『バカカイ――ゴンブローヴィチ短篇集』ヴィトルド・ゴンブローヴィチ【1】


バカカイ―ゴンブローヴィチ短篇集
『エコー・メイカー』が、ガッツリした長編だったので、今回は短編集を読みます。こちら。
『バカカイ――ゴンブローヴィチ短篇集』ヴィトルド・ゴンブローヴィチ
です。
以前読んだ『フェルディドゥルケ』のヴィトルド・ゴンブローヴィッチです。表記が「ゴンブローヴィッチ」だったり「ゴンブローヴィチ」だったり、さらに他の作品では「ゴンブロヴィッチ」だったりしてややこしい。そのゴンブロさんは、ポーランドの作家でこの作品は生前最後の短編集だとか。『フェルディドゥルケ』には、「子どもに裏打ちされたフィリドル」と「子どもに裏打ちされたフィリベルト」というかなーりぶっ飛んだ短編小説が挿入されていたんですが、そもそもはこの短編集に収録されていたものだそうです。しかも、短編集のタイトルが『バカカイ』ですよ。何だ、そりゃ? ふざけた匂いがプンプンします。日本語版は「子どもに裏打ちされた」2編を除く10作品を収録。
では、いきます。


「クライコフスキ弁護士の舞踏手」
いきなり、ぶっ飛んだ話で気に入りました。笑えます。
語り手である「おれ」は、劇場の列を無視して横入りしようとする。すると、小粋な紳士に咎められ、襟首を掴まれて列に戻されてしまいます。そのあとの「おれ」の反応が可笑しい。

衆人環視のなかだから、おれとても一言なしには済まされない。
「お宅ですね、ご親切は」――恐らくは皮肉まじりの、凄みさえ効かせた調子で訊いたつもりなのに、にわかに弱気がさして、その声が細くなった。
「えっ?」向こうは聞き直し、おれのほうに身を傾けた。
「お宅ですね、ご親切は」――おれは繰り返したが、またも声が小さすぎた。

ダサっ。そもそも自分が悪いんですよ。なのに逆ギレして言い返そうとして、ここぞというところで相手の立派さに臆しちゃったんだろうな。「お宅ですね、ご親切は」ってのが、また笑えます。イヤミのつもりが、声が小さすぎてどうにもしまらない。
このあとがさらに可笑しいんですが、これをきっかけに主人公の「おれ」は、この紳士・クライコフスキ弁護士に魅了されてしまいます。彼は、気づかれないように弁護士のあとをつけ回し、敬愛のしるしをそれとなくチラつかせることに腐心する。わざと弁護士の前を歩いて、その足元へスミレの花を放ったりするんですよ。何やってんだか…。
この「おれ」の行動はどんどんエスカレートしていきます。何をするかは書きませんが、非常にうざい。問題は、彼は嫌がらせでやってるんじゃないということです。むしろ崇拝の念からこういう行動に出ている。この作品が書かれたのが1928〜33年。もちろんその頃はそんな言葉はありませんでしたが、これはどう見ても「ストーカー」でしょう。
例えば、弁護士の食事を観察するために、わざわざ同じ時刻に同じレストランで同じものを注文して食事をする。そして夜中の二時に家に帰ってきてこう言うんですよ。

レストランの夜――とおれは呟いた――夜中の大遊び! 生まれて最初の夜遊び! あの人のせい――あの人のために!

乙女か! うっとりしすぎです。主人公は少なくとも青年といった年齢に達しているはずですが、「生まれて最初の夜遊び」ってのは随分とウブですね。いや、病気のせいかもしれません。彼は、あと1年と生きられない体だとか。いつ死んでもおかしくないなら、好きなようにやろうじゃないか。で、その結果がストーキングというわけです。いろいろとやっかいな男ですね。
弁護士先生は成功者であり、主人公は社会からこぼれてしまってるようなタイプ。最初は成功者へ反発するわけですが、結局魅了されちゃうってのは、何だかんだ言っても権威に弱いということでしょう。ゴンブローヴィチの悪意は、主人公にも弁護士にも向けられている。ああ、黒いなあ。


「ステファン・チャルニェツキの手記」
狂信的な母親と人種差別主義者の父親の間に生まれた青年、ステファン・チャルニェツキの半生。母親がユダヤ系だということがチラチラとほのめかされていますが、ステファンは生粋のポーランド人になろうと一生懸命です。愛国心を示そうと軍隊に入隊。そして戦争を経て、ある結論に達します。その結論は書きませんが、反論を先取りして彼はこう言います。

「ほほう」と諸君は叫ぶだろう。「プログラムは非現実的だし、方法はばかげていて、わけが分からん!」と。よろしい、それならば、諸君のプログラムはもっと現実的だし、諸君の方法はもっとわけが分かるというのであるか? プログラムにせよ、方法にせよぼくは何も固執しない。

うるせえよ、と言ってるわけです。知るか、と言ってるわけです。非現実的でわけが分からないのは世の中のほうだと、唾を吐いているわけです。


「計画犯罪」
タイトル通り、ミステリータッチの作品。でも、問題は事件がどこにも存在しないことです。
判事見習いの主人公「ぼく」が、田舎の地主のお屋敷を訪問します。ところが、その地主はちょうど亡くなったところで、家族は訪問者にかかずらわってる場合じゃないという状況。で、ぞんざいに扱われた主人公は、なんだか怪しいぞとばかりに犯罪捜査を始めるという展開。なんか、プライド高そうな人でイヤですね。

これをしも、ばかげた勘ぐり、滑稽千万と嘲る向きには(あの露骨なごまかしぶりのほうがよほど笑止だ)、たったいまぼくが悔し紛れにカラーをかなぐり捨て、踏みにじったことを忘れてもらっては困る――この恨みがあればこそ、ぼくの洞察力は狭まり、意識は曇っている。自分の奇矯な行動に対してぼくが全責任を負えないのは明らかだ。

なんて手前勝手な理屈! 逆上しちゃったんだから、おかしな行動をとったとしてもしょうがないじゃないかってことでしょ。威張って言うことか? いちいち偉そうなんですよ、この主人公は。自らを「予審判事」と呼び、権威を振りかざしたり、妙に気取ってみせたり。見習いのくせにさっ!

ぼくの同業の大多数はこの時点で諦めるだろうが、ぼくは断じて否だ。これまででも、おれは十分に笑い物だったし、執念深く、深追いしすぎた。おれは指一本を立て、眉を寄せた。――諸君、犯罪は向こうからやってこない、犯罪とは思考と熟慮とアイデアで作り出すものだ――棚からぼた餅は落ちてこない。

証拠どころか、犯行の形跡すらないんですよ。ところが、一人称が「ぼく」から「おれ」に変化するように、主人公はぐいぐい行きます。またしても暴走キャラです。何だって、ゴンブローヴィチの描く人物はこうも聞き分けがないんでしょう。犯罪は「作り出すものだ」って、冤罪だよ、それは。
しかも、形跡なんてものは副次的なものであって、「犯罪者側からする当局向けのあいさつ」だとまで言い出す始末。もう思い込んだら止まりません。彼のデタラメな理屈を読んでいるだけで、可笑しくてたまらない。中でも僕が一番可笑しかったのは、彼が披露する犯罪の事例。

もうひとつだけ言えば、これはある大貴族の家庭で起こった事件だが、その家の息子が母親を殺害した。その方法というのが――母親に向かって、『お掛けなさい』『お掛けなさい』としょっちゅう繰り返して、むかむかさせるいじめなのです。

くだらなすぎ! それは、犯罪じゃないでしょ。自分で「いじめ」だって言っちゃってるじゃん!


「コットウーバイ伯爵夫人の招宴」
都市生活者(ブルジョア)の主人公が、伯爵夫人からディナーに招待されるというお話。ああ、憧れのハイソサエティ! 貴族に招かれるなんてと、彼はえらく舞い上がります。勢い込んだ彼は、食事の席で脚韻を踏んだ高尚な会話を披露したりする。
このあたり、いかにも偽善的で可笑しいんですが、ひどいのがこのあと。ちょっとしたきっかけで、主人公は貴族たちにねちねちなぶられるという展開に。わざと彼にはわからないような話をして爆笑するとか、いやったらしい限り。まるで筒井康隆の小説のようです。
貴族社会には複雑なコードがあって、単なる金持ちのブルジョアはそのコードを知らないためとことんバカにされるということなのでしょうが、本当にそれだけかな? 伯爵夫人は、単にいじめたくてやってるようにしか思えない。こんな歌まで歌い出しますからね、彼女は。

ザリガニをおいしく食べるにはちょいといじめ
七面鳥を肥らすにはちょいとからかう

つまり、招待された主人公はディナーの肴にされているわけです。ハイソの仲間入りなんて浮かれてるから、そういう目にあうんですよ。この食事会、菜食だと言いながらあちこちにカニバリズムを匂わすフレーズが出てきます。それによって、善良そうな貴族の仮面の下にある残酷さが見えてくるという仕掛け。主人公も主人公なら、貴族も貴族です。


ということで、今日はここ(P119)まで。どれも、似たようなテーマを描いているという気がします。権威でもって抑圧する側とされる側は、どちらも権威主義の虜になっているというようなこととか。ゴンブロさんは、ホントに権威が嫌いなんでしょうね。あと今のところ、うざい人物しか出てきてません。