憶に残る。私たちはよみがえり、再建し、厚手のカーテンからあの緑のドレスを作った活発なイギリス少女のように衣装を縫い直す。ロンドン大空襲はその虚構上の犠牲者、防空壕にこもって子どもたちに『不思議の国のアリス』を読んで聞かせるミニヴァー夫人に姿を変える。長期的な影響はともあれ、私たちは「夜と霧」より「夜も昼も」を記憶にとどめる。死傷者自身ですらそれに異を唱えはしない。

これは、固有名詞に絡めたウィットが詰め込まれた、非常にパワーズらしい一節です。「タラ」は映画『風と共に去りぬ』のヒロイン。「トラ」は戦時中の暗号「トラ!トラ!トラ!」のこと。『ミニヴァー夫人』も映画のタイトルです。『夜と霧』はナチス強制収容所を描いたノンフィクション。「夜も昼も(ナイト・アンド・デイ)」はコール・ポーターのポピュラーソング。訳注などを頼りに読むと、そんなところでしょうか。
もちろんここには、とびきり陽気なグレン・ミラーや陳腐なハリウッド製の映画を愛した父の姿が重ねられています。さらに、フィクションと現実のせめぎ合いを体現していた、ウォルト・ディズニーとも響き合う。歴史的事実の重さよりも、フィクションの明るさのほうが、人の心に残る。いちがいに是非を判断できないところが、この話のややこしいところです。「おとぎ話」が歴史から人の目を逸らさせ、「おとぎ話」が歴史の不幸から人を救う。
語り手は、カーテンをドレスに替えるヴィヴィアン・リーのように、格言から父の個人史を再構成しようとしています。これもまた、「おとぎ話」を紡ぐ行為なのかもしれません。


「10」の章。「ホブソン家パート」です。
帰路につくため、レイチェルの車でシカゴへを向かう兄と妹、レイチェルとアーティ。二人は、ハンドルから手を離したり、運転していないアーティがアクセルを踏んだりと、始終ふざけながら車を飛ばします。これもまた、二人のゲーム。くり返しますが、この家族はゲームやクイズをしながらじゃないと会話ができないんですよ。
道中の会話は、例によってジョークや皮肉やほのめかしに満ちていて面白いです。例えば、アーティが「ミューザックを許容範囲の音量まで絞ることを拒否したあらゆる店にウィンドウ爆弾を投げつける」ことを提案するあたりとか。ちなみに、「ミューザック」とは、訳注によれば「レストランや小売店でかかる当たり障りのないBGM」のことです。

レイチェルは兄の最新の政治提案を絶賛した。「嬉しいわ、自分以外の、しかもなんとなく尊敬してる人がゲロ音楽に敏感だなんて。たぶんあと五年もすれば、図書館でもミューザックを流すようになるわよ。友だちはあたしのことおかしいって言うけど、絶対準備は進んでるわよ、少しずつね」。
アーティも同感だった。「そいつをなんて言うかわかるか? 馴化(じゅんか)だよ。最初、奴らは音量をレベル3に設定する。何年かすると、みんなの耳がレベル3の音楽を認識しないところまで順応している。で、居眠り病(ナルコレプシー)がそのまま効いてたら、もっと音量を上げるんだ、レベル4にな(後略)」

これは、よくわかりますね。大音量で流される毒にも薬にもならないBGMは、気になり出すととても耳障りなものです。この手の音楽が不快なのは、「みんなコレが好きだろう」という勝手な前提で流されているところにあります。「お前の思うみんなには、俺は入っていないんだよ」という苛立ち。あと、単純にうるさいのもありますね。♪ドンドンドンドンキ〜、みたいな。
ただ、敏感なアーティは、こうした社会批判自体も紋切り型で耳障りなものになっているということに、気づきます。「うるさいっ」と大声で怒鳴るようなものでしょうか。「貼り紙禁止の貼り紙」とか。うーん、ジレンマ。
二人は、エディ・ジュニアだったらどう考えるだろうと語り合います。なぜなら、兄弟の中でエディ・ジュニアだけが、「あらゆるものに反対するというウィルスに感染せずに済んでいる」から。

「俺の見るところ、おまえや俺やリルは、戦後の繁栄という幻想の中で育ったんだ。あれこれ大きな期待が飛び交っていたものだから、すっかり贅沢になって、本物の満足ってものがわからなくなっちまったんだ。でもエドスキが生まれたのは、あらゆる電化製品が出たあと、あらゆる希望が消えたあとだ。誰であれもっといい暮らしを得るべきだと信じる理由は奴にはひとつもない。だから奴は心底幸せだし、何の不平もない」。
二人とも、次に分析されるべき人間が誰かはわかっていた。だが、どちらもその名を口にしようとはしなかった。

これもまた、よくわかるというか、腑に落ちます。「最近の若者は体制と戦わない」というような意見を、よく聞くでしょ。アーティによれば、「あらゆる希望が消えた」現在では、それはある意味必然だと。彼らは、世界が今よりよくなるなんてことは思ってないわけです。僕は半々かな。マインド的には体制なんか信じちゃいないんですが、60年代のように戦おうとは思わない。うーん、これもジレンマ。
そんな軽口を叩きながらも、アーティとレイチェルは、家族の間に横たわる問題の核心には触れようとしません。これも体に染みついたホブソン家の流儀のせいでしょうか。ジョークとクイズとゲームで、真意を覆い隠す。お互いがこんなに気遣い合っているのにもかかわらず。


ということで、今日はここ(P206)まで。ちょうど半分まできました。
パワーズの構成力のすごさが、じわじわときています。3つのパートが、同じテーマの周りをぐるぐると回っているかのように、前の章で出てきたことが形を変えて別の章で語られる。あっちとこっちがふいにつながる瞬間は、読んでいてドキドキします。