『囚人のジレンマ』リチャード・パワーズ【4】


前にもチラッと書きましたが、この作品は、「1」「2」「3」とナンバーが振られた章と、ふられていない章があります。ナンバーが振られた章は、病気の父を抱えたホブソン家の顛末が描かれていて、ナンバーなしの章は、さらに「一九三九年」というように年号を冠した章と、自由に題をつけられた章に分かれています。年号の章は歴史を俯瞰するような客観描写が採用され、自由に題された章は、父親であるエドワード・ホブソンについて誰かが回想しているらしく、一人称が採用されている。要するに、この三本柱が並行して描かれいるわけ。
パワーズは、度々こうした手法を使います。それぞれのパートで語られたことが、別の章で変奏され、やがて一つに結びつく。いや、まだこの作品では結びつくところまでは行っていませんが、これまで読んだパワーズ作品から想像するに、そんな展開になるんじゃないかと。
ちなみに、ナンバリングされた章と、ナンバーなしの章では、違う本文書体が使われています。ささいなことですが、実はささいなことじゃない。こういうところも、本を読む楽しみの一つなんですよ。


ではナンバーなしの章「主要時制」にいきます。一人称のため誰が語ってるのかはわかりませんが、ホブソン氏の子供の一人だと思われます。
語り手は、父と一緒に夜中にテレビで放送している映画を観ていたときのことを回想しています。『オーケストラの妻たち』という、戦時中に作られたミュージカル映画。世の中の暗さから目を逸らさせる、ハリウッド製の陳腐なお伽話。

およそ記憶に残らない映画だったけれども、一点だけ例外があった。音楽はその時代最良のものだったのだ。ストーリーはグレン・ミラー・オーケストラを――二度目にして最後になったわけだが――カメラの前に立たせるための口実にすぎなかった。この後まもなく、ミラーの乗った飛行機はイギリス海峡で撃墜され行方不明になってしまう。けれども、ミラーの実人生に訪れた思いやりとは無縁の結末にもかかわらず、現実逃避の馬鹿げたプロットの背後、ミラーとそのメンバーたちはしっかりとフィルム上にいて、あの気ままな、危険なほど明るさにあふれたリードとブラスのすばらしいサウンドを響かせている。

飛行機事故で亡くなったロックミュージシャンは何人もいますが、グレン・ミラーもそんな最期を遂げていたとは知りませんでした。それにしても、パワーズが書く音楽についての文章は魅力的ですね。『ガラテイア2.2』では、モーツァルトを「最も苦痛に満ちた痛み止め」と評してましたが、グレン・ミラーは「危険なほど明るさにあふれたリードとブラス」ですか。当時の、活き活きとしたジャズの魅力が伝わってくるようです。そして、時代の目くらましのようなその陽気な音楽や映画を、「グレン・ミラー探知器」である父は愛していたようです。そのことに語り手はショックを受けます。

だが、手遅れになるまで、僕は理解しなかった。思いがけないことに、かのプロの教育者は、友と呼ぶ人もなく、世界でほんとうは何が起きているのかを見出そうとしつつ、なお依然として、堕落していても性根は正しい女性と、黄金の心を持ったやくざ者という寓話を愛していたのだ。安っぽいことこの上ない物語のトリックに、父はあっさり釣られた。最後の最後まで、ほかの場所という可能性を、ほかの人が生きる物語を、ひそかに愛していた。僕はつねづね、知性と感傷とはたがいに相容れない一対の角(つの)だと思っていた。そうではない。父はその両方を、少なからず代償を払いつつ、兼ね備えていたのだ。そして残された僕たちも、同じようにその代償を払っている。

これはわかるなあ。シニカルで世の中を無邪気に信じることができないくせに、ご都合主義のメロドラマにクラッときちゃう。「危険なほど明るさにあふれた」、その楽天性に魅入られちゃう。ありますよ、そーゆーことは。僕も昔のハリウッド映画はわりと好きで観るんですが、物語なんてホントにわかりきったものなんですよね。にもかかわらず、ふいに感動したりするんです。何なんでしょう、これは。
ついでに言うと、知性と感傷の両立っていうのは、パワーズ作品の特徴でもあります。理系出身者らしい緻密な構成やクールな分析力を披露する一方で、ときに胸をかきむしるような切なさを描く作家でもある。もうちょっとポピュラーなところでいくと、カート・ヴォネガットもそうですね。シニカルでペシミスティックでありながら、半面非常にセンチメンタルです。まあ、そういうところが、僕は好きなんですが。でも、この両立のために払われている「代償」とは何でしょうね? はっきりとしたことはわかりませんが、父の病とも深い関係がありそうです。
父親から聞かされた少年時代の思い出を、語り手は回想します。そのひとつが、ニューヨーク万博です。「ホブズタウン」の章ででてきた、あの万博。中でも少年だったエドワード・ホブソンを打ちのめしたのは、未来社会の様子を展示した「フューチャラマ」というパビリオンでした。数々の未来の生活を描き出した展示のあと、最後にたどり着くのが、実物大の未来模型だとか。エディ少年は、その未来の明るさに大きな感銘を受けます。
パワーズの冴えまくった描写は、まるでパビリオンを体験しているかのような気分にさせてくれます。でも、これはそもそもホブソン氏が子供たちに語って聞かせた話なんですよね。「父さんはことこまかに語る」。そのことが、少年時代の彼の興奮を伝えています。父の人格を形成したのは、その「フューチャラマ」の体験だったのかもしれない。語り手はそう思っています。「危険なほど明るさにあふれた」未来。

あの晩のことを考えると、ああすべきだった、こうすべきだったという思いでいっぱいになる。父が僕を主要時制の中に失っていくことに、僕はあらがわなかった。父がカウチの上でうつぶせに寝そべって、黄色い顔で、烈しく熱に浮かされ、内側からこみ上げてくる末期の吐き気を抑えつけて歪んだ笑みを浮かべているのを僕は見た。でも、僕の目に映るのは、父が僕に語ったとおりの、未来の伴侶を求めて書類審査に乗り出した、十六の少年だけだった。僕には少年が学校に通う姿が見える。晩にはウェイターの役割を完璧にこなし、グレン・ミラーのセレナーデを覚え、片手間に長距離バッターもめざし、高踏ルター派とも言うべき献身―背教―嫌悪から成る十代なかばのサイクルをどうにか通過し、技術者をめざして代数を難なくこなし、その年齢にしては真摯でありすぎる時期と不遜すぎる時期を交互にくり返し、そして何よりもまず、十八歳の誕生日が来て志願入隊できるようになるのを狂おしく待ち焦がれる一方で、三年前、一九六〇年の世界にハイライトをあてたゼネラルモーターズ社の〈フューチャラマ〉展示場で手に入れた鮮やかな青と白のピンを、普段着にもウェイターのダックテール・スーツにも合わないこともお構いなしに身につけている少年。ピンにはこう刻まれている――「僕は未来を見た」。

素晴らしい! この章の最後の部分ですが、ここ、すごいですね。幾重にも入り組んだ時間構造を一つのシーンに折り畳んでしまう、パワーズの構成力にゾクゾクします。病床の父を語り手は回想している。そして、その父はそこにいながら違う時間にいるかのようです。ひょっとしたら16歳の頃に戻っているのかもしれない。語り手は、かつて聞かされた若かりし頃の父の姿を、そこにダブらせる。アルバムをめくるように、というかパビリオンの展示を巡るように、16歳のエディ少年の姿が次々と浮かんでいく。そして、そのエディ少年が夢見ているのは、来たるべき未来…。
つまり、語り手が、回想の中でかつて聞かされた父の思い出を再構成しているわけですが、どこが「主要時制」かわからなくなるような、ちょっとしたトリップ感があります。そして後半、まるで時間軸を俯瞰で眺めているような描写から、ふいにピンバッジへと焦点が合うところがすごくいい。マクロからミクロへとカメラが一気に寄っていく感じですね。
「僕は未来を見た」。過去形の未来、ありえたかもしれない過去。ねじれた時制を持つ最後のひと言に、このシーンの複雑な時間層が凝縮されています。「ああすべきだった、こうすべきだったという思いでいっぱいになる」と語り出され、「僕は未来を見た」で終わる。なんて鮮やかな着地!


「5」の章。
エドワード・ジュニアとアーティは、ボールをパスし合いながら父の病気について語り合います。ここは、エディ・ジュニアのキャラクターにスポットを当てた章になるのかな。父と同じ名前を持つ、ホブソン兄弟姉妹の末っ子、もう一人のエドワード。アーティはエディを、社交的で「ギャグを決める天賦の才がある」と評しています。
よく「会話はキャッチボール」なんてことを言いますが、ここで描かれているのは文字通りボールを投げ合いながらの会話です。男の子同士に返ったかのような二人のやりとりは、例によってジョークと内省に彩られていて、なかなか面白い。もちろん、話題は父の病気について。そして、二人の意見は真っ二つに分かれます。
そこへ母親が二人を呼びにくる。「お邪魔じゃないわよね?」。

エディは跳び起きて、「さっさと要点を話してよ、母さん」と言いたげなうなり声を装いながら、母親の両肩をつかんで揺すった。ずっと埋もれていた記憶から、「肝腎かなめのところを言ってもらおうじゃないの」という古いフレーズを掘り起こしたエディは、どこでこのジェスチャーを学んだのかを悟り、と同時に、以前は自分たちを叱りつけていたその女性がすっかり縮んでしまって、いま目の前で丁重な笑みとともに罰に甘んじている女性と化していることに愕然とした。
「お父さんが」母さんは話し出す。笑みがますます露骨になっていく。「病院に行くって」。
「父さんがどうしたって?」とエディは叫び、そのあと母が答えようとするのをさえぎった。「いったいどうやって父さんを説得したんだい?」
「ただ頼んだだけよ」。母さんはそう言って、よくやった、と息子たちが言ってくれるのを待った。だがエディは、結果を喜ぶ一方で、その結果をもたらしたやり方が全然間違っていると思っていた。

前半の、母親がすっかり小さくなってしまったというあたりは、おそらく誰もが覚えのあるところでしょう。ただそのことに気づくのが、母親そっくりのジェスチャーを母に対して行なったときというあたりに、ある種の痛ましさというか切なさみたいなものを感じます。「記憶」というのも、この作品にしばしば登場するモチーフですね。家族には、家族の歴史や記憶があって、それがその家族を縛りつけている。
そしてそのあとの急展開。というか、拍子抜け。行くんだ、病院に。でも、「やり方が全然間違っている」とは、どういうことなんでしょう…? 少なくとも、病院に行って「はい解決」ということではなさそうですね。ここからようやくスタート。まだ、物語は動き出したばかりです。


ということで、今日はここ(P108)まで。知性と感傷。これもまた「ジレンマ」かもしれません家族の関係を描くシーンに、パワーズの感傷がチラリと覗きます。