『青い脂』ウラジーミル・ソローキン【6】


いやあ、凄かった。弩級とか破格とか、そういうレベル。莫言レイナルド・アレナス、ヴィトルド・ゴンブローヴィッチなんかにも通じる過剰さ。「やりすぎ文学」と呼びたいです。
物語は全体で3つのパートに分かれています。最初のパートは、2068年、遺伝子研18という施設のボリスという人物が恋人に宛てた手紙です。何通にも渡って送られるこの手紙は新露語で書かれているという設定のため、わけのわからない造語や慣用表現の嵐。ほとんど意味不明というやりすぎっぷりです。次のパートは、遺伝子研18から青脂を奪ったロシア大地交合者教団による青脂のリレー。地下施設の下へ下へと降りていくしつこい反復と、この謎の組織の奇妙さもまたやりすぎ。最後のパートは、1954年のロシアを舞台にした歴史改変SF。ロシア史を彩る歴史上の人物たちが繰り広げる、陰謀と性愛の物語となっています。キャラの壊れ方や歴史のいじり方は、悪意を感じるほどの不真面目さ。これまた、やりすぎ。
しかも、これらのパート全編を通じて、精液と血と糞にまみれたえげつない描写がてんこ盛りです。僕は何度も漫☆画太郎の絵が脳裏に浮かびました。さらに、どうすればこんなことを思いつくんだというような、ぶっ飛んだ奇想もてんこ盛り。驚きを通り越して、笑っちゃいます。一応SF的な作りになってたりしますが、藤子不二雄のSFが「すこしふしぎな物語」の略だとしたら、ソローキンのこれは「すごくふざけた物語」ですね。人によっては、「すごく不快な物語」かもしれませんが。
さらにさらに、すべてのパートに小説内小説などの別テキストが挿入されているという、出血脱糞射精大サービス。これがまたいちいち面白いんだ。一つとして普通の物語はなく、どこかしらイカレている。ものによってはどこもかしこもイカレている。
どうです? 僕が過剰だという意味がおわかりいただけたでしょうか。読みどころ満載、笑いどころ満載、吐きどころ満載、狂いどころ満載。最高です。


そも文豪クローンの体内に蓄積される青脂、という設定からして狂ってます。この「青脂」をめぐって、すべてのパートの登場人物たちが右往左往するにもかかわらず、それが何なのかは読み終えた今もさっぱりわからない。一応説明はされるんですけどね。この作品に出てくるあらゆる説明は、混乱させるためにあるとしか思えないわけで、「結局のところ何なの?」ということになる。
まあ、わからないなりに考えてみるとして、文豪クローンに蓄積されるということから、ひとまず文学に関する何かだ、と仮定してみましょうか。

「いいか……何かがロシア文学に起こっている。それが何なのか、今のところはわからないが」
「腐ってるのか?」
「たぶんな」
「そう、ぼくたちはみんな腐っている。成長をやめた途端、人間は腐りだすんだ」

これは、スターリンとフルチショフの会話です。文学も社会も、単なる制度と化してしまうと、本来の生き生きとした意味が失われていく。例えば、見たことのない表現の新鮮な驚きは、それが定着するにしたがって消えていくでしょ。そして腐臭を放ち始める。ならば、燃えもせず凍りもせず腐ることもない青脂は、文学のエッセンスみたいなものかもしれません。それを再度、強引に文学にドーピングしてみる。ソヴィエト文学にとって永遠に重要な「注射器のテーマ」を思い出しましょう。もしくは、ヒトラーのこんなセリフ。

「ただ血のみが……ただ新しい血のみが世界を救うのだ……」

世界を再生させるために、青脂をドーピングする。ドーピングされた文学は、見たことのない言葉で思いもよらぬことを描き出します。当たり前だと思っていることを排泄し、つながりそうもないものを交合させます。それも、徹底的に。やりすぎても、やりすぎてもやめません。
制度を揺さぶり壊し、押し広げる。どこまでも、宇宙の果てまでどこまでも。これが僕の考える青脂の効能であり、ソローキンがやりすぎる理由です。「これが文学か?」という問いは意味がありません。「これも文学だ」と言うためにやっている。めちゃくちゃな作品ですが、だからこそ味わったことのない宇宙が広がっている。「俺の星にキスをしな」。肛門を覗いてみれば、そこは青い青い宇宙です。


ということで、『青い脂』はこれでおしまい。それでは皆さん、最後にご一緒に、リプス!