『囚人のジレンマ』リチャード・パワーズ【9】


クリント・イーストウッドの最新作『チェンジリング』を観ていたら、見覚えのある地名が出てきました。ディカルブ。ホブソン家が暮らす町、有刺鉄線発祥の地です。だから何だというわけじゃないですが、「おっ」と思ったので。


では、「年号パート」からいきます。「一九四二年 秋」の章。

映画のアイディアを売り込みに出かける日の朝、ディズニーは製図板に向かって、一枚のネズミのセル画と取り組んでいる。「火で火に応じるっていうのはどうだい?」と絵に向かってつぶやく。ささっと巧みなペンさばきで、ミッキーの頭上に吹き出しを描く。「それじゃあ火事が大きくなっちゃうよ、ウォルト」。ディズニーはペンを置いて、ため息をつく。

はい、また出ました、「火には火を」。ウォルト・ディズニーは、それが何の解決にもならないことを知っています。でも、どうすればいいのかわからない。ちなみに、初期ミッキーの声の吹替えを担当していたのは、ディズニー本人。それもあって、ウォルトに話しかけるミッキーのセリフは、あのかん高い声を出しながら、ディズニーが一人二役をしているように思えます。手の込んだ自問自答。二つの方向に引き裂かれるジレンマ。
ディズニーは例の新たな映画、『きみが戦争だ』を政府に売り込みにいきます。そして、この壮大なプロパガンダ映画の製作費として莫大な金額を引き出すことに成功する。さらに大胆な計画を伝えます。自分のブレーンたちをはじめとした収容所の日系アメリカ人たちを、映画のスタッフとして起用したいと。この展開は、意外ですね。そして、ディズニーの捨身の交渉の結果、その承認を取り付けることに成功します。やるなあ、ウォルト!
ところで、この映画『きみが戦争だ』こそ、「火には火を」のジレンマの産物のような気もしますね。アメリカ人を称えるプロパガンダでありながら、収容所の人々を解放する大胆な計画をも含んでいる。非常に面白いです。
ディズニーは、新たな撮影スタジオをアメリカのど真ん中に設置します。その地とは、シカゴからさほど離れていない、トウモロコシ畑に隠された場所、ディカルブ! 収容所の替わりに日系人たちが働く場所が、有刺鉄線発祥の地というあたりが、なんとも皮肉ですが。


「11」の章。「ホブソン家パート」エディ・ジュニア編です。
アーティとレイチェルが出ていったあと、エディ・ジュニアは、かわいい女の子サラとのデートへと出掛けます。そこで観た映画は、ジャーン、『ファンタジア』! もう、3つのパートがどんどんつながっていきます。
二人は通りを歩きながら会話をします。もちろんエディのことですから、おふざけを至るところにちりばめて。この若い二人が、会話によって徐々に親密さを増していくところは、甘酸っぱくていい感じです。

二人はなんとなくローカス・ストリートのほうに足を向けた。自分たちがどこに向かっているのか、エディにはもうわからなかった。〈酔っ払いと街灯〉の話をサラに訊いてみようかとも思った。通りから丸見えの、薄明かりの点いたあちこちの居間の暖かい家庭の光景に二人はじっと目をやった。うまくやっていく秘訣がそれぞれの光景の中に隠されているはずだったが、どれも何も明かしてはくれなかった。ふたたび足を緩める。まるでかすかな街灯の明かりや、うつろな月や、ひんやりとした空気や、歩道のひび割れや、すでに畳まれて夜のあいだ店じまいしている街路を駆け抜けていく寒冷前線の匂い、そうしたものだけ、それらが集まったこの瞬間だけが、二人を世界の重さと精密さに導いてくれるような気がした。二人は伝説のあの場所に出くわしたか、可能なかぎり近づいたかしたのであり、この夜のあと、残りの人生すべては、この瞬間を再現する試み以上のものではなくなるのである。

サラは立ち止まった。エディを引き寄せて、さっきの接近に応える。そして二人の距離がふたたび遠ざかったとき、自分の中に生まれたぎこちなさを隠そうとして彼女は言った。「春になったら、またこんなふうに散歩しましょうよ、ね? わたしね、映画館にいるうちに小雨が降ってきて、外に出たら何もかもミミズの匂いがして、いまにも何か起きそうだっていうの、大好きなの」。
エディは彼女の声に合わせて、熱意で応じた。「わかるよ。空気が胞子嚢でいっぱいになる感じね。雨が降って、水滴が木の枝からぽたぽた垂れて、胞子嚢のバンガローの上に落ちて。ほら、ここにもふたつ」と言って、架空のサンプルをつくり出す。「木の幹の周りで成長して、やがて水の力がこいつらを空に放つんだ」。

うーん、ロマンチック。恋は、散歩を魔法の時間に変えてしまいます。「伝説のあの場所」、覚えがあるでしょ。取り巻く世界すべてがまるで自分たちのためにあるような、周囲の一つひとつどれが欠けても成り立たないような、幸福な恋の時間。11月の夜の歩道が、「いま、ここ」のかけがえのなさに包まれる。
春の散歩を想像しているシーンも、ステキです。ミミズの匂いなのか胞子の匂いなのかはわかりませんが、雨上がりのしめった空気は、確かに魅力的です。木のまわりで育つ胞子は、『ファンタジア』のキノコのダンスシーンを連想させますね。
サラが言う、「いまにも何か起きそう」という生命力あふれるイメージは、彼らの若さからくるのかもしれません。春が来ることを疑わない若さ。まだ目の前に広々とした未来が開けているんですよ。


「12」の章。続いても「ホブソン家パート」で、これはリリー編かな。
この章では、今までに出てきていないゴシック体のフォントが使われています。書き出しは、「親愛なるミセス・スワロー、この上なく習慣に忠実な方へ」。どうやら、リリーが書いた手紙という設定のようです。
ミセス・スワローとは何者か? 一世紀前にホブソン家の近所に住んでいた人物。毎日執拗に戸締りを確認する人物。それ以上のことは、よくわかりません。そして、リリーが何故、この投函することのない手紙を書いているのかも、よくわかりません。ただし、彼女が、出すことのない手紙を書かざるを得ないような、切羽詰まったものを抱いていることはわかる。

もし、父が発作を起こしたら、私は誰に助けを求めればいい? きょうだいたちは家を離れ、母はバラバラになっている。もし父が家に火をつけたり物を壊しはじめたら、誰が止めてくれる? 誰もいない。この空っぽの、静まり返った、A字型の住宅が並ぶこの通りには、隣人たち以外誰もいない。あなたのことよ、ミセス・スワロー。あなたに頼るほか、私には道がないの。ほかには誰もいないんだから。あなたが見つけた答えを貸して。生きのびるすべを、もうとっくの昔に死んでいるべきあなたをここにとどまらせる力を教えて。あなたに掛け金をガチャガチャやらせつづけ、抵抗をやめさせず、無意味な儀式を無意味としてあきらめさせもしないその罠への愛を教えてほしい。

セキュリティの問題は、「囚人のジレンマ」と密接に結びついているような気がします。恐怖を糧にした自衛。これが攻撃に転じれば、「やられる前にやれ」ということになります。戦争はほとんどの場合、自衛のためにという名目で始まるんですよ。しかし、それは人を恐怖からは救ってくれない。「火事が大きくなっちゃう」ばかりです。
有刺鉄線発祥の地に住む女性の、強迫的な戸締りチェック。ミセス・スワローにとっての恐怖は泥棒の侵入ですが、リリーにとっての恐怖は父の病気です。そしてそのことを考え続けることに、リリーはまいってしまっている。誰にも聞こえない悲鳴を上げている。「罠への愛」とは、すごいことを言います。それがいいことなのかどうか、僕にはよくわかりませんが。


ということで、今日はここ(P250)まで。前の章に出てきた、アーティとレイチェル、そして今回のエディとリリー。4人の子供たちそれぞれが微妙に違った思いを内に抱えながら、助けを求めているように思えます。いや、エディだけはちょっと違うかな?