『囚人のジレンマ』リチャード・パワーズ【10】


「ホブソン家パート」「年号パート」「回想パート」の3つのパートには、くり返し出てくるテーマがあって、それが「囚人のジレンマ」だったり、「おとぎ話と現実」だったりします。ただし、どこかで明確な結論に達するというわけじゃなくって、それぞれ変奏され違う角度から語られるといった印象です。例えば、前の章で登場したフレーズが、別の文脈や別のニュアンスで不意に出てきたりするわけです。何度も登場している、「すべてのインディアンは一列で歩く」とか「火には火を」とか、『ファンタジア』のワンシーンとか、フランク・キャプラの映画に登場する歌とか、キプリングの詩とか…。パワーズを読む醍醐味は、そこいらにあるんじゃないかと思います。


では「年号パート」から。「一九三四年」の章。
ハリウッドでは次々と戦意高揚映画が作られていきます。この章では映画のタイトルが山のように挙げられていくんですが、このあたりはパワーズの列挙癖爆発といった感じですね。一つひとつの固有名詞に反応したくなったりもしますが、何よりその数の多さが、大量生産を可能にする映画工場ハリウッドをよく表わしている気がします。
これらプロパガンダ映画の目的は、パワーズによれば「戦いが遠い過去に起きたかのように神話化してしまうこと」だとか。なかなかシャープな分析です。ドラマチックでロマンチックでファンタスティックな戦争、現実の戦争とは異なるセルロイド製のおとぎ話。
さて、ディズニーが制作中しようとしている映画、『きみが戦争だ』です。このタイトルは扇情的ですね。何をぼんやりしてるんだ、今は戦争なんだぞ、君も戦いに参加せよ、と呼びかけてるように思えるんですよ。実際、前の章でディズニーは政府に対して、この映画はアメリカ中の平凡な人々に今この国で起こっていることを伝えるものだというようなことをプレゼンしてました。でもこの章で、ディズニーが描こうとしているものが何なのかが徐々に見えてくると、僕が当初思ってたものとは、ちょっと違うみたいで。

〈人民の戦い〉と対抗するためにディズニーにある唯一の武器は、〈人民の芸術〉である。人間野外劇の狂気にがっかりなさった皆さん、ぜひショーをごらんください。客席照明を消せ。〈フェアリーダスト〉を放出せよ。魔法の粉は観客の肺や毛細血管に吸収され、スターリングラードドレスデンやブーヘンヴァルトを、きみと、きみが肘掛けを分かち合っている〈きみ〉に縮小してくれる。

やれやれ、と彼は考える。俺たちが映画によって地獄行きの旅に送り出されたのなら。世界一有名なスターネズミに、その歯を活用して引き返す道をつくってもらうしかない。だが、帰り道は往きよりずっと過酷なものであることをディズニーは知っている。『きみが戦争だ』は、そもそも皆を大規模な惨事に導いたまさにその創意の精神を利用しなくてはならない。

つまり、その現実の存在自体を否定することに決めるのだ。逃避だけを目的として生きていくのだ。が、そういう言い方をしてしまえば、彼が逃れようとしているすべての悪がじわじわと戻ってきてしまうだろう。どっちなのか? すべてはほかの人質が、観客が、彼とともに逃げようとするかどうかにかかっている。ひょっとするといままで、復讐や報復以外のやり方で罪が正されたことは一度もないのかもしれない。それでもディズニーは、今回だけは、光が消えてしまう前に、別のやり方を試みる決意でいる。

『きみが戦争だ』、つまり戦争に向かうのもそれを止めるのも、き・み・だ。一票の力は、一人ひとりがその力を信じるかどうかにかにかかっている。だから、一人ひとりの「きみ」におとぎ話の入口から現実の出口へと向かう道を示すんだ。妖精の粉をふりかけたありったけのファンタジーを駆使して、現実を変える力を一人ひとりの手に取り戻すんだ。単純化して言っちゃえば、それが、ディズニーが試みようとしているやり方です。
これは、おそらく単なる反戦映画っていうことではないんでしょうね。まだ読んでる途中なので違ってるかもしれませんが、僕の予想では、プロパガンダを超えるプロパガンダといった類のものじゃないかと。より強固なおとぎ話でもって、現実へと突き抜けようとする試み。ただし、それはある意味危険な賭けというか、より強力なプロパガンダ映画になってしまう可能性がある気もします。
結局のところそれは、ディズニーが、平凡な「きみ」を信じることができるかどうかにかかっている。そして、大勢の「きみ」が、映画館で「肘掛けを分かち合っている」自分以外の「きみ」を信じることができるかどうかにかかっている。


どんどんいきます。「ホブソン家パート」、「13」の章。
クリスマスの2週間前、クリスマス・ディスプレイを見たいという父の希望を叶えるため、シカゴのシビック・センター・プラザにやってきたホブソン家の人々。入院を目前に控えた父と過ごす週末。ショッピングセンターで、子供たちは例によってふざけ合いますが、どこか悲痛な空気が漂っている。もはや、父の病気を見て見ぬ振りはできません。
しかし、ホブソン氏はこれまで通り、奇矯なジョークや皮肉やゲームを次々と繰り出します。バスで隣に座ったで見知らぬ女性に人口問題について問い掛けたり、ウィンドウ・ディスプレイの前でいきなりアイリーンの手を取って踊り出したり、道端の酔っ払いに歌を指導したり…。例のごとく、やっかいな父親っぷりを発揮します。
レストランで食事を終えたホブソン氏は、テーブルの上に財布を置き、レイチェルにこう語りかけます。

「いやいや、新しいゲームだよ。ほら。ここにわしの財布がある。おまえのも出すんだ。さあ。さて。わしらは互いの財布の中身を知らんわけだ、な? で、相手より少ない額しかもってないほうが総取りだ。面白い賭けだろ?」
レイチは答える前に、保険計理人の魔力を使った。
「ということは、あたしが負けても失うのは自分の財布の中身だけ。勝てば合計で二倍以上になる。そして、勝ち負けの見込みは五分五分、でしょ? となると、二分の一の確率で手持ちを倍以上に増やせるんだから、あたしに有利よね」。
「わしも同じように考えてるよ」と、あっさり父さんは言った。
沈黙の中で、パラドックスが全開した。リリーはうなった。紙ナプキンを頭に載せる。「どうしてこんなことするのよ?」。彼女の質問の裏には、もっと真剣な、口には出さない別の質問が隠れていた。父さん、こんなふうに自分のことを憶えていてほしいの?
エディ・ジュニアは二人をお財布ゲームから引き出そうとして言う。賭けになんてならないよ、だって父さんは前もって財布を空っぽにする時間がいくらでもあったんだから。全然見当違いなことは自分でもわかっていたが、最後の時間を一応ほころびなしに保つ役には立つ。

何が始まったのかと思えば、またしてもパラドックス。確かに、この数学パラドックスは面白いです。でも、いやだなあ。家族みんながヒリヒリするような気持ちを抱えてるってのに、こんなときにゲームをする気にはなれないですよ。リリーの心の底の問いは辛辣で痛々しいし、必死で取り繕おうとするエディ・ジュニアは相変わらずナイスガイです。
そして、アーティは? アーティは、父の別のクイズを持ち出して話題を変えようとします。しかし、それがまた家族を気まずい気分にしてしまう。例によって、この一家は父に振り回されてばかりです。さらに、困ったことにこの父がどういうつもりでそんなことをしているのか、家族にも読んでる僕らにもよくわからないんですよ。


まだまだいきます。「もしも苛酷な一分間を」の章。「回想パート」です。
章題の「もしも苛酷な一分間を」はとは、ホブソン氏が一番好きだというキプリングの詩「もしも」の一節です。この詩について13歳の父が書いた作文からこの章は始まります。そこには、後の皮肉なホブソン氏の姿はありません。「必死で詩の一節にしがみついている無防備な十三歳」です。
この作文をきっかけに、語り手は父の写真や手紙や公文書などをもとに、兵士に志願した父、復員した父、歴史教師になった父、子供が生まれた父の姿を描き出していきます。ただし、年表をたどるようなものではなく、文書による客観的事実と語り手の想像が混じり合う、あくまで語り手が再構成した父の姿なんですよね。さらに、そこに語り手の回想も混じってきます。

この時期の父を描き出すのに、どんな印刷物も要らない。僕はそこにいたのだ。簡単なソープボックスダービーの参加車を組み立てるだけでも、僕は『図鑑 時代で見る自動車』を持ち出さずにいられない。姉にしても、席を外すだけでも定足数を確認し、動議に対し指示を得て、議決に至るまですべて〈ロバート議事規則〉に従わずにいられない。トランプで敵味方を決めるのですら、いつのまにかキューバ危機の議論に変わっている。僕たちは他の子どもみたいに、ただ予防接種を受けることなんかできない。その前にまず、中世ヨーロッパのネズミのウイルスから数年前の夏に使われた鉄製人工呼吸器まで、ぞっとする話を丸々聞かされるのだ。

「どんな印刷物も要らない」というのは、逆に言えばどんな印刷物にも載っていないということですよね。記憶の中の父。でも、この語り手とは一体誰なんでしょう? ホブソン家の子供たちのうちの誰かだということはわかるんですが…。「僕」と訳されていますが、英語ではどうなってるのかな? 「僕」も「あたし」も「I」ですからね。「姉」という言葉が出てくるので、じゃあ弟なんだなと思っていると、別の場面では「妹」という言葉が出てきます。うーん、どうなってるんでしょう?
それにしても、こんな父親はやっぱり面倒くさいですね。日々のすべてが歴史の講義に早変わりする。個人のささやかな生活と大きな歴史、ミクロとマクロがつながっているという感覚。ホブソン氏の格言で言えば、「ここは私たちがここへ着くに至った過程である」ということでしょうか。つまり、歴史は我々一人ひとりの選択の結果であり、我々は歴史に囚われていると。一人ひとりとはつまり、き・み・だ。
語り手は、父のこうした言動に、キプリングの詩を愛した13歳の少年の姿を重ね合わせることで、その根底にあるものに迫ろうとします。「〈もしも〉はいまも今後も、野蛮なリアリズムに対する父の唯一の武器である」。

結局のところ、父の病とは、人を、彼らが愛されるにふさわしいかどうかも知らぬまま愛したいという欲求だった。拡大する一方の、報復を旨とする脅威、それを肯定した世界にけっして愛想を尽かさなかったことから父の狂気は生まれていた。自分を解放するために自分を閉じ込めるという、現代史の特別な時間を父は生きた。そして奇妙にも、理不尽なことに、父は少年の仮想にしがみついたのだ――もしもおまえが、憎まれても憎しみに身を委ねなければ……。父は迷い、人類から切り離され、ある考えを呪いのように抱え込んでいる。しかし、不思議なことに、その考えとは思いやりなのだ。

痛ましい話です。思いやりにしがみつくことで、父は病んでいく。ジレンマの中で身動きが取れなくなっていく。そして、語り手はそんな父を理解したいと思っている。なぜなら、彼もまたそのジレンマの囚人だからです。

僕は自分の意志で行動するよう、他人にけしかけてもらわねばならない。僕がどこまで自由なのか教えてよ、父さん。教えてよ、僕がどこまで自由なのか。


ということで今日はここ(P304)まで。ペースアップしてきました。残すところあと1/4くらいです。