『バカカイ――ゴンブローヴィチ短篇集』ヴィトルド・ゴンブローヴィチ【2】


ゴンブローヴィチの作品を読んでいると、筒井康隆やらモンティ・パイソンなど、ブラックユーモアの名手の名前が次々と連想されます。しかも、この短編集に収録されている作品は、1928〜38年に書かれたものだとか。やるなあ、ゴンブロ。
では、続きです。


「純潔」
アリツィアという乙女とフィアンセの青年パヴェヴのお話。「純潔」を精神の大原則とするパヴェヴにとってアリツィアは「純潔の権化」であり、それ故に彼女を愛しているということのようですが、彼の純潔への異常な執着が気になります。処女に対する幻想が染み付いちゃってるというか。彼の内心の声は、例えばこんな感じ。

そもそも純潔なるものがこんな俗世間に許されていようとは、なんたる造化の奇蹟か。純潔――そう呼ばれる以上は、薄壁一枚に隔てられ、閉ざされ、孤立した意識以前の存在と言う特別なカテゴリーである。不安な期待のなかで彼女たちは一様に身を震わせ、深々と息を吐き、ひしめき合い、他方、自分らが周囲とは異質であること、卑猥から守る鍵の下りていること、それとて、単なる形容や修辞どころか、正真正銘の厳重な封印で封じられていること――には、あどけなく無知なのだ。

いちいち大げさというか、大演説のテンションです。その他にも「純潔をしっかり愛するには、その本人が純潔で没意識であるべきだ」「サラダ菜は二十日大根より純潔だから」「人間どもは郷愁のような憧れに燃えて純潔に夢中になった」「純潔の世界、恋愛の世界とは魔法めいた奇行に満ちたものだ」「純潔性において王制は共和制を上回る」「純潔と神秘――この両者は一体である」とかなんとか。ああもう、純潔、純潔、うるさいよ。1ページに何回言えば気が済むのか。サラダ菜が純潔とか、王制が純潔とか、まったくわけがわかりませんが、彼は世界の全てを純潔基準で眺めているんでしょう。
でも、彼女も同じように考えてるわけじゃあないんですね。自らの純潔性には無知な乙女ですから。彼女が考えている「純潔」は、彼の考える「純潔」とは違う。そして、純潔性を突き詰めるためにとんでもないことをするのは、この純真な乙女のほうなんですよ。わぁお。


「冒険」
冒頭からいきます。

一九三〇年九月、わたしはカイロ行きの船上から地中海へ転落した。当時、海は穏やかで、波ひとつなかったから、落ちたときは巨大なしぶきが上がった。けれども、船のほうでわたしの転落に気づいてくれたのは数分後のことであり、そのときはすでに一キロ半も遠ざかっていた――ようやく船は旋回して針路をこちらへ向けたのであるが、船長がのぼせあがったあまりスピードを上げすぎたため、わたしが塩からい水にむせんでいるあたりを、船の巨体は通りすぎてしまった。再び船首を翻して、船はねらいを定め直したのだが、またもやわたしのそばを列車のごとき快速でやりすごし、はるか遠くまで行ってからやっと止まった。同じことを繰り返すこと十回、まれに見る執拗さであった。

何やってんの? 行ったり来たりマンガのようですが、でもこれは本筋には関係ないエピソード。こういう変な過剰さが、あちこちに見られるところが面白いです。「まれに見る執拗さであった」なんて、妙に落ち着いてるところも可笑しい。
結局、別の船に助けられたところから主人公の冒険というか災難は始まります。とんでもないやり方で海に放り出されたり、伝染病患者だらけの島にたどり着いたりと、彼は大小様々な危機に出会います。そしてそれを、妙な落ち着きと冗談のようなでたらめさで切り抜ける。ゴンブロ版「ほら男爵の冒険」といった趣きです。中には、地球規模の事件まで登場するからびっくりです。

折も折、一個の巨大な火球がカスピ海に落ち、海水は一瞬にして残らず蒸発した。膨れ上がった巨大な雨雲の群れが地球をとり巻いて、しきりに飛び交い、大洪水再来の危険をひしと感じさせた。時おり、太陽は爆発を起こし、雪のあいだに高熱の炎をまき散らした。

って、カタストロフじゃん。作品全体の流れから考えると、これまた明らかにバランスを欠いている。まあ、ゴンブロさんの作品はどれもいびつなんですが。そして最後は、おなじみの危機「戦争」で終わります。「冒険」というタイトルが、皮肉に響きます。


「帆船バンベリ号上の出来事」
この短編集の中で、一番長い作品。間違えてバンベリ号に乗ってしまった主人公が目にする、船上のバカげた出来事がひたすら綴られます。これが、いちいち可笑しい。

ディック・ハーティーズという名の中部スコットランド出身の一船員が、後尾(ミズン)マストから垂れた細索(ほそづな)の尖端を不注意から呑み込んだのだ。思うに、食道の蠕動運動のせいらしいのだが、索(つな)は彼の躯の奥へぐいぐい引き込まれて行き、周囲が気づいたときには、男は索道を登り詰めるように、てっぺんまで舞い上がり、恐怖に青ざめ大口を開けたままでいた。

これも「ほら吹き男爵」的なエピソードですね。「食道の蠕動運動のせいらしいのだが」なんてもっともらしいことを言ってますが、それで綱を上ってっちゃうってのがバカバカしい。マストの綱が食道をこする感触を想像するとかなり気分が悪いんですが、この手のグロテスクな笑いがゴンブロ印ですね。
さらに船長も気違いじみてます。自分が船長であることを主人公に見せつけたいあまりに、船員に無茶な命令をしようとしたり、それを止められるとこんなことをわめき出します。

わしは、感じ取ってほしいのだ、この船長クラークをだ、イチジクの葉一枚なしに、余計なものひとつ付けない、神さまがお創りになったそのままのこのわしを。プレスのかかった白ズボン、モール付きの制帽など唾をひっかけてやる! わしは脱ぎたい、裸になりたい――分かるか、君! 素っ裸で毛だらけなまんま!

もう、困らせないでほしい。十分わかったから、あんたが偉いのは。だから落ち着いて。さっきまでにこやかに談笑していたと思ったら、どこに地雷があるのかさっぱりわからないまま、突如ファナティックになるからやっかいです。まるで、モンティ・パイソンでいきなり切れ出すジョン・クリーズのようです。
とまあ、こんな調子で船の旅は進んでいきます。これまた前作同様「航海もの」なんですが、ここには「冒険」は出てきません。というのも、実は退屈なんですよ、海の上は。だだっぴろい海をひたすら進むだけ。あー、暇。この退屈のせいで、船乗りたちの奇行はエスカレートしていきます。
最初は、船長にそれとなく注意したりしていた主人公ですが、あの船長ですからね。話が通じるわけがない。結局、船上での目に余るムチャクチャぶりに、主人公は自分の船室に閉じこもってしまう。正気なのは自分だけだというわけです。でも、どうかな?
「余の好みを言うならば、秋の日の灰色のたそがれ、さもなくば、霧深い明け方であり、これ見よがしの派手派手しさは好まない」なんて主人公は言ったりしてますが、船員のバカっぷりにすっかり魅せられてしまった僕は、なぁーにが「余の好みを言うならば」だよ、カッコつけやがって、という気持ちになってくる。狂ってるのは実は「余」のほうかもしれないよ、と。


ということで、今日はここ(P216)まで。それにしても、変な話しか出てきませんね。って、ほめてるんですが。