『エコー・メイカー』リチャード・パワーズ

エコー・メイカー
読んでる途中で書こうと思ってたんですが、思いのほかぐいぐい読んじゃったので、今回は「読み終えたので書いておく」です。その本とは、去年翻訳が出たこれ。
『エコー・メイカー』リチャード・パワーズ
です。
リチャード・パワーズ最新作。全米図書賞受賞作だそうです。パワーズはかなり好きな作家で、これまで『舞踏会へ向かう三人の農夫』『囚人のジレンマ』『ガラテイア2.2』を読んでます。『エコー・メイカー』の前に出た『われらが歌う時』は未読。
僕が思うパワーズの魅力は、一見関わりのなさそうないくつもの題材を緻密に組み立てて一つの作品にまとめあげてしまう構成力と、知的なひねりがありかつ詩的な広がりを感じさせる文体。その凝った構成と複雑な文体のおかげで、作品の情報量がとんでもなく多い、という印象があります。しかもどの作品もかなりな重量級。『エコー・メイカー』も600ページ越え、となっています。
とは言うものの、この『エコー・メイカー』は、これまで読んだパワーズ作品の中では最も読みやすかった。ミステリ的な謎があるということと、文章が以前の作品ほどねじれていないせいでしょうか。もちろん、いちいち頭をひねらないと先へ進めないような以前のパワーズも大好きなんですけどね。


物語は、カナダヅルが夕暮れの川に次々と降り立つシーンから始まります。二月下旬。この渡りの季節になると、毎年、50万羽の鶴がこの川に飛来するとか。そして、あたりは闇に包まれていく。

今夜、鶴はまた網状河川の浅瀬で群れている。あと一時間ほどは集団的な鳴き声をうつろな空中に響かせるだろう。早く出発したいとそわそわして、羽搏きを繰り返す鳥。霜に覆われた木の小枝を嘴で裂き、宙にはね散らかす鳥。焦れて喧嘩を始めたりもする。やがて鶴たちは長い脚で立ったまま用心深く眠りにつく。大半は川の浅瀬で寝(やす)むが、少し離れた刈り株だらけの畑にいる鳥もいる。
ブレーキの軋り音、アスファルトの路上での金属の激突音、そして一つの叫び声と、それに続く叫び声が、群れを目覚めさせる。一台のトラックが宙に弧を描き、道路脇の溝に飛びこんでひっくり返る。鶴の群れが羽毛を散らす。群れは羽搏いて地面から浮きあがる。恐慌に陥った絨毯が空に持ちあがり、旋回して、また降りてくる。鶴の二倍ほどある生き物が発したかと思えるような叫びは数キロ先まで伝わって消え入る。

非常に映像的なシーンです。夜更けの道路で起こる交通事故。書きようによってはいくらでも派手になりそうな場面ですが、ロングショットで捉えた映像のように、カメラは取り乱すことなく群れとしての鶴を映し続ける。「恐慌に陥った絨毯」というイメージが美しいですね。
この次のシーンは、「弟は私を必要としている」というフレーズから始まります。カリン・シュルーターという女性が交通事故にあって入院している弟の元へ向かうところ。鶴のシーンでは点景として描かれていた事故が一気に物語の全面に迫り出してくるという、この鮮やかな場面展開にシビレます。ほとんど映画的と言ってもいい。
カリンは、故郷であるネブラスカ州の町カーニーを出て暮らしていたんですが、弟マークの事故を知りこの町に戻ってきたところ。彼女は入院している弟に献身的に付き添います。すでに両親を亡くしてしまったシュルーター姉弟にとって、互いが唯一の肉親なんですよ。そして、非常にゆっくりとしたペースですが、昏睡状態だったマークは意識を取り戻し、ベッドから起き上がり、おうむ返しに言葉を発するようになります。
このあたりは、カリンのヒリヒリとした祈るような思いが伝わってきて、読んでいると息が詰まるようです。例えば、マークのガールフレンドが見舞いにくるシーン。カリンは妙に気詰まりになり病室を出てしまいます。

「ちょっと用事があるから」と言い置いて部屋を出た。コートも着ないで測量ロープのようにまっすぐ向かったのは一週間ほど前からそこへ行くことを白昼夢に見ていた〈シェル〉のガソリンスタンドだった。カウンターにちょうどの代金を置いて、マルボロ一箱を注文した。店員は笑って二ドル足りないことを教えた。最後に煙草を買ってから六年たつが、ニコチン抜きで暮らす間に値段が倍になっていた。不足分を払い、収穫物を持って外に出る。一本唇の間にはさむと、フィルターの感触だけでぞわっと来た。震える手で火をつけ、煙を吸いこむ。肺の中に言いようのない安らぎの雲が広がって四肢に染みこんだ。目をつぶって一本の半分を吸い、丁寧に火を消して、吸い残しを箱に戻す。病院に引き返し、馬蹄型の車寄せのガラスのスライドドアのすぐ外にある冷たいベンチに腰かけて、残りの半分を吸った。できるだけブレーキをかけながら転落することにしよう。六年間の華々しい勝利を収める前の状態へ、長い時間をかけてゆっくりと引き返そう。ニコチンの奴隷になるまでの一歩一歩をしっかり味わうのだ。

禁煙期間をリセットしてまで、一服せずにはいられない。この寄る辺なさは、ちょっとたまらないものがあります。僕も入院していたことがあるんですが、病院の外にある冷え冷えとしたベンチというのは、なんとももの寂しいんですよ。「できるだけブレーキをかけながら転落することにしよう」というフレーズに、ドキッとさせられます。この先どうなるかわからない不安の中で、張り詰めていたものがふっと途切れ、うっすらとした諦めが降り積もっていく。
さらに、シュルーター兄弟の受難は続きます。まず、マークの交通事故はいろいろと不審な点がある。何故人気のない道路で事故を起こしたのか、道路に残された三つのタイヤ痕や通報の電話の主は誰なのか、そしてマークの病室に残されていた謎のメモは誰が何のために書いたのか。こうした謎が、物語を引っ張っていきます。
そしてもう一つ。徐々に回復してきたマークは会話もできるようになるんですが、なんとカリンが誰だかわからないんですよ。マークは彼女に向かって、「あんたここで何やってんだよ」と言い放ちます。「姉? あんた俺の姉貴のつもりなのか」。マークとの会話を心より待ち望んでいたカリンにとって、非常に残酷な展開。
これは、脳の障害によって起こる「カプグラ症候群」というもの。ショッキングなのは、最も親しい相手に対してこの現象が起こるということです。脳の認識と感情を結びつける部分が機能を失ってしまい、好意を抱くはずの相手に感情が湧かない。その埋め合わせをするように脳内で相手を「偽物」と認識する、ということのようです。
ショックを受けたカリンは神経科学者でベストセラー作家のウェーバーを知り、すがるような思いで弟の状態を伝えます。マークの症状に関心を持ったウェーバーは、ニューヨークからネブラスカへやってくる。しかし、ウェーバーは本にできそうな症例を一通り確認したらさっさと帰ってしまいます。脳の不思議に関心はあるけれど、シュルーター姉弟には関心はないと言わんばかりです。
と、このあたりまでが、この作品のだいたい1/3くらい。このあと、マークの妄想はどんどんひどくなっていく。そして、マークの友人たちやガールフレンド、カリンの元カレたち、リハビリセンターの看護助手の女性、ウェーバーとその妻などの様々な人生が交錯してくことになります。
面白いのは、読み進めていくうちに登場人物たちの印象がじわじわと変わっていくこと。章ごとにカリン、マーク、ウェーバーという具合に視点となる人物が変わるんですが、カリンの視点で語られていた彼女とマークやウェーバーから見た彼女は微妙なズレがある。読んでいくうちにそのズレがどんどん大きくなっていくんですよ。まるで、マークの妄想が進行していくのに呼応するかのように…。
カリンだけじゃありません。このズレは、ほとんどの主要人物に対して見られます。「この人、こんなにやっかいな人だったのか…」「え、この人も…」という感じで、誰もが内面にやっかいな問題を抱えていることが、皮を剥くように次々と明らかになっていく。「自分が患っている症候群を知る者はいない」とありますが、だとしたら、カプグラ症候群に限らず誰もが自己イメージと現実の自分との間で引き裂かれていてもおかしくない。マークの障害をきっかけに、それがエコーのように波及していくんですよ。
パワーズがすごいのは、それを911以降のアメリカの状況や際限のない自然破壊といった問題にまで広げてみせること。この作品は、2011年9月11日から半年後、アメリカ全体が疑心暗鬼になっていた時期の物語なんですが、これはカプグラ症候群の不安とリンクしています。また、田舎町の再開発により風景がどんどん変わっていく様は、町ごと偽物に取り替えられてしまったかのような印象があります。
周りが信じられないということは、自分も信じられないということです。この作品では、何度も自我の不確かさが語られます。テロとの戦いも環境問題も、どこでこんなことになったのか? 私たちは本当にこんなことを望んでいたのか? 登場人物たちもまた、マークの症状を通して「自分の人生はこれでよかったんだろうか?」という問題に直面させられます。例えば、カリンが心情を吐露するシーン。

「つまり、今のマークのほうが好きってことかい」
「それは違う! もちろん違うんだけど、何ていうか……昔の弟が考えてた私より、今の弟が考えてる私のほうが好きなの。いや、私じゃなくて、〝本物のカリン〟ということだけど。つまり、今のあの子が考えている昔の私が好きなの。あの子は昔の私をみんなに対して弁護してくれる。二年前には、本物のカリンはあの子にとってどうしようもない姉だった。いつもがっかりさせてばかり。尻軽で、告げ口やで、守銭奴で、貧乏人の娘のくせに高望みして、気取った中流になりたがる女だった。なのに今では、本物のカリンはなんか歴史の被害者って感じ。それは私にはなれなかった姉なのよ」

もう取り返しのつかないところまできてしまった。本物は失われてしまった。でも、「本物」っていったい何なんでしょうか? カリンは気づいていませんが、マークはちゃんと「本物のカリン」がやっかいでどうしようもない人物だってことをわかってるんですよ。それでも、本物の姉であるという一点で彼女を信じている。いや、簡単に結論は出さないでおきましょう。ただ、そのくらい自我や他者によるイメージってのは不確かでねじれているということです。そして、そんなに不確かなものをそれでも「信じる」ことができるという脳の不思議に驚かずにはいられません。
自我の危機に陥ったとき、マークは脳内で周囲が偽物だという「物語」を作り上げます。カリンはそのことに絶望するわけですが、一方でその「物語」がマークにとってはシェルターになっている。パワーズはここから、物語のギリギリの可能性を探っているように思えます。
脳内である物語が形作られていく様子を、この作品ではこんな風に表現していました。「夜の森の中で何十人もの迷える斥候がちゃちな懐中電灯を振りながらさまよっている」。これは、この小説でも同じことが言えます。登場人物たちはみな、迷子になってしまったかのように人生の途上で途方に暮れています。それでも何かの物語を紡ごうと右往左往している。それはまるで、痛ましくて滑稽なダンスのようでもあります。
でも、物語にできることとはいったい何なのでしょうか? それは「共感」ということかもしれません。ウェーバーは、ミラー・ニューロンというものが引き起こす共感の奇跡について、何度も思いを馳せます。共感の素晴らしいところは、エコーのように伝わっていくこと。終盤、諸々の謎が解け、様々なピースがつながり、脳科学911エコロジーと家族の問題が、一つの大きな絵を描き出すとき、その隅々まで響くエコーに圧倒されます。

夜明けの兆候が出はじめる頃、二人は車で例の畑へ向かう。ウェーバーは身体に貯えた右折左折の記憶を頼りに道を見つける。前方の夜はすでに散り散りになっていたが、群れはまだ浅瀬を歩いている。ウェーバーとバーバラは例の穴倉に陣取る。一番近い鳥はほんの三メートルほどのところにいる。二人は気を張り詰めて音を立てないようにするが、その動きが地上に残っている鶴たちへの警鐘となる。群れの中に覚知の波が広がる。鶴たちが一羽ずつ、あるいは揃って動揺する。が、まもなく危険が去って落ち着く。広がってくる光の中で、朝の普通のたどたどしいお喋りを始め、そこここで試みにバレエの動作がはじける。
「言ったでしょ」とバーバラが囁く。「生きているものはみんな踊るって」

美しい鶴の群舞を見た彼らは、ある行動に出る。そうやってそれぞれの物語を紡いでいく。エコーが伝わるように。誰に決められたわけでもなく鶴が何代にも渡って群舞をくり返すように。
もしくは、マークの病室に残されていた謎のメモ。そこにはこう書かれていました。

私は何者でもない
でも今夜ノースライン・ロードで
神さまが私をあなたのもとへ導いてくれた
あなたが生き延びるように
そして別の誰かを連れてきてくれるように

そうやって、生きることが手渡されていく。生き延びる者を見て、別の誰かがまた生き延びる。
例によってパワーズの作品は、解答を与えてくれはしません。でも、いくつもの問いの後ろにかすかな希望の可能性が見える。痛ましく滑稽なこの物語がじわじわと沁み込んでくるとき、読者もまたエコーに包まれます。読みながら、僕は何度も「自分の人生はこれでよかったんだろうか?」という気持ちになりました。非常に苦しい気持ちになると同時に、そう感じることが希望でもあるような不思議な読後感。
そう、たとえ痛ましく滑稽なダンスだとしても、生きているものはみんな踊るんです。