『囚人のジレンマ』リチャード・パワーズ【12】


読み終えました。いやー、圧倒された。これまであちこちにちりばめられていたあれこれが、次々とつながり出してめくるめく展開に。頭がぐるぐるになりながらも、一気に読んじゃいました。これは小説じゃなけりゃ味わえない読後感。パワーズ、すごいです。


まずは「ホブソン家パート」、「15」〜「17」の章をまとめていきます。
病院からの電話のあと、行方をくらました父が家へ電話をかけてきます。でも、どこに向かっているのかはっきりしたことは言いません。でも、考えてみればホブソン氏がはっきりしたことを言ったときなんて、あったんでしょうか? この家の出題者は、決してクイズの答えを与えてはくれません。どうとでもとれそうな格言や、どちらとも言えないパラドックスを繰り出すばかりじゃないですか。

「あの人を黙らせようったって誰にもできやしないときがあることはあんたも知ってるわよね。喋り出すと、大学に行ってたってついて行けないことをえんえん喋るのよ。でもエドは、いろんなことについて、自分がどう感じているかは絶対に言わない。五〇年代か二〇年代かの、いかにもためになりそうな例を挙げるだけ」

これは、ホブソン氏の妻、アイリーンのセリフです。二つの答えの間でジレンマに陥った人間は、どちらにも足を踏み出せなくなる。判断保留の失語状態。半ば引きこもりのような状態で、架空の街ホブズタウンのことばかり考えていたホブソン氏は、まさにこの保留状態にあったのかもしれません。
失踪した父を除くホブソン家の人々はディカルブの家に集まり、やきもきしながらもクリスマスを迎えます。とりあえずクリスマスを祝おうと振る舞いますが、彼らの言動は、未だ父の影響下にあります。無意識のうちに父の教えを守り、父の格言をなぞり、父の仕草やジョークをマネしている。そのことが父の不在を際立たせます。反目し合い、苛立ちながらも、彼らはやはり家族のことを気にかけているんですよ。
そしてまたしても、父からの電話。慌てて受話器に殺到する家族を尻目に、ホブソン氏はこう答えます。「わしがどこに行こうとしてるかって? 冗談だろ? 自分で考えろよ」。そして、わずかなヒントだけ残して電話を切ってしまう。この期に及んで、謎かけです。


「年号パート」、「一九四五年」の章。
『きみが戦争だ』のクライマックスが描かれるこの章は、この小説のクライマックスでもあります。ミッキーマウスに導かれ、遥か上空から俯瞰で眺める世界の歴史。戦争が終わり明るい未来がやってくると思いきや、また新たな争いが生まれ、問題は何も解決していないことが示されます。「重度の卒中が、緩慢な癌に変わっただけの話」。自己の利益を追求するあまりジレンマに陥ってしまう世界。敗れ去るおとぎ話…。

集団の意志の切れぎれの開花、協同することの利点、それらが軒並み衰退し、崩壊する。政体が有権者を乗っ取る。〈防衛する(ディフェンス)〉は他動詞となる。恐怖心が悪夢的な非常時について警告し、それによってまさにそうした非常時をつくり出す。誰もが相手に対して、自分にやられたくないことをやられる前にやる。
空からの眺めを、その苦々しい皮肉に至るまで、エディはすべて見届ける。何十年にもわたる暴露と、その報復の暴露。ヒステリーと非難に染まった風景。相互エスカレーションを促すもろもろの指令。大と小のあいだに裂け目が開く。新聞の見出しはもはや実感と一致しない。打ち負かしようのない効率の向上が、人間的必要を闇につき落とすのを、別の時代から来た十九歳の若者が目撃する。

まさに、現代。20年前に書かれた小説ですが、21世紀の今も状況はまったく変わっていません。むしろ、悪化しているかもしれない。「〈防衛する(ディフェンス)〉は他動詞となる」。つまり、「やられる前にやれ」です。巨大な「囚人のジレンマ」。個人の幸せとみんなの幸せの間に、断絶が生まれる。もはや、一人ひとりが独房に閉じ込められた囚人のようです。


これ以降の8章分は、詳しくは書きませんが、ホントにすごいです。父の病気と行方が明らかになりますが、それは序の口。「ホブソン家パート」「回想パート」「年号パート」すべてが鏡像のように反射し合い、お互いを補完し合いながら、入れ子クラインの壺のような複雑な構造を描き出します。
そして、この構造こそが、「囚人のジレンマ」というパラドックスの網目から抜け出すヒントになっている。答えじゃないですよ。「自分で考えろ」とホブソン氏も言ってる通り、パワーズは安易にわかったふりはしません。ただ、希望はある、と。

ゼロからもう一度はじめよう。小さな世界を作ろう、ミニチュアのミニチュアを、そう、人口半ダースくらいの。それより大きなものは、僕たちはすべて駄目にしてしまうのだから。何の変哲もない、普通の大きさの家族の日々の営みを模倣して、それでうまく行くかどうかやってみよう。

これは、若き日の父、エディ・ホブソンのセリフですが、このシーンが登場するのは、「回想パート」です。つまり、子供たちの誰かが捏造したセリフかもしれない。そう気づいたとき、世界の歴史と家族の歴史がつながり、3つのパートは結び合わされる。
そしてさらに、最後の一つ手前に、意外な章が挿入されます。これをどう捉えたらいいのか簡単に結論は出せませんが、この小説全体が新たな意味合いを帯びてくることは間違いないでしょう。そして僕には、それが「物語の力」といったものを指しているように思えます。ディズニーの『きみが戦争だ』、ホブソン氏のホブズタウン、つまりは「鋼のようにタフなおとぎ話」。
それが現実からの逃避になるのか、現実への働きかけになるのか、やはりここでも答えは出ません。でも、希望はある。なぜなら、「自分たち誰にでも、自分たち誰もが思っている以上のものがある」から。もしくは、「われわれはときに、自分の意志で行動するよう誰かにけしかけてもらう必要がある」から。
最後の数章がすべて、物語の始まる瞬間を描き出していることに、感動します。そしてその物語が、君が思っている以上のものが君にはあると、誰かをけしかける。けしかけられた者は、新たな物語を語り出す。
すべてを読み終えた今、僕にはこの『囚人のジレンマ』自体が、「鋼のようにタフなおとぎ話」だったのだと思えてなりません。


ということで、『囚人のジレンマ』読了です。