『告白』町田康【4】


僕は河内弁がどんなものなのかよく知らないんですが、町田康の独特の言語感覚は、読んでいて非常に面白いです。例えば、女子といちゃつくことを、「じゃらじゃらする」と表現するんですよ。いいなあ、これ。使ってみたいなあ。


では、続きです。
まっとうになろうと思った熊太郎は、博奕を止めて百姓仕事に精を出そうと誓います。翌朝早く起きて、畑を耕そうとする。このシーンは、めちゃめちゃ可笑しいです。

くほほ。なんたらせせこましい田圃(たんぼ)だろうか。人間というのはこんなわずかな土地に田を作って生活している。いじらしいというか、微笑ましいというか、まあそれが営みというものなのだろう。くほほ。ほんの一回りじゃないか。よし、こんなもの俺ひとりで耕してやるよ。父や村の者らは二言目には、農作業、農作業と言うが、なんだこんなもの。夜を徹して丁半の目を読むほうがよほど神経だ。労(つか)れる。楽勝とはこのことだ。くほほ。
熊太郎はそう言って笑うと、いきなり鍬を振り上げて、がすっ、田に打ち込んだ。鍬は一寸かそこら土にめりこんだ。熊太郎は、ぐいと力をいれてこれを手前に引いた。土が隆起したかと思ったら、ばらばら、手前にこぼれた。
ほら耕った。けど、たがやった、というのは妙やね。耕された。誰が? 田が。田が。田が俺によって耕された。なんか妙やね。通常の百姓はこういう場合、なんていうのだろうか。田が耕すことができた? これもおかしい。
くほほ。また、耕った。ウウム。どうしても耕ったというのが俺のなかから出てくる自然な表現なのだけれども、これはやはり言葉としておかしいよ、と熊太郎がいちいちそんなことを考えるのは、たった二回鍬を振りおろしただけで田を耕すのが嫌になったからで、しかし正面から嫌だと思うとマジでできなくなるのでなんとか別のことを考えてごまかそうとしたからである。
正直なところでは熊太郎は、うわっ、面倒くさ。と思った。

こんな調子だから一向に田んぼは耕らない、じゃなかった、耕されない。あかんではないか。何が、「俺のなかから出てくる自然な表現」ですか。そんなことをつらつら考えてる間があったら、頭より体を動かせってなもんです。でも、熊太郎はできないんですよね、それが。思いと行動がギクシャクしてどうにも上手くつながらない。
ところで、「くほほ」っていう笑い声ですが、この作品にちょくちょく出てきます。これ、いいですよね。いかにも、お調子者というか、へらへらした感じが。ちなみに、「おほほん」っていう笑い声も、あちこちに出てきます。こっちは、もうちょっと澄ました感じかな。
熊太郎は、畑を耕すなんて楽勝だ、と思って始めるわけです。でも、それをするにはそれなりの時間がかかるんですよね。だから、すぐに疲れて飽きてしまう。しかも、同年代の者たちはみんな百姓になっているので、熊太郎が彼らに追いつこうと思ったら、人一倍努力して時間をかけなきゃ無理に決まっています。
でも、熊太郎は、根本的にそういうことがわかっていないんですよ。一瞬で勝負がつく丁半博奕に浸りきっていたため、地道な作業に耐えられない。作者の言葉を借りれば、「駄目なら駄目でよいからいま決めてください」というタイプ。今決めろというなら、もちろん「ダメ」です。というか、こういう考え方でいる時点でダメなんですよ。モノになるわけがない。かくして、熊太郎は農作業に挫折します。
さてもう一つ、熊太郎の関心事は、異性、つまり女です。20代ですからね。恋をしたいお年頃。でも、自然な会話ができない熊太郎が、女性とまともに話ができるわけがありません。みんなが普通にやっている恋愛というものが、熊太郎には上手くできない。野良仕事同様、やり方がわからない。
やっぱり自然に声をかけるところから始まるんだな、と思った熊太郎は、楽しそうに大根を洗っている娘たちに、勇気をふり絞って話しかけます。できるだけ自然な素振りを装って、「おお」と声をかける。すると娘たちは、急にお喋りを止め、身を固くして一心に大根を洗い始める。まあ、無視したわけです。それを見た熊太郎は、娘たちが「おお」を「おい」と聞き違え、怯えてしまったんだと解釈する。間違ってますけどね、その解釈。

悲しみ、そして娘たちの態度を訝りつつもそう思った熊太郎は自分は怪しいものではない、ということを説明しようと、できるだけ気さくな感じになるように留意して娘たちに話しかけた。
「いまわしは、おい、っていうてへんで。おお、ちゅたんやで。おお。ひさしぶりやなあ、みたいなね、そんな挨拶。へてから、なにしてん? ちゅたんも咎めてんにゃあれへにゃで。それはごく、気軽な、なにげない人間としての興味でなにしてん? てたんねただっきゃで。ちゅうか、なにしてるも、かにしてるもだいこ洗ろてんにゃろ。そんなもん見たら分かるわいな。分かるけどや、一応、なにしてん? 聞くやん? ほんだら、だいこ洗てまんね、ちゅうやん? ほんだ、ほーん、ええだいこやね、みたいなことちゅてね、話になって話がこう、なんちゅうの繋がっていくやんかあ。そういう軽い気持ちでいうただけやねんで。ちゅうか言うやん? 言えへん? どこ行っきゃ、とか、なにしてまんねん、とか言うやんか」

あーあ、完璧に空回り。軽い気持ちで話しかけただけだよ、ということを、こんなにくどくどと言うこと自体、自己矛盾です。しかも、自分の脳内でシュミレーションした会話を全部一人で言っちゃってるわけで、ここから軽い会話になんか戻れるわけがありません。まったくの逆効果。案の定、娘たちはますます怯えるばかり。
とは言うものの、自然に話そうとすればするほどギクシャクしていく感じってのは、僕にも身に覚えがあります。あれこれ意識しないことが自然な振る舞いにつながるわけで、自然にやろうと気張ってしまったら、もはや自然じゃないんですよ。ましてや思春期。女子と話すなんて、自意識過剰になって当たり前です。そう考えると、熊太郎、ちょっとかわいそう。
でも熊太郎はあきらめません。俺だってじゃらじゃらしたいっ! そんな熊太郎は、夏の盆踊りに賭けることにします。男女が出会うには格好のイベント。開放的な気分になって性愛のハードルが下るこのチャンスをものにしようと。
この盆踊りのシーンも、躍動感があっていいですね。ミュージシャン町田康は、盆踊りをロックのライブのように描き出します。

熊太郎は娘らがなかなか来ないことも気になって半乗りみたいな状態で踊り、ときおりヤレコラセェドッコイサ、ソラヨイトコサッサノソラヨイサと声を張り上げるなどしていた。
ところが最初のうちはそうして半乗りみたいな状態で踊っていた熊太郎であるが、リズムというものはおもしろいもので人間をどこか別の次元に連れていく。
踊るうちに熊太郎は全乗りになってきた。
熊太郎自身も気づかぬ間に動作が大きくなり、ヤレコラセェドッコイサ、ソラヨイトコサッサノソラヨイサ、囃す声も大きくなった。
頭が痺れたようになり、熊太郎の身体と音楽のリズムがひとつになった。熊太郎はリズムに乗って踊っていたのだけれども、熊太郎には自分が手足を動かすたびにリズムが変化するように思えた。或いは、身体とリズムが同時に律動しているように。
というのは熊太郎の周囲で踊っているその他の人々も同様で、熊太郎の周囲ではおっさんが盛り上がり、お婆ンが狂乱していた。ひとりびとりが個として音楽に向かいあうのではなく、ひとりびとりが音楽そのもの、全体そのものになっていた。

いつしかリズムに持ってかれてしまい、知らず知らずのうちに「全乗り」になっていく。ああわかる、わかるなあ。音楽がそのまんま体に直結する感じ。全身が音叉のようになって、リズムに震えているような感じ。演奏に合わせて踊っているうちに、自分もその演奏の一部になり、やがて音楽そのものになってしまうような感じ。一種のトランス状態。
熊太郎は内面の思索と外面の行動や言葉のギャップに悩んでいたわけですが、ここでは、うだうだした内面をすっ飛ばして体が動いている。僕が、ライブに行って感じる醍醐味もこのあたりにあります。体と音が同期していく喜び。熊太郎ほどではありませんが、僕も心と体のズレを感じることがよくあります。この手のタイプの人間にとって、音楽の開放感ってのはとても重要なんですよ。ギクシャクしていた体が、のびのび動き出すというか。
余談ですけど、パラパラみたいな踊りはまた別ですよ。あれは、体操みたいなもので、開放というより動きに拘束されているような印象があります。技を見せるという類のもので、「全乗り」とはほど遠い。
熊太郎は、踊りの輪の中で富という美しい娘を見初めます。そしてその勢いで彼女に声をかけようとするんですが、わざとらしくないようにと思うと、なかなか声をかけられない。このあたりの悪戦苦闘ぶりも、とても可笑しいです。
一方、祭の人の中に、「森の小鬼」こと葛木モヘアの姿を発見し、熊太郎は愕然とします。熊太郎が殺してしまった葛木ドールの弟ですね。何をするでもなく盆踊りを眺めているモヘアに、熊太郎は怯えます。モヘアに復讐されるんじゃないか? もしくは、自分の殺しがバレてしまうんじゃないか? 熊太郎は、慌てて盆踊りの場から逃げ出します。
家に向かう途中、熊太郎にちょっといいことがあります。何と、富に声をかけられるんですよ。「なんたら僥倖。なんたら幸運」と、熊太郎は舞い上がります。

「やっぱり、あんたわしのこと知ってたんか」
「そら知ってるわ」
「知ってるてやっぱりわしが飴やって、それ覚えてたちゅうことやろ」
「ちゃうやんか。それ子供のときのことやん」
「ほだ、なんで知ってんねん」
「そら知ってるわ。熊太郎さん、有名やもん」
「有名? わし、有名なん?」と熊太郎に問われて富はまた、くふふ、と笑った。
「有名や。みな噂してるわ」
「どうせ極道やとか、気ィおかしいとかそんなん言うてんにゃろ?」
「まあそやけど、わたしは気にせぇへんよ」
「ほんまか?」
「ほんまやんか」

うひゃー、よかったね、熊太郎! 河内弁は啖呵を切るのに向いていると思っていましたが、富の河内弁は可愛らしいですね。やわらかで、ちょっと親しげで。しかも、熊太郎の理解者ともとれる発言。そりゃあ、熊太郎のテンションも上がりますよ。
家に帰ってからも、熊太郎は、富のことを考えてはへらへらしています。ひょっとしたら、じゃらじゃらできるかもしれないっ! でもふと、葛木モヘアのことを考えると、気分は奈落の底へと真っ逆さま。また富のことを考えてくふふと笑い、モヘアのことを考えて絶望し、「ハッピーとバッドの間を輾転反側」。いいことばかりはありゃしない。


ということで、今日はここ(P242)まで。富との恋路は? 葛木モヘアの目的は? さあさあ、どうなる? どうなる熊太郎?