『囚人のジレンマ』リチャード・パワーズ【2】


「2」の章にいきます。
まず、冒頭でホブソン氏の子供たちの構成が明らかにされます。アーティ25歳、リリー24歳、レイチェル23歳、エドワード18歳、ってことでいいのかな。似ているようで似ていない、個性豊かな兄弟姉妹。彼らは、父の病気に対してそれぞれ別々の見解を持っているようです。

実際、四人の子どもたちは、エディ・シニアの病いが何たるかをめぐって自分たちが苦労して獲得した意見を棄てる気はなかった。四人は幼いときから、その病いのより穏やかなバージョンを見ながら育てられてきたのだ。彼らはみな、同じ幻視を目撃し、同じ胃のむかつきや卒倒の発作などを目のあたりにしながら成長してきた。何年ものあいだ、周期的に母親がそっと漏らす、病いそのものと同じく謎めいた説明も聞いてきた。「お父さんがよくないの」。だが、周期的に訪れる一時的回復にリリーが望みを託す一方で、レイチェルはすべてを陽気にやり過ごそうとし、アーティは皮肉な距離を保ち、リトル・エディは青くさい楽観主義と悪ふざけに終始していた。処方箋は個々人の専売特許にとどまっていた。観察というより、一人ひとりの気質の産物だった。(中略)
しかし、病因については意見が割れていたものの、病いへの対処についてはみな一致していた。誰ひとり、何が起きているのかを口に出さなかったのだ。暗黙の了解のうちに、彼らは世間に対して沈黙を通した。

確認しておきましょう。エディ・シニアこと、エドワード・ホブソン氏は、何年も前から断続的に発作を起こしているらしい。しかも、その病気は年々悪化していってるらしい。しかし、彼は決して病院へ行こうとはしません。だから、その病因もわからないままです。子供たちは、長いことそんな父を見てきて、父の病気に対しそれぞれ勝手に診断を下している。
そんな兄弟姉妹たちの差異も面白いんですが、それよりも興味深いのは、彼らが病に対して沈黙を守っていたという点です。まるで、問題なんかどこにもないというように振る舞う癖がついているんですよ。母親は、決して「お父さんが病気なの」とは言わず、「よくないの」と言います。家族はみんな、病に蝕まれた父親に対して、どこか及び腰になっている。
父親が発作を起こし卒倒した夜、アーティとリリーとエディ・ジュニアは、トランプゲームをしながら語り合います。この会話は悪趣味なジョークや皮肉なセリフの応酬といった感じで、なかなか面白い。このねじれたユーモア感覚は、彼らが父親の血をたっぷり受け継いでいることをうかがわせます。そしてこの席で、エディがついに口火を切る。「どうして父さんは医者に行かないんだ?」。それに対して、アーティやリリーはまともに取りあおうとはしません。「今さら何を言い出すんだ?」といった感じでしょうか。アーティの答えはこうです。

「僕たちが言ってるのは、おまえの父さんが僕らの何手も先を行ってるってことだよ。いま父さんのところに行っても、笑われるだけだろうさ。どうせこう正されるに決まってる。おまえたちが私の体について何をすべきか頭を悩ましてきたのよりも遥かに長い年月、わしは無害に卒倒しつづけてきたんだぞってね」

こういう人、たまにいますね。「俺の体のことは俺が一番わかってるんだ」とかなんとか。これを説得するのは難しい。しかも、相手は博学なクイズマニアです。子供たちは、幼い頃から、父の言葉にこめられた意味を読むように訓練されてきました。「カラマイン」のひと言から、父の真意を汲み取るように。その結果、父の言いそうなことを先取りして、「言ってもムダだと」あきらめちゃってる。そして、ジョークを交えながらやり過ごそうとしている。
とはいうものの、幻視に嘔吐に卒倒ですよ。かなり深刻な病気なんじゃないの? 意識不明になってから病院に担ぎ込んだんじゃ、手遅れなんじゃないの? エディは、そう心配してるんです。いや、もちろんアーティだってリリーだって、父の病気が軽いものじゃないってことぐらいわかっています。わかっていながら、父の論理から逃げられない。この家庭では、ゲームのルールは父が作っているのです。
アーティたちの母親であるアイリーンが、2階のベッドに横たわっているはずのホブスン氏の様子を見にいきます。ところが、彼はすっかり元気になっている。父はまたしても、「無害に卒倒」したわけです。アイリーンは子供たちに報告します。

「ベッドで体を起こしてるわ」。杞憂だったことがまだ信じられずに、アイリーンは首を横に振った。「楽しそうよ。テープに吹き込んでるわ。ホブズタウンの話を」。


この作品では、章のタイトルが、「1」「2」とナンバリングされているものと、ナンバーなしでタイトルが付けられているものに分かれています。そして次の章は、「2」章のおしまいを受けるかのように、「ホブズタウン 一九三九年」と題されています。
冒頭部分から引きます。

その時点での僕たちのすべてがカプセルに入る。カメラ、壁付スイッチ、安全ピン。三メートルの流線型ミサイルに、一九三九年当時の僕らアメリカ人の暮らしをまるごと詰め込むのだ。簡単な仕事じゃない。ガラス、ステンレス鋼、一ドル銀貨、歯ブラシ。歯ブラシを入れたところが見事だ。あまりにありふれているせいで、いかにも見逃されてしまいそうな品。もし未来人が僕たちのほかのすべてを知ったとしても、そこに歯ブラシがなければ僕らは失われたままだ。

1939年のニューヨーク万博で地中に埋められることになった、タイムカプセルについての描写です。なるほど、「歯ブラシ」ね。確かに、毎日毎日使っているにもかかわらず、ついつい忘れられそうなモノです。こういうところが、パワーズの巧みなところ。「歯ブラシ」の一語を入れることで、タイムカプセルという巨視的なプロジェクトとささやかな日常をドッキングさせる鮮やかさ。
この章では、ニューヨーク万博の様子がバドという少年の視点から描かれていきます。タイムカプセルに詰め込まれたあれこれ、万博の様々なパビリオン、当時の世界情勢や公開された映画などが、次々と列挙されていく。スティーヴン・ミルハウザーほどではないにせよ、パワーズもまた列挙癖がある作家だと思います。世界をまるごと閉じ込めようとするかのような、博覧強記っぷりが魅力的です。

ミドルトン家にとっては自明のことでも、五千年後の異邦人たちにどうやってそれを伝えられるのか。バドには見当もつかない。それでもバド・ミドルトンは、さまざまなモノで編まれたこのアンソロジーに賛同する。とりわけ自己言及的な最後の一片に彼は賛同する。すなわち、カプセルに収められたニュース映画のひとつは、そのミニチュアのカプセル世界、つまり万博そのものを報道しているのだ。

考えてみれば、タイムカプセルもまた世界を中に閉じ込めるモノですね。そして、世界をまるごと閉じ込めるためには、自らもその中に入らなければならない。自己言及のチャイニーズボックス。これが、カプセルの中に収められた、万博のニュースフィルムです。これまたミルハウザー的な仕掛けですね。ついでに言うと、バドくんの正体にも、この自己言及に似たなかなかユニークなひねりがあります。詳しくは書きませんが、僕は読んでいて「おおーっ」となりました。
そして、この章の後半に、ふいにある人物が登場します。

二階ではバドが友達のエドへ宛てた手紙と格闘している。「親愛なる東部人へ」と彼は書きはじめる。「この春、万博で会ったのが大昔のことみたいに思えるよ」。

エド? エドとは、1939年当時13歳だったエドワード・ホブソン、その人です。わぁお、つながった。ここへきて、一見脈絡なさそうに見えていた万博の話が、例の「クイズ好きで病気の父」につながりました。ここで転調。そして、このあと視点はバドからエドへと移ります。この東部の少年は、万博のきらびやかさと対称的に、すぐそばの未来への不安を感じている。

しかし、一九三九年の真の危機は、来たるべき暴力に直面したエドの無力さだけではない。決定的な、想像すらつかない、そして結局はいつものように歴史書の中で無害化されて終わる犯罪に対する無力さが問題なのではない。エディ坊やが抱く大きな恐怖とは、自分の人生がこれまで以上に恵みある穏やかなものになることにほかならない。人々が暮らしを営もうとしてつくる場所と、人々のまわりで彼らとは無関係に噴出する場所とのあいだに、想像を絶する断裂が口を開く。みんなと同じように人生を享受することが、実は事態を悪化させるかもしれないのだ。

1939年とは、もちろん第二次世界大戦開戦の年です。アメリカが参戦したのは41年なので、この場合は戦争前夜といったところでしょう。彼は、時代が何か不吉なものに押し流されそうになっていることを感じています。「みんなと同じように人生を享受することが、実は事態を悪化させるかもしれないのだ」。でも、「たったひとり隊列を離れてノーと言うには、彼はちっぽけすぎる」と。ひとりとみんなの間のジレンマ。うーん、どうすればいいんでしょう?
パワーズの面白さは、少年個人の思いと人類の歴史を、クイっとつなげてしまうところにあります。タイムカプセルの中の「歯ブラシ」に焦点を当てたように、ロングショットとクローズアップを行き来するような、自在な語り口。フラクタル構造を思わせるような、ミクロとマクロの相似形。少年エドの不安は時代の不安と、少年エドの混乱は時代の混乱と、ときにシンクロしときにすれ違います。


ということで、今日はここ(P48)まで。「ホブズタウン 一九三九年」は、『舞踏会へ向かう三人の農夫』に出てきた、20世紀初頭を駆け足で紹介するシーンを思わせますね。このあたりは、パワーズの中でも僕が最も好きなタイプの語り口です。