『囚人のジレンマ』リチャード・パワーズ【13】


この小説には、最後まで読んだところでもう一度読み返したくなる仕掛けが凝らされています。そこで、最初の章「なぞなぞ」を読み返すと、あれっ…? 最初は見落としていたあることに気づく。
というように、非常に複雑な構造を持った小説です。さらにややこしいことに、その構造が一目では見渡せないような作りになっているんですよ。今自分がどこを歩いているのかよくわからないままに、読み進めなけりゃならない。
やがて、この小説が3つのパートに分かれていることが見えてきます。しかも、それぞれの語り口がまったく違う。僕は仮に「ホブソン家パート」「回想パート」「年号パート」と名付けましたが、今度はそれらがどういうレベルで語られているのかが気になります。「年号パート」のディズニー像は、実際のディズニーとは違うっぽいし、『きみが戦争だ』に至ってはどう見てもパワーズの創造です。つまり、ここでは歴史が改変されているわけです。「回想パート」の語り手についても謎です。子供たちのうちの誰かだということはわかりますが、それが誰なのかは周到に隠されている。さらには、すべてのパートにエディ・ホブソンの名前が出てきますが、記述されている内容には微妙なズレがある。いったい、どれが本当なのか…。
そうなると、今度はそれらの関係性が気になってくる。ひとまず考えられるのは、これら3つのパートを「囚人のジレンマ」というテーマが貫いているということです。家族の問題から世界規模の戦争まで、くり返しくり返しこのテーマが変奏される。こうしたジレンマのベストな解決は「お互いに相手を信頼すること」しかないんですが、それが簡単にできるのならばジレンマにならないわけです。この小説では、「信頼」の必要性が度々語られますが、その都度すぐにそれに対する反対意見が述べられる。その結果、何度も何度もジレンマに立ち戻らされることになる。
これまで読んだ作品はどれもそうでしたが、今回もパワーズは、「こうあるべきだ」というような解答を与えてはくれません。3つのパートによる語りでもって、同じテーマを様々な角度から検証しながら、結論だけは書こうとしない。それは、自分の意見を表明しようとしないホブソン氏のスタンスの相似形です。「囚人のジレンマ」だけではありません。同じ固有名詞やら引用やら父の格言やらが、形を変えてくり返し出てきますが、毎回それぞれその意味するところが違っていて、一つの物事やフレーズが多様な解釈に晒されます。
ただパワーズが、小さな個人一人ひとりが大きな世界における出来事とつながっているんだと、示唆しているんだろうということは、わかります。それがひょっとしたら、ジレンマからの逃れる道かもしれません。自分が世界や歴史とどう関わっているのかを知ること、つまり自分が世界や歴史のどこにいるのか、そこに至る道は何だったのかを知ること、それがキーになるんじゃないかと。
この小説には、世界や歴史を俯瞰で眺めるシーンや記述が、何度も登場します。そうやって自分の位置を知る。ミッキー・マウスが上空から世界を眺めるシーンは、その最たるものです。ミクロからマクロへ、そしてマクロからミクロへ。ホブソン氏の人生が世界史とリンクし、やがてまた個人の物語へと返っていく。
最初は全体像が見通せなかったこの小説の構造が、後半1/4くらいから一気に見えてきます。いや、見えてくるは言い過ぎですね。「構造を意識せざるを得なくなる」って感じかな。3つのパートが思いもよらぬ形でつながり出し、その関係性を俯瞰で眺めようとしながら読むことになります。
「ドアはどうなったらドアでなくなるか?」――これは、最初の章に出てきたクイズですが、ドアの鍵を開けようとしている間は独房に囚われているんですよ。しかし、実は天井はないかもしれない。上空へと飛翔すれば、ドアはドアじゃなくなる。「囚人」は囚人じゃなくなる。
最後まで読み終えたとき、またこの小説の始めに戻って読み返したくなる。俯瞰で世界を眺めたあとで最初に戻ると、物事の見え方が変わっていることに気づく。それが、メッセージとしてではなく、長いこの小説を読み終えたときに体感として残る。作者の言いたいことをなぞるような読書じゃなくて、体験する読書。ホブソン家の子供たちが父から受け取ったものも、こうした体験だったんじゃないかなと。
僕はそこに、わずかな希望を感じる。もちろん、答えのないクイズです。正解はわかりません。僕がそうあってほしいと思ってるから、そう読み取っているのかもしれません。でも、希望を持ちたいと思うことが希望につながるんじゃないかな。それが、僕が体感した読後感。読んでよかった。


ということで、『囚人のジレンマ』についてはこれでおしまい。小説にはこんなこともできるんですね。素晴らしい。