『囚人のジレンマ』リチャード・パワーズ【3】


さて、謎の病気を抱えたホブソン家の父と、それを見守る子供たちの様子が描かれていくわけですが、徐々にこの子供たちの個性というか、キャラクターが見えてきました。「1」章では主にアーティがクローズアップされていましたが、今回読んだ「3」章では長女リリーに、「4」章では次女レイチェルに焦点が当てられています。
では、いきましょう。


まずは「3」の章から。
父が倒れて、そのあと何ごともなかったかのように回復したと聞かされた夜、リリーはひとり外へと出ていきます。あるでしょ、何となくひとりになりたい気分って。彼女は、自分が秘かに家族を支えてきたと思っています。それは、裏を返せば貧乏くじを引いてきたということであり、それに疲れちゃったのでしょう。

父さんはいま二階でホブズタウンに取り組んでいる。リリーは一〇三番地から町に向かって、妙に田舎風な石畳を敷いたセカンドストリートをぶらぶら歩いていった。歩きながら、あらためて思った。ホブズタウンなんてどこにもありはしない。父さんが創り出したエレウォンでありエメラルド・シティである。彼女が進んでいかなければならないのはイリノイ州ディカルブ、シカゴの真西一〇〇キロにあるトウモロコシの町、有刺鉄線誕生の地なのだ。

脚注によれば、「エレウォン」も「エメラルド・シティ」も文学作品に登場する架空の町だとか。要するに、「ホブズタウン」とは、父が妄想によって作り出した町というわけです。ということは、前章の「ホブズタウン 一九三九年」も、父親による架空の町の歴史ということになるのかな。ホブソン氏によってディテールを丹念に積み上げられることで、輪郭を与えられる空想の町…。
このホブズタウンと対比して語られるのが、ホブソン家があるディカルブという町。ここが、「有刺鉄線誕生の地」っていうのも面白いですね。この言葉に、町や有刺鉄線の歴史が折り畳まれている。それによって、何の変哲もないディカルブの町に輪郭が与えられるというか。前章の冒頭で、「歯ブラシ」をクローズアップしてみせたように、こういう何気ないところが、上手いなあと思います。
リリーは、夜の市街地を歩きながら、様々に想いをめぐらせます。いろいろ考えちゃうんですよね、夜の散歩は。町で孤立しているホブソン家について、リベラルな思想に傾倒した自分の学生時代についてなどなど。そして、その中心には、やはり父のことがあります。

父はエピソードに生き、格言で思考した。父さんお気に入りの、いかにも教師らしい警句をリリーは思い出した。子どもが性急な結論に走るたびに発せられる警句。「あらゆるインディアンは一列で歩く。少なくとも私の見た一人はそうだった」。これ以上ない一行ジョーク。いかなる一般論も信用してはならない。とりわけこの一般論は。

リリーにはわかっていた。これは〈投票の誤謬〉だ。一度、唯一無二なるホブソンが、この誤謬を子どもたちに食卓での討論のテーマとして与えたことがある。私がどの候補者を好もうと、私の投票が結果を変えはしない。問題は私が捨てたひとかけらのゴミじゃない、ほかの三億五千万人の人々によってすでに築かれたゴミの山なのだ。あるいは――あと一台エアコンが増減したところで、いずれ消え去る運命にあるオゾン層を救いも破壊もしない。ならば、高尚ではあれ無力な理想のために、なぜ私が汗だくにならなくてはいけないのか?

「彼ら」と「彼」、「私たち」と「私」をめぐる思考。「いかなる一般論も信用してはならない」。しかし、一般論の隊列を離れて何かを主張したところで、何も変わらない。これは、前章でエディ少年がぶつかっていた問題と、響き合います。「みんなと同じように人生を享受することが、実は事態を悪化させるかもしれないのだ」。「投票の誤謬」という言葉からもわかるように、これは民主主義の根源に関わる問題でしょう。
それにしても、子供に向かってこんな話をする父親ってのは、やっぱりインテリなんでしょうね。ただ、このお父さんがややこしいのは、格言や討論、クイズといった形で、この手の問題を持ち出すこと。こう言っちゃあ何ですが、ちょっとうっとおしい。つまり、答えを教えるのではなく、「問い」を放り投げるんですよ。いや、答えがある問いならまだいいんです。でも、この問題はどうにも答えが出しづらい。やっかいですね。


「4」の章。
一夜明けて、レイチェルは朝食の準備をしています。彼女は、そこに凝った悪ふざけを仕掛けます。それがどんなものかは読んでもらうとして、彼女はわざとバカげたことをしたり、何にも考えてないふりをしたがるタイプのようです。もちろん、それが彼女なりの問題の対処法なんですが。パワーズ曰く、「この精神はわざと空っぽにしてあります」。
それは、例えばこんな感じでしょうか。母親が、買い物をしておいてくれたレイチェルにお金を渡すシーンです。

「はい、これ」彼女は言った。「払ってくれた分」。レイチェルは札を受けとると、くるくると巻いて、鼻の穴からだらんとぶらさげた。母はお金を奪い返し、ムカッとしたように舌打ちをした。

何やってんですか…。20代の女性とは思えないようなおどけっぷり。ほとんど、猿のマネとか、そういうレベルのふざけ方です。でも、これ、レイチェルに限った話じゃないようにも思えます。この家族は、ときどきこういう妙な行動を取るんですよ。兄弟たちは性格は違うのに、皆、ときどき度を越したおふざけや皮肉やナンセンスを弄ぶ傾向があります。おそらく、これは父譲りのねじれたユーモアセンスの賜物でしょう。
さて、その父親が、すっかり何事もなかったような顔をして食卓に現われます。そして軽口や皮肉を交えながら、この朝の話題を提供する。「近ごろ、〈囚人のジレンマ〉というパズルについて書かれた本をちょっとばかり読んでるんだ」。はい、ここで出ました。タイトルにもなっている「囚人のジレンマ」です。

「一九五〇年代初めに、二人の男がスモーキング・ジョー・マッカーシー上院議員のオフィスに召喚されたとする。二人はどちらも優秀な公務員だ。上院議員が言う、『おい、おまえら二人がアカなのはわかってるんだ。告発の証拠も大量につかんだことだし、有罪にできると思うんだが、確実に有罪にするにはまだ不十分だ。そこで取引したい。もし、おまえらのどちらかが進んで相手をタレこんでくれれば、そいつは釈放して、もうひとりを電気椅子に送る。だが、もしどちらも相手を密告しなければ、最低でも二人とも、公に汚名を着せられることになる』」。

二人の人物が別々の場所で取り調べを受けている。そこで、互いに相手を密告するように勧められる。ホブソン氏によるモデルケースではこうなっています。二人ともが黙秘をすればそれぞれ懲役2年。二人ともが互いを密告すればそれぞれ懲役10年。一方が密告し一方が黙秘した場合は、密告者は釈放、黙秘者は電気椅子。自分が黙秘した結果得られるのは、懲役2年か電気椅子。密告した結果得られるのは、釈放か懲役10年。さあ、どうする?
これがゲーム理論で言うところの「囚人のジレンマ」です。僕は、学生時代、社会心理の授業で習ったことがあります。どういう文脈で出てきたのかは、さっぱり覚えていませんが、要するに、このジレンマは「社会」に関わりがあるということです。
これをどう考えればいいかというのが、ホブソン家の朝食の席での話題です。話題というか、議題ですね。かくして、朝から討論が繰り広げられることになる。

「さて、これにはいくつものバリエーションがある」。父さんは構わずつづけた。「人質をとられたハイジャック。ガソリンスタンドの価格競争。食料品の買いだめ。銀行の取りつけ騒ぎ。工業汚染。恋人たちの嫉妬。それを言うなら、離婚手続きもそうだ。軍備競争。二重駐車。こういうのがみんなどうつながってるのか、誰か考えてみないか?」。土曜朝のホブソン家ではごくあたりまえの、食卓での質問。

「ごくあたりまえ」ですか。さすが元歴史教師、インテリの家庭は違いますね。クイズマスターによる、今朝の問題。「私」をとるか「私たち」をとるかのジレンマ。この家ではおなじみの、答えのない問い。
そんな風にして、ホブソン氏はクイズによって、またしても病気の話題から巧みに家族の目を逸らせてしまった。この場を仕切っているのは、未だ父親なんですよ。そして、そのことに家族が気づき始めた頃に、今度はホブソン氏は立ち上がりラジオをつけます。ダイアルを合わせると流れ出す、古くさいポップス。皆の注意は、一気にそちらへ引きつけられる。まるで、指揮者のひと振りのような鮮やかな転調。
ホブソン氏は、「どんな場所、どんな環境でも、ラジオで一九三九年から一九四六年までのポピュラーソングが流れているのを感知する能力」を持っているとか。お父さんの持つ神秘的な力。ホントに超自然的な力かどうかはわかりませんが、こういうところが父親を父親たらしめることって、あるんじゃないかな。
例えば、僕の父は虫を捕るのが上手かったんですよ。父親に連れられて朝のくぬぎ林でカブトムシやクワガタを捕まえるとき、「お父さんってすごい」と素直に思ったもんです。ホブソン氏の力も、そういう類いのものに思えるんですよ。
あと、1939〜1946年までという年代にも、ちょっと注意を払っておきたい。これは、ほぼ第二次世界大戦の期間に重なっています。要するに、戦中のポップスってことですね。レイチェルはこの力を、「グレン・ミラー探知器(テイラー)」と呼んでいます。ナイス・ネーミング。父親へも軽口を叩く彼女らしい、シャレた呼び名ですね。


ということで、今日はここ(P82)まで。囚人のジレンマが、このあとどう物語に絡んでくるのか、パワーズの手つきに注目です。